礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記「橋本進吉博士と国語学」(1946年12月)

2020-09-27 19:18:44 | コラムと名言

◎時枝誠記「橋本進吉博士と国語学」(1946年12月)

 根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介している。本日は、その二回目。

    二
 さて昭和十八年〔一九四三〕三月に橋本進吉博士が東京大学教授を退官されたので、その年の六月十二日に知友門下生によって設けられた同博士還暦記念会では記念式をあげ祝宴を催した。その後時枝誠記博士の「言語学と言語史学との関係」という論文を巻頭に置いた『橋本博士還暦記念国語学論集』(昭和十九年十月)が刊行されて、まもなく橋本博士は逝かれた〔一九四五年一月三〇日〕。そして翌昭和二十一年〔一九四六〕三月十四日東京大学国語研究室において橋本博士の知友門下生が集まって故橋本博士一年祭が行われ、そこでもう博士の著作集を岩波書店から刊行することが決められている。ところで、時枝博士の「橋本博士と国語学」は橋本博士が亡くなられたすぐあと「国語と国文学」の追悼号〔一九四五年五月〕に書かれたものであり、もう一つは 著作集の第一冊目に「国語学概論」「国語学研究法」「国語学と国語教育」「国語と伝統」の四編を収めた『国語学概論』の解説として時枝博士が書かれたものである〔「橋本進吉博士と国語学」一九四六年一二月〕。いったい時枝博士の本領は国語学史にあったから二つながら橋本博士を明治、大正、昭和の国語学史の上に跡づけられるのであるが、さきのは昭和十八年七月に橋本博士を東京大学国語研究室会に招かれその時橋本博士からいろいろうかがった回想談を踏まえて書かれており、その研究室会の席上で橋本博士に昭和十八年の秋から東京大学の講義には国語規範論という題目で考えていきたいなどお話ししたことも述べられている。あとのはそうした時枝博士個人のことは退けて、「橋本博士の人として又学者としての概略は、既に橋本博士還暦記念会編纂の国語学論集(昭和十九年十月岩波書店刊)中の同博士略伝、編著書目録、論文目録、講義 題目等により、又『国語と国文学』昭和二十年五月の『橋本博士と国語学』特輯号誌上に寄せられた諸家の記事及び追憶談によってこれを知ることが出来るのであるが、今回橋本博士著作集刊行委員会によって、博士の著作集が刊行せられるに際して、同博士の国語学上の業續を、主として明治以降の国語学史上に跡づけて、その意義と価値とを明かにして見たいと思ふのである。」と型どおりに書きはじめ、「以上私は国語学者としての博士を、明治以降の国語学史上に跡づけて、その歴史的研究に於いて、又文法研究に於いて、又国語問題に対する態度等に於いて、極めて簡単に述べて来た。もとよりそれは私の一面観に過ぎず、博士の真意に添はない多くの臆測があったであらうと懼れる〈オソレル〉のであるが、国語学者としての博士の全貌は、本著作集刊行によって始めて明かになるのであって、世の橋本学説研究者によつてそれが実現されることを期待して止まないのである。」と結ばれている。もちろん両者同じところもある。それは上田国語学と橋本国語学の違いについて説いたところで、それを「橋本進吉博士と国語学」から引くと、「この新国語学の創設者の有力な一人は、上田万年〈カズトシ〉博士であつて、博士は一方に言語学国語学を東京帝国大学に講ぜられるとともに、その言語理論を武器として、国語問題の解決に努力せられた。橋本博士は、実にこの上田博士の門下として国語学を継承され、又発展させられたのである。ところが周知のやうに、上田博士の国語学と、橋本博士のそれとは、その性格に於いて著しく相違してゐることが認められる。上田博士の国語学は、博士の多面的な生活が示すやうに、啓蒙的ではあるが、国家的であり社会的であり、極めて絢爛〈ケンラン〉たるものであるが、これに反して橋本博士の国語学は、これ亦博士の経歴が示すやうに、ひたすら研究室的であり、学究的であった。啓蒙的にして多彩な上田国語学が、学究的にして質実な橋本国語学へと発展して行ったことは、国語学界にとっては大きな幸福であったと考へられるのであるが、これを単に両博士の性格、経歴の相違とのみ考へるのは皮相の見〈ヒソウノケン〉に止まるとしかいふことが出来ない。」というのである。時枝博士はさらに両国語学の内面に立ち入って考察されて、上田国語学と橋本国語学とがこのように違うのは、国語学が初期の国語問題解決への情熱から次の国語学の学的建設とりわけ国語の歴史的研究の確立への努力へと進んでいった、そうした時代の反映であって、橋本博士の研究が国語の歴史的研究を中心にしたことも上田博士のふさわしい後継者であったと述べられるのであるが、これが橋本博士の後任ではあっても博士と異なった時枝国語学の時枝博士の言辞であるので興味を覚えるのである。【以下、次回】

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