マイケル・ムーア監督の最新作「キャピタリズム~マネーは踊る~」ですが、大阪では全国で一番早くに封切られたのですね。12月上旬の封切り直後に、私も見てきました。ブログにアップするのが今になってしまいましたが、今回はこの映画の話題を取り上げてみたいと思います。
キャピタリズム(Capitalism)とは、言うまでもなく資本主義の事。米国では、99%の一般庶民は失業や自宅の差し押さえで四苦八苦し、工場閉鎖で町はゴーストタウンと化しているのに、残り1%の富豪は、失業招いた責任は何も取らず、高給ボーナスの上に公的資金までせしめてトンズラこいてる。その下で、ハドソン川に不時着して乗客の命を救い時の英雄となったパイロットですら、実際は年収たった200万円の低待遇で働かされている。低賃金と労組敵視で有名なウェルマートに至っては、従業員が死亡すれば会社にだけこそっと保険が降りる、その名も「くたばった農民保険」というものを一般従業員にかけている。その理不尽に怒ったムーアが、単身ウォール街に突撃取材を敢行し、逃げ回る経営者をビルごと「市民逮捕」する・・・というのが、この映画の醍醐味です。
『キャピタリズム~マネーは踊る~』 予告編
ムーアの指摘は一々尤もで、私もこの映画に喝采を送っていた一人ですが、その場面の中で唯一気になったのが、ムーアが米国資本主義との対比の中で、西欧諸国の福祉制度や日本の終身雇用制を、手放しに礼賛しているかのような発言をしている場面です。確かに、公的医療保険も無い米国の惨状からすれば、今のヨーロッパや日本ですらマシに見えるのでしょうが。
しかし、その日本に現に住んでいる私からすれば、年間3万人もの自殺者を抱え、後期高齢者医療制度で老人が差別され、生活保護の捕捉率も僅か1割台、残りの圧倒的多数は当然の生存権も行使出来ないで、怠け者と罵られながら「おにぎり食べたい」といって死んでいく人が後を絶たない、そんな現状の一体何処がマシなのか、と愚痴の一つも言いたくなる訳で。
ヨーロッパの福祉制度にしても、かつての英国の「揺りかごから墓場まで」や今のフランス人のバカンスも、旧植民地や東欧からの移民に3K労働を押し付ける事で、初めて成立っていた訳でしょう。その挙句に、それを逆恨みしたネオナチが、使い捨てする資本家ではなく、使い捨てされる移民の方を攻撃する事で、資本主義の用心棒を買って出ているというのが、今の欧州の現状でしょうが(日本にもそんな手合いがゴロゴロいるが)。
マイケル・ムーア監督、米国にない日本の素晴らしさ語る
何故ムーアがそう思ってしまったかについては、彼の出自が大きく影響しているでしょう。ムーアは、米国ミシガン州の、GM(ゼネラル・モータース)の企業城下町に生まれました。GM工員の家庭に育ち、父も含めたGMの正社員が次々に首を切られ、みるみるうちに自分の故郷が寂れていく中で、次第に米国社会の矛盾に目覚めていったのでしょう。銃社会の暗部を描いた「ボウリング・フォー・コロンバイン」や、対テロ戦争の欺瞞を告発した「華氏911」、万事カネ次第の米国医療を告発した「シッコ」などの作品に、彼の思いが凝縮されています。
「キャピタリズム~マネーは踊る」でムーアが鋭く告発した資本主義・新自由主義の矛盾には、私も全面的に賛成するものですが、その行き着く先が「古き良き日本を懐かしむ」では、時代錯誤以外の何物でもないと思います。
戦後の高度経済成長は、民主化(労働三権確立や農地改革)で相対的に豊かになった庶民に対して、対米従属を旨としながらも平和憲法に邪魔されて思うように出来なかった保守支配層が、手なずける飴として行った産業政策なのです。話を分かり易くする為に、敢えて単純化して説明すると。それが、折からの50年代米国の好景気や欧州の戦後復興という時の運に支えられて、70年代まで続きました。しかし、その米国も今や超大国としての力を失い、新自由主義の跋扈によって、欧州や日本の「中産階級」も、今や分解消滅に向かおうとしています。
今までも、大都市と地方、中小企業と大企業、男性と女性、正社員とパート・アルバイトとの間には、経済格差が厳然としてありました。それが戦後高度成長の間は、大盤振る舞いの公共事業や、貧弱な社会保障を穴埋めする企業福祉や家庭福祉によって、見えなくさせられてきただけだったのです。それが高度成長の終焉で、それまで緩衝装置の役割を果たしてきた企業福祉や家庭福祉もなくなり、今やむき出しの資本主義が、庶民に襲いかかってきているのです。その時代に「古き良き日本に帰れ」なんて、国民新党や靖国右翼みたいな事を言っていても、何の処方箋にもなりません。
