◎『国語学史』を読み了つて今深い感激にひたつてゐる(梶井重雄)
根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「Ⅱ」の第九「国語学史」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
三
ところで、単行本『国語学史』〔一九四〇〕も第一部、第二部に分ち、第一部を序説とし、一「国語」の名義、二国語学の対象、三国語学と国語学史との関係、四国語学史編述の態度、五明治以前の国語研究の特質と言語過程観、六国語学史の時代区画と各期の概観というふうに分け、第二部を研究史として、第一期元禄期以前、第二期元禄期より明和安永期へ、第三期明和安永期より江戸末期へ、第四期江戸末期、第五期明治初年より現代に至るというふうに五期に分けて、すべて国語学史は過去の研究者の国語意識の展開史であるという立場から論じていられる。時枝〔誠記〕博士がこの単行本『国語学史』を公刊された時学者間では熱い思いで迎えられたらしく、「国語と国文学」昭和十六年〔一九四一〕九月号では岩淵悦太郎氏が「本書は、歴史的事実をありのままに眺めて、これに対して妄に〈ミダリニ〉価値判断を下すまいとしてゐる。現在の国語学に照して過去の事実を批判し去るやうな事なく、どこまでも、その歴史的意義と価値を見出さうとしてゐる。かくして、本書に於いては、旧国語学は、新しい装〈ヨソオイ〉を以て我等の前に押出されて来た。従来の学者によつて無価値の如く見捨てられたものも、著者独自の透徹した見識によつて、拾ひ上げられ、みがき出されて、その真の輝きを我等に示すに至つた。又反対に不当に称揚されたものが、その正当なる位置に戻されたものも少くない。」といった長い書評を書かれている。また「文学」昭和十六年三月では梶井重雄氏が「時枝氏の『国語学史』を読み了つて今深い感激にひたつてゐる。それはあたかも永遠の泉に触れた様な感激である。」ということばで新刊紹介を書きはじめ、さらに また「国語・国文」昭和十六年三月でも朝山信弥〈シンヤ〉氏が紹介の筆を「最後に、本著を通読して感ぜられるのは、古今の稀書を渉猟して誌された驚くべき叙述の博学さでも、小気味よい新説の続出するすばらしさでもない。我々の国語学の生立ちの跡を肉親の愛情を以てみつめて居る人の和やかな、喜悦にみちた精神である。画期的な国語学史として江湖の人々に贈りたい。」と結ばれている。思えばこの前後にはそれぞれ特色のある国語学史が出て、岩淵悦太郎氏が保科孝一氏の『新体国語学史』(昭和九年)の新刊紹介を「国語と国文学」昭和十年八月号に、石坂正蔵〈ショウゾウ〉氏が山田孝雄〈ヨシオ〉博士の『国語学史要』(昭和十年)の紹介を「国語と国文学」昭和十年〔一九三五〕十二月号に、亀井孝氏が重松信弘氏の『国語学史概説』(昭和十四年)の紹介を「国語と国文学」昭和十五年〔一九四〇〕七月号に書いておられるが、いずれもこれほど熱っぽくはないのである。
明日は、いったん、根来司の『時枝誠記 言語過程説』から離れる。