◎「てにをは」の研究から「詞と辞」の論へ
根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「Ⅱ」の第四「卒業論文」を紹介している。本日は、その三回目。
二
さきに述べたように時枝誠記博士は卒業論文では言語の本質を一つの心的過程それ自体であるという考えをまだはぐくもうとされなかったが、やがてこの考えが博士の心を強くとらえるようになって来た。その時期はおそらく昭和にはいって十年過ぎで、博士が「文の解釈上より見た助詞助動詞」(「文学」昭和十二年三月)、「心的過程としての言語本質観」(「文学」昭和十二年六月、七月)という二つの論文を発表した頃であろう。が、ここで私は卒業論文からどのような道筋を経て、言語過程説なかんずく文法論の詞辞の論が成り立っていったかを推測してみようと思う。
さて時枝博士の卒業論文を詳しく読んでいくと大変興味深いことに気づく。というのは博士が卒業論文を書いていく過程で「日本ニ於ル言語観念ノ発達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)」と題しながら、知ってか知らずてか主にてにをは研究の歴史をたどっていられるからである。そこでいまこのことを確かにするためにさきに掲げた卒業論文の目次に、博士がまるまるてにをは研究について述べているところには上に○印を付し、てにをは研究について部分的に触れているところには上に△印を付してみた。こうしてみると博士が国語研究の歴史のどういう面を取り上げて考察を加えていられるかがよくわかる。よもや時枝博士はこの「日本ニ於ル言語観念ノ発達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)」という論文を、てにをは研究史に擬そうとされるのではないと思うが、目次によって卒業論文の頁数をトータルしてみると、てにをは研究について述べているところが全体の三分の一であり、てにをは研究について触れているところがまた全体の三分の一なのである。では時枝博士の卒業論文がどうしてこのようにてにをは研究の面に偏ったのであろうか。私は博士の卒業論文がこのようにてにをは研究に偏しているところに、その詞辞の論と結びつく道があると考えをつけるのである。
【中略】
手爾葉大概抄〈テニハタイガイショウ〉は全文六百四十字余りの変体漢文で、文章が短いためにかえってむずかしく、時枝博士もこれを解すべきか思い迷っていられる。手爾葉大概抄の中心的な思想は「詞如寺社手爾葉如荘厳」という条で、語を詞とてにはの二つに大きく分けることである。ところで、手爾葉大概抄でてにはの中にまたてにはの一類を認めているのはどういうことであろうか。それは語を単に詞とてにはとに分けたのではない。てにはといいてにはの中にてにはを認めたのは、どうやら品詞分類的な次元ではなかった。たとえば本居宣長は詞の玉緒〈コトバノタマノオ〉の序で、玉緒は玉を貫く緒であるが、どんな美しい玉であっても、これを貫く緒によってはじめてその美しさが保たれる。詞も同じようにこれを貫く緒すなわちてにをはによって、乱れることなく絶えることなく美しさを保つことができると述べている。また巻の七では、詞は衣の布でありてにをははそれを縫う技術であって、てにをはが整わないのは拙い技術でもって縫った衣のようなものであると説いている。手爾葉大概抄もこの詞の玉緒同様に比喩を使ったいい方で科学的ではないが、詞辞の本質をよくいい当てている。のち博士もこれを理解して、語を二つに分けるにあたって一方が寺社のようなもので、もう一方が寺社に対して荘厳のようなものであるというふうに考えられる。つまり荘厳にさき立って寺社があってその寺社は荘厳さによって包まれる。ついで「以荘厳之手爾葉定寺社之尊卑」といい、それは荘厳さによって寺社の尊卑が定まるように、まず詞があってそれを辞が包むことによって真の語になる。おそらく博士は次元の相違をこのように考えられたのであろうと思う。
時枝博士は日本人がどのように言語を考えたか、日本人の言語意識をたどっていき古い学者の言語に対する意識を調べられたのであるが、鎌倉時代にはじまったてにをは研究は考えてみると、日本独特に発達したものであり他のものほど外国の影響を受けていないので、その言語意識がよくわかり注意を引いたと思われる。それにしても、博士は卒業論文でてにをは研究を主に考察されたために、またこのてにをは研究は活用研究と共にやがて大きく今日の文法研究に包括されていくために、詞辞の論にいきついたと私は考えるのである。【以下、次回】