礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝は橋本の期待を外れるようなことをした(金田一春彦)

2020-09-29 01:16:50 | コラムと名言

◎時枝は橋本の期待を外れるようなことをした(金田一春彦)

 根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 私は久しい間時枝〔誠記〕博士が橋本〔進吉〕博士定年退官後その後任の最適任者として、『国語学史』(昭和十五年)、『国語学原論』(昭和十六年)を引っ提げて東京大学に着任されたものと信じて疑わなかった。しかしずっとのち時枝博士が逝かれてから、久松潜一博士の「時枝誠記博士を悼む」(「国語と国文学」昭和四十三年二月号、時枝誠記博士追悼)という追悼の文の中に、「橋本博士が定年制内規により東大を退かれる時、その後任をえらぶ場合に長い熟考を重ねられてゐたことは私にもわかつた。橋本氏は国語史の専攻家をとの御考もあつたやうであるが、時枝氏の業績を十分認められて居り、時枝氏を推されることになつたと思はれる。」とあり驚いた。橋本博士が最初自分の後継者に国語史家を考えられていたことは思いも寄らなかったからである。それでは久松博士が橋本博士は国語史専攻の人を考えていられたようだといわれる、その国語史家とはいったい誰であろうか。いまや知るすべもないが少しく詮索してみると、時枝博士が東京大学教授に任ぜられ京城大学から転じて来られたのは昭和十八年〔一九四三〕五月三十一日であり、博士は同じ年の六月二日に『国語学原論』によって文学博士の学位を授けられている。それで私は国語史家でこの時期に東京大学から文学博士の学位を授与されている国語学者をさがせば、その人がおそらくそうであろうと考えをつけるのであるが、そこに思い浮かぶ学者に有坂秀世博士がある。ところが、最近この辺のことを金田一春彦博士が「日本語学者列伝橋本進吉伝㈠㈡㈢」(「日本語学」昭和五十八年二月、三月、四月号、のち『金田一春彦日本語セミナー五日本語のあゆみ』昭和五十八年に「橋本進吉博士の生涯」とし少しく加筆して入れている)の後継者をの項にくわしく書かれているので、次に引用してみよう。
《そのころ博士にとってもう一つ、希望どおりにならなかった事として、東大の国語学の後継者についてのことがあったと考える。
 博士が国語学の教授になった時、博士が教壇で教えた第一回の卒業生、岩淵悦太郎を助手に任命した。岩淵は博土と同じように国語音韻史を専攻し、その学風はあくまでも実証に徹しており、かたわら書誌学にも深入りして、はた目には博士のひな型を見るように見えて、どう見ても好個の後継者と思われた。しかし、博士には岩淵の研究が博士以上に出ることのないのを不満に思われたらしい。
 博士は自分の後継者としては、岩淵より一年おそく言語学科を卒業した有坂秀世〈アリサカ・ヒデヨ〉に白羽の矢を立てた。博士は有坂を呼んで意向を正したことがあったという。が、有坂は胸を病み、到底教授を引き受けがたいことを述べて辞退し、博士はこれを非常に残念がっていたという。
 博士は第三の候補として、当時京城大学の教授をしていた時枝誠記に目をつけた。博士の行き方とは全くちがうが、昭和十六年〔一九四一〕、『国語学原論』という大著を出している。博士は時枝に命じてそれを東大へ提出して学位を請求するように勧告した。時枝は喜んで論文を提出したが、これは教授会で思いがけない物言いがつき、博士はこれを通すために意外な苦心をしたという話がある。
 それはともかくとして、結局時枝は文学博士となったので、橋本博士はその学位と著述を資料として、自分の後任の教授にすえた。このことは、学界はその意外さに驚き、一方博士のやり方を公正だとたたえたものだった。
 しかし、時枝は橋本の期待を外れるようなことをしきりにしたらしい。昭和十八年〔一九四三〕になると国際文化振興会というところで、国際的な日本語の辞典の編集を計画した。博士を監修者に戴き、時枝を編集主任とした。博士は平常会議に列席せず、時枝に任せていたが博士がある時やって来られ、時枝の議事に対してはなはだ不機嫌で帰って行ったという。
その時の会議は、そこにあがった個々の語彙の品詞をいかに記入すべきかということだったそうだ。時枝はその会議のあと東大へ来て、私ども大勢の後輩がいるところで、その話をし、「今日は先生いつになく不機嫌だった。あれは道ばたで馬の糞でも踏んづけた来たらしい」と言って呵々大笑した。まことに豪傑の風情があった。しかし私はその時、博士が不機嫌になった理由を直感した。恐らく大まかな時枝は、自分がすっかり文法的処置も任されたと思って、自分の主義によって「この」は代名詞、「静か」は体言というようにきめて事を運んで行ったのだろう。そこには博士が多年かかって到達した品詞分類論に対する考慮は全然なかった。博士にとってそれはどんなに悲しいことだったろう。その日博士は自宅に帰り、自分のあとを時枝にゆずったことについて複雑な思いに駆られたのではなかろうか。》
 これが金田一博士の後維者をの項の全文である。しかし、この外国人向けの日本語の辞典編集のことについては、時枝博士自身『国語研究法』(昭和二十二年)の八漢字漢語の摂取に基く国語上の諸問題の章に、次のように述べられている。
《昭和十八年国際文化振興会は、外国人に日本語を理解させるための国語辞書の編纂を計画し、同会顧問橋本進吉博士から、私に右具体案の立案を委任されたのである。先づ私は日本語を読むために必要な辞書について考へ、今日行はれてゐる五十音引き国語辞書は、読書のための辞書としては甚だ不適当なものであること。若し英、仏、独語のアルファベット式辞書を国語に求めるならば、それは漢字から国語を検索する辞書を作らなければならないこと。何となれば、国語を理解する最初の手懸りは、一般には漢字であつて、決して仮名ではないからである。そしてこのやうな体裁の辞書は、日本人自身にとつても極めて必要なものであること。今日行はれてゐる漢和辞書は、漢箱の読解には或は有効であつても、国語の理解といふことに果して充分に親切であるかは疑はしい故に、たとへ漢籍の読解は犠牲にしても、国語読解に役立つやうな親切な辞書が必要であること等について進言し、博士は全面的に賛意を表せられた。これらの事業の計画が、第七章並に本章に述べた国語学の方法論に立脚してゐることはいふまでもないのである。》
 これを読むと金田一博士の述べられるところと少し違うようである。

 このあと、「三」があるが、これは割愛する。

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