◎満州語を話す満洲人は数万人のみ(服部四郎)
昨日、引用した文章の中に、服部四郎の名前が出てきた。古モンゴル語の研究などで知られる高名な言語学者である(一九〇八~一九九五)。橋本進吉(一八八二~一九四五)、金田一京助(一八八二~一九七一)、小倉新平(一八八二~一九四四)らに師事した。同期に、有坂秀世(一九〇八~一九五二)がいる。
服部四郎については、以前、このブログで、その著書『蒙古とその言語』(湯河弘文社、一九四三)の一部を紹介したことがあった。昨日、久しぶりに同書を引っぱり出して読んでみたが、何度、読んでもおもしろい。復刻に値する名著だと思った。
以下に、一部を、引用してみよう。文中、「大黒河」とあるのは、アムール河のことか。
日本語・琉球語や朝鮮語と系統を同じくするらしい言語が外にあるか? ある。満洲語・ 通古斯【ツングース】語・満洲語・蒙古語・土耳古〈トルコ〉語などがそれである。それらの言語は「アルタイ語族」を形成するといはれ、西から東へと、土耳古・蒙古・通古斯の三語派に分れると説かれ、文法体系が酷似してゐるのみならず、語彙も類似してゐるのであるが、まだこの三者が同系であるとの断定は差控へなければならない理由がある。それは比較言語学の方法上の困難と関係があるのでここで説くわけにはいかない。しかし三者が同系である可能性は極めて大きいといへる。
満洲語とは、満洲に興り〈オコリ〉清朝を建てた満洲族の言語のことである。今日満洲国でいふ満洲語或は満語は支那語であつて、この言語ではない。満洲には多数の支那人が移住したのみならず、固有の満洲人も満洲語を忘れて支那語を話すやうになつてゐる。今日なほ満洲語を話してゐる満洲族は、清朝に移住させられた北部新彊〈シンキョウ〉省の数万人を除いては、確実に知られてゐるものはない。満洲国の中では、私の知る範囲では、愛琿〈アイグン〉附近の満洲人に多少望〈ノゾミ〉が掛けられる位のものであらうと思ふが、これとても最近の確実な調査報告がない。ロシヤの蒙古語学者ルードニェフが一九〇七年にペテルブルグで愛琿と大黒河の中間のオフォロ・トクソ出身の若い満洲人の言語を調査してゐるが、立派な満洲口語である。ルードニェフは一九〇三年に、東支鉄道の車中、鉄道の車中、満洲里〈マンシュウリ〉駅から満洲語の会話を聴きながら旅行した経験や、斉斉哈爾〈チチハル〉の街上で子供達が満洲語を話すのをきいたことがあると記してゐる。私自身は、満洲国で新彊省出身の満洲人から純粋の満洲口語を聴いたのみである。このやうに満洲語はほとんど死滅せんとしてゐることはアイヌ語と同様であるが、アイヌ語とは異なり過去の文献はかなり豊富である。いづれも清朝にできたもので、大部分は支那語からの翻訳である。蒙古字を改めて造つた満洲字(蒙古字と同様、縦書きで行は左から右へ)で書かれてゐる。満洲語に関する十分な調査は発表されてゐないけれども、これらの文献によつて、満洲文語の言語構造を明確に知ることができる。朝鮮語と同様一語々々を訳して行けばひつくり返らないでそのまま日本文となるといつてよい。一例を示せば次の通り、
manju bithe hūllara niyalma oci, unlnakū hergen tome gemu
満洲 書 読む 人 は 必ず 字 毎に 悉く
getukeleme saci acambi. Majige heoledeci ojorakū. aikabade ere
究明して 知るべきである。少しも 怠つては ならない。 もしも この
bithede ejehengge getuken akū oci, gūwa bithede teisulebuhede
書に 記したことが 明かで ない ならば 別の 書に 出会したときに
uthai tengkime same muterakū ombi. uttu sere anggala, yaya
直ちに はつきりと 知り 得なく なる。 かう いふ のみならず あらゆる
niyalma belge i gese erdemu bici beye de tusangga sehe bade,
人は 米粒 の やうな 技 あれば 身 に 益あり といふ のに
aikabade gūnin de teburakūci ombio. kicerakūci geli ombio.
万一 心 に とどめずして ならうか。 励まずして また よからうか。
これは、「国語の周囲――蒙古語と日本語の関係――」という章の一部で、満洲語について解説している。この間、接続詞の使用は一度のみ。センテンスからセンテンスへの論理展開が、実に巧みである。服部四郎がナミの学者でないことに、あらためて気づかされた。