今、職場で少し腹に据えかねている事がある。
それはバイト朝礼のいい加減さと、それを主宰する社員の傲慢な態度についてだ。
うちの会社のバイト朝礼がどれだけいい加減かと言うと、以前も社員による朝礼すっぽかし事件があったが、ここ数日も、社員が朝礼開始の号令をかけておきながら、バイトが検品等で抜けられないのにそのまま放置し、中止の連絡もせずにそのまま流してしまう事が何度かあった。
また、朝礼をやったらやったで、社員が作業手順の変更を指示する際も、まともに理由も説明せずに「上からのお達しでこう変える事にした」の一言で済ませた事も何度かあった。それに対して、我々バイトも問い質せば良かったのだろうが、こちらも気が急いている中で、それでなくとも慌しい始業時の時間帯に、いちいちそんな事にかまけている余裕なぞなかった。その積み重ねが今の体たらくを招いてしまったのだ。
こんな朝礼を、午前7時の始業時と午前9時15分のバイト全員が揃った時間に、一日に二度もやっていたのだ。9時15分の二度目の朝礼の内容も、7時の最初の朝礼で言った事の繰り返しと作業進捗状況の報告だけだ。何故こんな朝礼を二度もやるかと言うと、進捗状況を全員で共有し合う為なんだそうだw。ところが実際の朝礼はかくの如し。こんな朝礼なら何もしない方がまだマシだと、今まで何度も社員や副所長に掛け合って来た。その甲斐あって、ようやく二度目の朝礼は廃止になった。
後は「上からのお達し」云々だけで済まさず、ちゃんと手順変更の理由を社員に説明させる事だけだ。
それも、何もいちいち事細かに説明しろと言っているのではない。「同じ日配品なのに何故○社と△社の商品だけ別の場所で仕分けるのか?」「一番下に積まなければならない水物の商品を何故この店の分だけ最上段に積まなければならないのか?」と言った程度の事を、「上からのお達し」だの「これはこうするんや」だけでなく、「何故そうするのか?」もちゃんと説明もしてくれと言っているだけなのだ。
もちろん、急な変更があった時なぞ、社員もその理由を聞かされていない事もあるだろう。そんな時は「ちょっと理由までは聞いていなかったので、それについては後で説明する」と言えばそれで済む問題だ。
たったそれだけの事が何故できないのか。もはや、物理的にできないのではなく、最初からやる気がないとしか思えない。もっと言えば、我々バイトを人間としてではなく、家畜や奴隷のようにしか見なしていないからではないのか。今度この様な発言を社員がしたら、その際は朝礼のみんなが見ている前で、徹底的にそいつを問い詰めてやろうと思っている。
そんなモンモンとした思いの中で、今日の公休日に本屋で目にしたのが上記の本だ。松沢直樹・著「うちの職場は隠れブラックかも」(三五館・刊)。ブラック企業関連の別の本を探している時に、書棚の隣でたまたま見つけた。元々買おうとしていた本より価格が少し安かったのと、表紙の「隠れブラック」という本のタイトルや、「上司にこまめにメールを送る事で、後々にサービス残業を強いられていた証拠として社内メールを活用する」といった裏ワザの記述に惹かれて、こちらの方を買ってしまったのだ。
ブラック企業と言えば、「24時間365日死ぬまで働け!」の居酒屋チェーン「和民」や、残業代も払わず深夜10時間以上も一人で調理も接客もレジもさせる牛丼チェーン「すき家」などの例が有名だ。ところが実際には、そこまでは酷くなく、一応給料だけはまともに支払われる、うちの会社の様な「プチ・ブラック企業」も多いのだ。しかし、たとえ「プチ」であろうとも、その本質においては有名どころのブラック企業とも何ら変わらない事は、前述の朝礼や「お達し」発言の話からもお分かりになるだろう。
むしろ、うちの会社の様なグレーゾーンの「プチ・ブラック」企業こそ、法律の盲点やマスコミによる監視の目をより巧妙にすり抜けているという点では、有名どころ以上に悪質なのかも知れない。今日買ったばかりなのでまだほとんど読んでいないが、一応読者の皆さんにも勧めておきます。
但し、ここでも最後にぶち当たるのは政治の壁だ。この本のキャッチにはこう書かれている。
―会社に「?」を感じたら、迷わないこと!