終身雇用制の下で、今までは取りあえず食い扶持にはありつけたが、その代わりに、庶民は社畜(企業奴隷)としての生き方を余儀なくされて来ました。チッソの社員が水俣病の発生を長年に渡って隠蔽してきた構図なぞ、まさに社畜の典型ではないですか。そうして、今までは「どんな仕事でも在るだけマシ」と言って自分を宥めすかしてきたのが、いよいよその仕事もなくなり、今や正社員ではなくアルバイトの職を奪い合うような状況が広がってしまいました。
この前のNHK番組「クローズアップ現代」で、「派遣切り」から抜け出せて中小企業正社員の職にありつけた幸運な例を紹介していました。その人は、中途採用の恩返しにと、毎朝最初に出勤して事務所の掃除をしていました。大の大人でありながら、僅か月十数万円の、バイトの私ともそう変わらない給与で。
そんな惨めな姿を目の当たりにすると、そりゃあ非正規雇用よりは正規雇用のほうが良いに決まっていますが、こんな社畜人生に甘んじるくらいなら、そんな生き方には正社員よりも距離を置ける今の契約社員の身分のほうが、まだ何ぼかマシです。
「では今の中国や北朝鮮の社会主義が良いのか?」と問われれば、それも御免蒙ります。あれは、共産党官僚が大富豪として、国民を社畜ならぬ国畜(国家奴隷)としてこき使っているだけだからです。しかし、だからと言って、「下見て暮らせ」何とやらで、「たとえ社畜でも仕事があるだけマシ」という事には、絶対になる訳が無い。私はどちらも御免蒙ります。
ムーアの資本主義・新自由主義批判には全面的に賛同すれども、それが勢い余って、只の年寄りの懐古話に終わるだけでは何もならない。何もムーアはそこまで言っている訳ではないとは、私も思います。ムーアは、言葉には出しませんが、社会主義を全面肯定も全否定もせず、その理想の部分はきちんと受け継いでいます。徒に冷笑主義に走ってはいない。そして何よりも、米国の民主主義を信じています。米国も今はこんな国になってしまったけれど、希望もある。今までアメリカン・ドリームの幻想に絡めとられていた市民が、次第にそこから抜け出しつつある様を描いた部分では、今の日本の自公政権崩壊を生み出した底流とも、合い通じるものを感じました。
そんなムーアの映画なのに、礼賛一辺倒ではなく敢えて辛口の批評をさせて貰ったのは、当の私自身が以前は社畜や国畜の論理に絡め取られていて、その欺瞞に気付かなければ、今頃は過労死していてこの世にはいなかったかも知れないからです。
キャピタリズム(Capitalism)とは、言うまでもなく資本主義の事。米国では、99%の一般庶民は失業や自宅の差し押さえで四苦八苦し、工場閉鎖で町はゴーストタウンと化しているのに、残り1%の富豪は、失業招いた責任は何も取らず、高給ボーナスの上に公的資金までせしめてトンズラこいてる。その下で、ハドソン川に不時着して乗客の命を救い時の英雄となったパイロットですら、実際は年収たった200万円の低待遇で働かされている。低賃金と労組敵視で有名なウェルマートに至っては、従業員が死亡すれば会社にだけこそっと保険が降りる、その名も「くたばった農民保険」というものを一般従業員にかけている。その理不尽に怒ったムーアが、単身ウォール街に突撃取材を敢行し、逃げ回る経営者をビルごと「市民逮捕」する・・・というのが、この映画の醍醐味です。
『キャピタリズム~マネーは踊る~』 予告編
ムーアの指摘は一々尤もで、私もこの映画に喝采を送っていた一人ですが、その場面の中で唯一気になったのが、ムーアが米国資本主義との対比の中で、西欧諸国の福祉制度や日本の終身雇用制を、手放しに礼賛しているかのような発言をしている場面です。確かに、公的医療保険も無い米国の惨状からすれば、今のヨーロッパや日本ですらマシに見えるのでしょうが。
しかし、その日本に現に住んでいる私からすれば、年間3万人もの自殺者を抱え、後期高齢者医療制度で老人が差別され、生活保護の捕捉率も僅か1割台、残りの圧倒的多数は当然の生存権も行使出来ないで、怠け者と罵られながら「おにぎり食べたい」といって死んでいく人が後を絶たない、そんな現状の一体何処がマシなのか、と愚痴の一つも言いたくなる訳で。
ヨーロッパの福祉制度にしても、かつての英国の「揺りかごから墓場まで」や今のフランス人のバカンスも、旧植民地や東欧からの移民に3K労働を押し付ける事で、初めて成立っていた訳でしょう。その挙句に、それを逆恨みしたネオナチが、使い捨てする資本家ではなく、使い捨てされる移民の方を攻撃する事で、資本主義の用心棒を買って出ているというのが、今の欧州の現状でしょうが(日本にもそんな手合いがゴロゴロいるが)。
