◎ティチェナーの著書の影響を受けた(時枝誠記)
根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「Ⅱ」の第四「卒業論文」を紹介している。本日は、その五回目。
さて時枝博士が言語は心的過程であるとするこの心的過程であるが、この語はさきに見たように早く博士の卒業論文に言語はプロセスであるというふうに見える。では博士はこの心的過程という語をどうして用いるようになったのであろうか。それはやはり博士の「私の国語学研究(最終講義)――過去と将来――」を読んでいくと、実をいうと自分が卒業論文にプロセスとか手段とか過程とかいう語を用いたのは、ちょうどその頃見たエドワード・ブラッドフォード・ティチェナー〔Edward Bradford Titchener〕という心理学者の書に、心理学とはメンタル・プロセスを研究する学問であると書かれていて、その影響を受けたと一言述べられている。ティチュナーは慶応三年〔一八六七〕イギリスに生まれ昭和二年〔一九二七〕に没した。オックスフォード大学で哲学を学び、ライプチヒ大学でヴンド〔Wilhelm Wundt〕のもとで心理学を研究し、のちアメリカに渡りコーネル大学の教授になった。彼はアメリカにおいてヴンド流の心理学を発展させた代表者であるが、晩年にはドイツに新たに起こりつつあったゲシュタルト学派や現象学的方法に興味を持ったといわれている。そこでティチェナーの『心理学概論』(岡島亀次郎訳、これは ‘A Primer of Psychology’ の改訂版を訳したもので、昭和四年刊、理想社出版部)を見ると、なるほど冒頭から精神は思考や感情を持つのではなくてほんとうはそれらであり、精神は思考、感情、その他の総計である。心理学はもっぱら過程の事柄を取り扱う科学であって、事件を出来事を進行するものを、過程を観察する。したがって、思考や感情も瞬間から瞬間へ動きつつあり移りつつある。この思考、感情、その他の総計としての精神はやはり過程の総計であるというふうに説いている。
この心的過程を言語のほうに移して、時枝博士の言語過程説ではソシュールが対象を概念と聴覚映像とから構成される単位に求めるのに対して、博士はこれを話手の主体的活動に求める。博士によると言語は概念と聴覚映像が結合して精神的実体として存在するのではなく、この二者の関係は継起的な心的現象に過ぎず、あたかもボタンを押すとベルが鳴るような現象に比すべきものとする。この心的過程は話手の遂行過程(概念→聴覚映像→音声)、空間伝達過程、 聞手の受容過程(音声→聴覚映像→概念)からなり、言語はそれ以外のものではないというのである。ところで、語を分類する場合もこのように考えられるが、語によってはこのうち概念の過程を欠くものがあり、概念過程を経るものを詞とし、経ないものを辞とした。いままで形式的に独立の語、非独立の語といったのを、博士がこのように内容的に説かれたのは大いなる進歩であった。【以下、次回】