―うちの職場は隠れブラックかも
―大丈夫だ、安心してほしい!
―職場で悩むあなたに役立つ 日本国憲法を味方につけた「鬼の就業マニュアル」登場!!
なるほど、第二次大戦の焼野原の中から、戦前の軍国主義者の圧力を排して国民が勝ち取った「日本国憲法」が、我々の最後の後ろ盾として機能している限りはまだ大丈夫だろう。今の「労働基準法」や「労働組合法」も、「日本国憲法」があってこそ初めて機能するのだから。
でも、その憲法が改悪されてしまったとしたらどうなるだろう。
今、憲法改正と言えば、とかく憲法9条の「戦争放棄」とか、そういう面ばかりに目が行きがちだが、自民党などが変えようとしているのは9条だけではない。「誰でも健康で文化的な最低限度の生活を送る権利がある」とする憲法25条や、「基本的人権は侵す事のできない永久の権利として、将来の国民にも与えられる」とする憲法12条や97条も含めて、人権の内容そのものが大幅に弱められようとしている。その事は既に今までもこのブログでも何度も取り上げてきたので詳しくは書かない。
ここでは、我々にとってもより身近な「残業代ゼロ法案」についてだけ取り上げておく。これは安倍首相が、「日本を世界で一番企業が活動しやすい国にする」と言って、制定しようとしている法案の一つだ。残業代を、これまでの労働時間を基準にしたものから出来高払いに近い形に変え、いくら残業しても成果が出なければ払わなくても良いようにするというのが、この法案の中身だ。(参考:「残業代ゼロ」一般社員も 産業競争力会議が提言へ 4月22日付朝日新聞)
今でも管理監督者(単なる中間管理職ではなく重役以上を指す)や一部の賃金体系適用者については残業割増賃金を支払わなくても良い仕組みになっているが、その枠をもっと大幅に広げようとしているのだ。もちろん、いきなり労働者全員にそれを強制する事は出来ないから、今の所は(1)労働者本人や労働組合と合意した場合に限り、(2)年収1千万以上の一般社員にも「残業代ゼロ法案」を適用しようとしているのだ。
でも、こんな制限をいくらつけた所で、絵に描いた餅にしかならない事は直ぐに分かるだろう。労働者と経営者(資本家)が対等だというのはあくまでも法律の上だけの事であり、実際はカネも権力も握っている経営者の方がはるかに強い。労働基準法や労働組合法もそんな弱い立場の労働者を保護する為にあるのだが、その中で(1)のような事をいくら決めても、組合を会社の息のかかった社員で牛耳ってしまい、「同意しなければ出世させないぞ」と本人を脅かせば、いくらでも会社のしたい放題にできる。(2)の年収制限にしても、後でいくらでも引き下げる事ができる。
残業代や賃金も労働時間を基準にしたものから成果を基準にしたものに変える。これは一見すると「信賞必罰」で当然の事と思われがちだが、その評価は一体誰がするのか。経営者が金儲けを基準に好き勝手に設定するのだ。いくら残業しても成果がでなければタダ働きにしかならない。また、たとえ自然エネルギーの開発に成功したとしても、原発企業では金儲けにはならないので、いくら社会的に価値のある研究でも成果としては認められない、という事にもなりかねない。第一、成果なんてそう簡単に誰にも出せるものではない。ちょっとやそっとの努力だけで成果が出るなら、誰でもオリンピック選手になれるし競馬も当てる事ができる。かと言って、「ちょっとやそっとの努力」だけでは不十分だ、「24時間365日死に物狂いで努力せよ」となれば、もう日本中が「すき家」みたいなブラック企業ばかりになってしまう。