マイケル・ムーア監督、米国にない日本の素晴らしさ語る
何故ムーアがそう思ってしまったかについては、彼の出自が大きく影響しているでしょう。ムーアは、米国ミシガン州の、GM(ゼネラル・モータース)の企業城下町に生まれました。GM工員の家庭に育ち、父も含めたGMの正社員が次々に首を切られ、みるみるうちに自分の故郷が寂れていく中で、次第に米国社会の矛盾に目覚めていったのでしょう。銃社会の暗部を描いた「ボウリング・フォー・コロンバイン」や、対テロ戦争の欺瞞を告発した「華氏911」、万事カネ次第の米国医療を告発した「シッコ」などの作品に、彼の思いが凝縮されています。
「キャピタリズム~マネーは踊る」でムーアが鋭く告発した資本主義・新自由主義の矛盾には、私も全面的に賛成するものですが、その行き着く先が「古き良き日本を懐かしむ」では、時代錯誤以外の何物でもないと思います。
戦後の高度経済成長は、民主化(労働三権確立や農地改革)で相対的に豊かになった庶民に対して、対米従属を旨としながらも平和憲法に邪魔されて思うように出来なかった保守支配層が、手なずける飴として行った産業政策なのです。話を分かり易くする為に、敢えて単純化して説明すると。それが、折からの50年代米国の好景気や欧州の戦後復興という時の運に支えられて、70年代まで続きました。しかし、その米国も今や超大国としての力を失い、新自由主義の跋扈によって、欧州や日本の「中産階級」も、今や分解消滅に向かおうとしています。
今までも、大都市と地方、中小企業と大企業、男性と女性、正社員とパート・アルバイトとの間には、経済格差が厳然としてありました。それが戦後高度成長の間は、大盤振る舞いの公共事業や、貧弱な社会保障を穴埋めする企業福祉や家庭福祉によって、見えなくさせられてきただけだったのです。それが高度成長の終焉で、それまで緩衝装置の役割を果たしてきた企業福祉や家庭福祉もなくなり、今やむき出しの資本主義が、庶民に襲いかかってきているのです。その時代に「古き良き日本に帰れ」なんて、国民新党や靖国右翼みたいな事を言っていても、何の処方箋にもなりません。
終身雇用制の下で、今までは取りあえず食い扶持にはありつけたが、その代わりに、庶民は社畜(企業奴隷)としての生き方を余儀なくされて来ました。チッソの社員が水俣病の発生を長年に渡って隠蔽してきた構図なぞ、まさに社畜の典型ではないですか。そうして、今までは「どんな仕事でも在るだけマシ」と言って自分を宥めすかしてきたのが、いよいよその仕事もなくなり、今や正社員ではなくアルバイトの職を奪い合うような状況が広がってしまいました。
この前のNHK番組「クローズアップ現代」で、「派遣切り」から抜け出せて中小企業正社員の職にありつけた幸運な例を紹介していました。その人は、中途採用の恩返しにと、毎朝最初に出勤して事務所の掃除をしていました。大の大人でありながら、僅か月十数万円の、バイトの私ともそう変わらない給与で。
そんな惨めな姿を目の当たりにすると、そりゃあ非正規雇用よりは正規雇用のほうが良いに決まっていますが、こんな社畜人生に甘んじるくらいなら、そんな生き方には正社員よりも距離を置ける今の契約社員の身分のほうが、まだ何ぼかマシです。
「では今の中国や北朝鮮の社会主義が良いのか?」と問われれば、それも御免蒙ります。あれは、共産党官僚が大富豪として、国民を社畜ならぬ国畜(国家奴隷)としてこき使っているだけだからです。しかし、だからと言って、「下見て暮らせ」何とやらで、「たとえ社畜でも仕事があるだけマシ」という事には、絶対になる訳が無い。私はどちらも御免蒙ります。
ムーアの資本主義・新自由主義批判には全面的に賛同すれども、それが勢い余って、只の年寄りの懐古話に終わるだけでは何もならない。何もムーアはそこまで言っている訳ではないとは、私も思います。ムーアは、言葉には出しませんが、社会主義を全面肯定も全否定もせず、その理想の部分はきちんと受け継いでいます。徒に冷笑主義に走ってはいない。そして何よりも、米国の民主主義を信じています。米国も今はこんな国になってしまったけれど、希望もある。今までアメリカン・ドリームの幻想に絡めとられていた市民が、次第にそこから抜け出しつつある様を描いた部分では、今の日本の自公政権崩壊を生み出した底流とも、合い通じるものを感じました。
そんなムーアの映画なのに、礼賛一辺倒ではなく敢えて辛口の批評をさせて貰ったのは、当の私自身が以前は社畜や国畜の論理に絡め取られていて、その欺瞞に気付かなければ、今頃は過労死していてこの世にはいなかったかも知れないからです。