礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記と関東大震災―「私の選んだ学問」(1962)より

2020-09-01 00:01:06 | コラムと名言

◎時枝誠記と関東大震災―「私の選んだ学問」(1962)より

 最近、時枝誠記(ときえだ・もとき)の言語理論が気になり、勉強しはじめた。
 先日、根来司(ねごろ・つかさ)著『時枝誠記研究 言語過程説』(明治書院、一九八五)という本を入手したが、これが、実に有益な本だった。非常に引用の多い本だが、この引用が役に立つのである。
 例えば、同書の「附」の「二」(四二三~四二七ページ)に、時枝が一九六二年に発表した「私の選んだ学問」の全文が引用されている。そのあとには、根来による「補記」も付いている。
 本日は、これを紹介してみたい。つまり、今回は、「引用の引用」ということになる。

  二 私の選んだ学問       時枝誠記
 私が東京帝国大学国文学科に在学してゐたのは、大正十一年〔一九二二〕四月から同十四年〔一九二五〕三月までで、その中間の大正十二年〔一九二三〕九月一日に関東大震災に見舞はれて、大学の図書館研究室は壊滅してしまつた。そんなわけで、私の論文制作時には、大学の研究機関は全く使用出来ず、私は専ら麻布飯倉の紀州徳川家所属の南葵文庫を利用させて貰つた(当時この図書館は東大学生の使用を許可され、後にその蔵本は東大に寄贈移管されたと聞いてゐる)。
 私が大学に入学して国語学を専攻するやうになつた時――なぜ私が国語学といふ、世間には余り知られてゐない学問を学ぶやうになったかのいきさつは、私の学問的自伝「国語学への道」(三省堂)に述べてある――その研究法として聴講もし、読みもしたことは、言語学の研究法と研究課題とが、国語学の指導原理であるといふことであつた。我々の学問の先達である新村出、金田一京助、橋本進吉の諸先生が皆言語学の出身であることを思へば、あるいはそれが正しい道順であるのかとも思へた。その頃、先輩たちから、今までドイツの言語学が指導的であつたが、これからはフランスの言語学が主になるであらうといふやうなことを聞かされて、私は切角〈セッカク〉暁星中学で、フランス語を第一外国語にしてゐたのに、卒業と同時に、英語に転向したのは、しまつたことをしたものだと悔まれた。いづれにしても、国語学をやるといふことも大変なことだと思つた。そんな指導に従つて、私はヨーロツパの言語学の片端を嚙りながらも何かそれに飽き足らぬ感じを持つて、「言語とは何ぞや」といふ疑問を抱いて、それの解決を、心理学や論理学や哲学に求めて右往左往してゐた。その頃、そのやうな問題の話相手になつて呉れたり、哲学的思考の指導をして呉れたのは、中学の同期で、一高を経て東大哲学科に在学してゐた高山峻君であつた(同君は今、岡山大学の哲学教授で、先年フランス哲学の論文で学位を獲られた)。私をそのやうな根本問題の思索に駆立てたのは、関東大震災といふ異常体験だと思ふ。震災は、今度の戦災と比較すると、地域からいつても、規模からいつても限られたものであつたのであるが、私には、何かすべてが根本から改まるやうな気がし、また改まらねばならないやうな気がした。まだ私が若かつたためか人力を超越した自然の威力のためか、今もつて地震といふものに対して恐怖の念を抱くのである。
 私をして、近代言語学といふものに、疑問を抱かせるやうになつた、もう一つの事情は、私がその頃日本の古い国語研究を読み始めてゐたことである。そこに見られる言語研究の性格、言語に対する考へ方が、いたくヨーロツパのそれと相違してゐることに興味を抱かせた。ヨーロツパの学問が唯一絶対のものではないといふこと、ヨーロツパの言語学が必ずしも国語学の指導原理にはならないといふこと、総じて、近代言語学に対する反逆精神が芽生え始めたのは、その頃であつたと思ふ。私は、日本の古い国語研究を、日本人の言語に対する意識の発展の歴史と見て、それを卒業論文として見ようと計画した。
  日本に於ける言語意識の発達及び言語研究の目的とその方法
が論文の題目である。私が論文で扱つた内容は、決して私が初めて手がけたものではなく、多くの先覚によって既に「国語学史」の名によって研究されて来たものである。ただこれを言語に対する意識の展開として跡づけようとしたことと、国語研究を、ただそのこととして観察するのではなく、日本人の他の文化的活動の中に位置づけ、それとの関連において叙述したことは、恐らく私の独創であり、その後の私の研究の根本にある発想法であるといつてよいであらう。例へば、国語研究を古典研究の基礎としての解釈語学としての位置につけたごときである。
 私は、この卒業論文に若干の手を入れて、
  国語学史 昭和七年〔一九三二〕 岩波講座「日本文学」の内
  国語学史 昭和十五年〔一九四〇〕、岩波書店刊