そもそも、こんな法案一つでダラダラ仕事が一掃でき、メリハリが出て効率も上がると本気で思っているなら、わざわざこんな法案なぞ作らなくても、今までの「労働基準法」による8時間労働規制で充分対応できた筈だ。国家ぐるみの人権侵害を労働者のやる気や能力の問題にすり替えるな。しかも、第一次安倍政権の時にも、全く同じ趣旨の「ホワイトカラー・エグゼンプション」法案を出そうとして、世論の袋叩きに合ってひっこめたくせに、性懲りもなく同じ物を出して来るとは。もはや安倍・自民党は我々労働者に喧嘩を売っているとしか思えない。
要するに、「人よりも国」「何よりもお上大事」というのが安倍や自民党の考え方だ。その為には、日本国憲法に盛られた「自由、人権、平和」の考え方そのものが邪魔なのだ。だから二言目には「今の憲法はアメリカの押し付けでケシカラン」と息巻いているのだ。実際にはアメリカ言いなりの政治を推し進めているくせに。
その為に、単に憲法9条だけでなく、「労働組合も自由に作れる」とする労働組合法や、「原則1日8時間を超える労働をさせてはならない、超える場合はそれに見合った割増賃金を支払わなければならない」とする労働基準法や、「労働者も資本家も、バイトも社員も一人の人間としては平等だ」「どんな人間にも平等に人権がある」「もし生活に困窮している人があれば、その人の生きる権利を国が保障しなければならない」とする憲法の他の条文にまで、安倍は手をつけようとしているのだ。
そりゃあ、確かに自民党の憲法改正案にも、「自由や人権を尊重する」「今の憲法の平和主義は受け継ぐ」といった事が表向きには書かれている。でも、その改憲案をよく読めば、「人権」を「永久に侵す事のできない権利」から「国の都合でいくらでも縮小できるもの」に巧妙に変質させられている事が、いくらでも見て取れる。現に、自民党改憲論者の片山さつきや石破茂が、公的な場でそれに類する事をどんどん言っているじゃないか。自由や人権獲得の歴史もろくに教えないまま、「自由には責任がともなう」としか書いていない道徳の教科書を使わせようとしたり。この発想も、何でも「お達し」だけで人を動かそうとするうちの社員と全く同じだ。
上の写真は前述「残業代ゼロ」報道の当該紙面とその図解拡大図。
アベノミクスのお零れなんて、せいぜい大企業の上級社員止まり。2011年の国内餓死者は、栄養失調と食糧不足を合わせ1746人も。およそ5時間に1人が餓死している勘定になる。日本の貧困率(所得が標準の半分に満たない貧困層の割合)は今や16%。先進国の中でもワースト4位。日本が総中流社会と言われたのは昔の事で、今や押しも押されぬ貧困・格差大国だ。それでも片山さつきなぞは、全体の僅か0.4%しかない不正受給ばかり言い募り、生活保護制度を更に名ばかりのものにしようとしている。
それもこれも全て、今の政府が「人よりも国」「国家権力さえ安泰であれば国民の事なぞどうなっても良い」と考えているからに他ならない。戦時中もそんなろくでもない政府指導者ばかりだったから、日本の兵士はガダルカナル島やインパールの戦場で、ろくに補給もされずに飢えやマラリアでばたばた犬死にさせられたのだ。ブラック企業に使い捨てされる今の労働者のように。「人を物扱い、家畜・奴隷扱い」の国家体質は今も昔も変わらない。
「憲法改正」と言えば、アホの一つ覚えみたいに、従軍慰安婦がどうたら靖国参拝がこうたらと喚き立て、「憲法9条のせいで中国や北朝鮮が攻めてくる」と言うしか能の無いバカウヨ、ネトウヨは、憲法改悪で日本中をブラック企業だらけ、昔の「蟹工船」や「女工哀史」のような職場だらけにしたいのか。
それはバイト朝礼のいい加減さと、それを主宰する社員の傲慢な態度についてだ。
うちの会社のバイト朝礼がどれだけいい加減かと言うと、以前も社員による朝礼すっぽかし事件があったが、ここ数日も、社員が朝礼開始の号令をかけておきながら、バイトが検品等で抜けられないのにそのまま放置し、中止の連絡もせずにそのまま流してしまう事が何度かあった。
また、朝礼をやったらやったで、社員が作業手順の変更を指示する際も、まともに理由も説明せずに「上からのお達しでこう変える事にした」の一言で済ませた事も何度かあった。それに対して、我々バイトも問い質せば良かったのだろうが、こちらも気が急いている中で、それでなくとも慌しい始業時の時間帯に、いちいちそんな事にかまけている余裕なぞなかった。その積み重ねが今の体たらくを招いてしまったのだ。
こんな朝礼を、午前7時の始業時と午前9時15分のバイト全員が揃った時間に、一日に二度もやっていたのだ。9時15分の二度目の朝礼の内容も、7時の最初の朝礼で言った事の繰り返しと作業進捗状況の報告だけだ。何故こんな朝礼を二度もやるかと言うと、進捗状況を全員で共有し合う為なんだそうだw。ところが実際の朝礼はかくの如し。こんな朝礼なら何もしない方がまだマシだと、今まで何度も社員や副所長に掛け合って来た。その甲斐あって、ようやく二度目の朝礼は廃止になった。
後は「上からのお達し」云々だけで済まさず、ちゃんと手順変更の理由を社員に説明させる事だけだ。
それも、何もいちいち事細かに説明しろと言っているのではない。「同じ日配品なのに何故○社と△社の商品だけ別の場所で仕分けるのか?」「一番下に積まなければならない水物の商品を何故この店の分だけ最上段に積まなければならないのか?」と言った程度の事を、「上からのお達し」だの「これはこうするんや」だけでなく、「何故そうするのか?」もちゃんと説明もしてくれと言っているだけなのだ。
もちろん、急な変更があった時なぞ、社員もその理由を聞かされていない事もあるだろう。そんな時は「ちょっと理由までは聞いていなかったので、それについては後で説明する」と言えばそれで済む問題だ。
たったそれだけの事が何故できないのか。もはや、物理的にできないのではなく、最初からやる気がないとしか思えない。もっと言えば、我々バイトを人間としてではなく、家畜や奴隷のようにしか見なしていないからではないのか。今度この様な発言を社員がしたら、その際は朝礼のみんなが見ている前で、徹底的にそいつを問い詰めてやろうと思っている。
そんなモンモンとした思いの中で、今日の公休日に本屋で目にしたのが上記の本だ。松沢直樹・著「うちの職場は隠れブラックかも」(三五館・刊)。ブラック企業関連の別の本を探している時に、書棚の隣でたまたま見つけた。元々買おうとしていた本より価格が少し安かったのと、表紙の「隠れブラック」という本のタイトルや、「上司にこまめにメールを送る事で、後々にサービス残業を強いられていた証拠として社内メールを活用する」といった裏ワザの記述に惹かれて、こちらの方を買ってしまったのだ。
ブラック企業と言えば、「24時間365日死ぬまで働け!」の居酒屋チェーン「和民」や、残業代も払わず深夜10時間以上も一人で調理も接客もレジもさせる牛丼チェーン「すき家」などの例が有名だ。ところが実際には、そこまでは酷くなく、一応給料だけはまともに支払われる、うちの会社の様な「プチ・ブラック企業」も多いのだ。しかし、たとえ「プチ」であろうとも、その本質においては有名どころのブラック企業とも何ら変わらない事は、前述の朝礼や「お達し」発言の話からもお分かりになるだろう。
むしろ、うちの会社の様なグレーゾーンの「プチ・ブラック」企業こそ、法律の盲点やマスコミによる監視の目をより巧妙にすり抜けているという点では、有名どころ以上に悪質なのかも知れない。今日買ったばかりなのでまだほとんど読んでいないが、一応読者の皆さんにも勧めておきます。
但し、ここでも最後にぶち当たるのは政治の壁だ。この本のキャッチにはこう書かれている。
―会社に「?」を感じたら、迷わないこと!
―うちの職場は隠れブラックかも
―大丈夫だ、安心してほしい!
―職場で悩むあなたに役立つ 日本国憲法を味方につけた「鬼の就業マニュアル」登場!!