を出してゐる。これら著書の初稿本ともいふべき卒業論文において、私にとつて、その後の研究方向を決定したと見るべき重要な事柄は、日本の国語研究を見通して、そこにヨーロツパのそれとは異なる言語に対する見方を見出し、それを言語に対する仮説的理論として打出してゐることである。次に、出来るだけ原文のままに掲げることにする。
 言語ト称セラルヽ経験ハ何デアルカ、観察ノ対象ハ何デアルカ、紙ノ上ニ書カレタ文字デアルカ? 耳ニ入リ来ル音声ヲ対象トスベキカ? 脳裏ニアル思想ヲ対象トスベキカ? 我々ハ観察ノ焦点ヲ向ケルベキ方向ニ迷ハザルヲ得ナイ、カクノ如キ対象ノ認識ノ困難ハ言語研究史ノ上ニ明ニ現ハレテ居ル、或者ハ文字ヲ以テ言語ト心得、或者ハ音声ヲ以テ言語トシ、或者ハ言語ヲ以テ一ツノ独立シタ実在ノ如ク考へテ居ツタ、而モ尚此等ノ研究ハ我々ノ常識的ニ有スル「言語」トイフ言葉ヲモ完全ニ説明シテ居ラヌヤウニ思ハレル、言語研究史ハ一面ヨリ見ルナラバ我々ノ常識的ニ成立シタ「言語」ナル名称ノ説明ニ外ナラヌト見テモ宜シイ、思フニ言語ノ本質ハ音デモナイ、文字デモナイ、思想デモナイ、思想ヲ音ニ現ハシ文字ニ現ハスソノ手段コソ言語ノ本質トイフベキデハナカラウカ、言語学ノ対象ハ実ニソノprocessヲ研究スベキモノデハナカラウカ、
右と同じ思想を、岩波講座「日本文学」中の国語学史では、第一部序説三「注釈語学より見た明治以前国語研究の一特異性」の中で、注釈、解釈といふことを絡ませて論じてゐる。当時私は、仙覚の万葉集の解釈法を研究してゐたことの反映であらう。単行本国語学史では、第I部序説第五項「明治以前の国語研究の特質と言語過程観」の中で、この仮説的理論に始めて言語過程観の名称を与へてゐる。
 私は、昭和十五年に単行本国語学史を刊行して以来、全くそれの補訂の仕事をしてゐない。甚だ無責任のやうにも見える。しかし、それ以後の私の研究は、卒業論文に提出された言語過程説といふ仮説的理論の検証に終始して来たといつてよい。それが、いまだに継続中である。その意味では、私の卒業論文は今に至るまで未完成であるといつてよいのである。言語過程説といふ仮説的理論が、絶対の真理であると主張する根拠を私は持つてゐない。真理であるか真理でないかは、神のみが知ることであつて、学者に課せられた使命は、真理を主張することではなくして、真理を目指すことだけであると観念してゐる。
 〔根来、補記〕
 時枝誠記博士が永眠されて一年たち、東京大学国語研究室から「国語研究室」第八号時枝誠記博士追悼が昭和四十三年〔一九六八〕十月に出、その中に博士の遺稿として「私の卒業論文」と卒業論文の第一章総論、第七章結論が載せられている。そこには松村明氏が付記として、「故時枝誠記博士の一年祭を迎えるに当り、『国語研究室』第八号を先生の追悼号として編集することになったが、その巻頭に先生の御遺稿『私の卒業論文』および卒業論文『日本ニ於ル言語観念ノ発連及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)』の一部を掲げることができた。先生の御遺稿は未整理であるが、その中で、未完ではあるが、比較的まとまった形で害かれているので、『私の卒業論文』を掲載することにした。本稿がいつごろ執筆されたかは明らかでないが、ごく晩年の御執筆であることは確かである。後半は文の途中でとぎれており、未発表のものと思われるが、どういうものに発表される予定であったかも明らかでない。あるいは講演の草稿であるかも知れないが、原稿の冒頭には『私の卒業論文』という表題の下に 『時枝誠記』という執筆名が書かれているので、単なる草稿のようなものとも思われない。」と述べられている。
 ここで松村氏は、この「私の卒業論文」が時枝博士最晩年の未発表のもののように記されているが、これは 「立教大学日本文学」第九号(昭和三十七年十一月)に「私の選んだ学問」と題して発表されていて、今日全き形で見ることができるので、ここに全文を掲げてみた。
 「立教大学日本文学」は毎号三段組みで各氏が卒業論文について書いたものを、「わたしの卒業論文」として載せているのであるが、ここの非常勤講師であった時枝博士も編集子の求めに応じてこのような文章を書かれたのであろうと思う。いま読み返して、私はその一生涯を通じて真理を目指した時枝博士の言説の勁さを思い知らされる。

 時枝誠記(一九〇〇~一九六七)は、六十七歳で亡くなっている。根来司(一九二七~一九九二)は、六十五歳で亡くなっている。
 今、根来司の著書によって、時枝誠記の言語理論を学ぼうとしている私は、すでに七十一歳である。もっと前から勉強していれば……という後悔もあるが、あせることなく、少しずつ学んでゆきたい。

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