なるほど、第二次大戦の焼野原の中から、戦前の軍国主義者の圧力を排して国民が勝ち取った「日本国憲法」が、我々の最後の後ろ盾として機能している限りはまだ大丈夫だろう。今の「労働基準法」や「労働組合法」も、「日本国憲法」があってこそ初めて機能するのだから。
でも、その憲法が改悪されてしまったとしたらどうなるだろう。
今、憲法改正と言えば、とかく憲法9条の「戦争放棄」とか、そういう面ばかりに目が行きがちだが、自民党などが変えようとしているのは9条だけではない。「誰でも健康で文化的な最低限度の生活を送る権利がある」とする憲法25条や、「基本的人権は侵す事のできない永久の権利として、将来の国民にも与えられる」とする憲法12条や97条も含めて、人権の内容そのものが大幅に弱められようとしている。その事は既に今までもこのブログでも何度も取り上げてきたので詳しくは書かない。
ここでは、我々にとってもより身近な「残業代ゼロ法案」についてだけ取り上げておく。これは安倍首相が、「日本を世界で一番企業が活動しやすい国にする」と言って、制定しようとしている法案の一つだ。残業代を、これまでの労働時間を基準にしたものから出来高払いに近い形に変え、いくら残業しても成果が出なければ払わなくても良いようにするというのが、この法案の中身だ。(参考:「残業代ゼロ」一般社員も 産業競争力会議が提言へ 4月22日付朝日新聞)
今でも管理監督者(単なる中間管理職ではなく重役以上を指す)や一部の賃金体系適用者については残業割増賃金を支払わなくても良い仕組みになっているが、その枠をもっと大幅に広げようとしているのだ。もちろん、いきなり労働者全員にそれを強制する事は出来ないから、今の所は(1)労働者本人や労働組合と合意した場合に限り、(2)年収1千万以上の一般社員にも「残業代ゼロ法案」を適用しようとしているのだ。
でも、こんな制限をいくらつけた所で、絵に描いた餅にしかならない事は直ぐに分かるだろう。労働者と経営者(資本家)が対等だというのはあくまでも法律の上だけの事であり、実際はカネも権力も握っている経営者の方がはるかに強い。労働基準法や労働組合法もそんな弱い立場の労働者を保護する為にあるのだが、その中で(1)のような事をいくら決めても、組合を会社の息のかかった社員で牛耳ってしまい、「同意しなければ出世させないぞ」と本人を脅かせば、いくらでも会社のしたい放題にできる。(2)の年収制限にしても、後でいくらでも引き下げる事ができる。
残業代や賃金も労働時間を基準にしたものから成果を基準にしたものに変える。これは一見すると「信賞必罰」で当然の事と思われがちだが、その評価は一体誰がするのか。経営者が金儲けを基準に好き勝手に設定するのだ。いくら残業しても成果がでなければタダ働きにしかならない。また、たとえ自然エネルギーの開発に成功したとしても、原発企業では金儲けにはならないので、いくら社会的に価値のある研究でも成果としては認められない、という事にもなりかねない。第一、成果なんてそう簡単に誰にも出せるものではない。ちょっとやそっとの努力だけで成果が出るなら、誰でもオリンピック選手になれるし競馬も当てる事ができる。かと言って、「ちょっとやそっとの努力」だけでは不十分だ、「24時間365日死に物狂いで努力せよ」となれば、もう日本中が「すき家」みたいなブラック企業ばかりになってしまう。
そもそも、こんな法案一つでダラダラ仕事が一掃でき、メリハリが出て効率も上がると本気で思っているなら、わざわざこんな法案なぞ作らなくても、今までの「労働基準法」による8時間労働規制で充分対応できた筈だ。国家ぐるみの人権侵害を労働者のやる気や能力の問題にすり替えるな。しかも、第一次安倍政権の時にも、全く同じ趣旨の「ホワイトカラー・エグゼンプション」法案を出そうとして、世論の袋叩きに合ってひっこめたくせに、性懲りもなく同じ物を出して来るとは。もはや安倍・自民党は我々労働者に喧嘩を売っているとしか思えない。
要するに、「人よりも国」「何よりもお上大事」というのが安倍や自民党の考え方だ。その為には、日本国憲法に盛られた「自由、人権、平和」の考え方そのものが邪魔なのだ。だから二言目には「今の憲法はアメリカの押し付けでケシカラン」と息巻いているのだ。実際にはアメリカ言いなりの政治を推し進めているくせに。
その為に、単に憲法9条だけでなく、「労働組合も自由に作れる」とする労働組合法や、「原則1日8時間を超える労働をさせてはならない、超える場合はそれに見合った割増賃金を支払わなければならない」とする労働基準法や、「労働者も資本家も、バイトも社員も一人の人間としては平等だ」「どんな人間にも平等に人権がある」「もし生活に困窮している人があれば、その人の生きる権利を国が保障しなければならない」とする憲法の他の条文にまで、安倍は手をつけようとしているのだ。
そりゃあ、確かに自民党の憲法改正案にも、「自由や人権を尊重する」「今の憲法の平和主義は受け継ぐ」といった事が表向きには書かれている。でも、その改憲案をよく読めば、「人権」を「永久に侵す事のできない権利」から「国の都合でいくらでも縮小できるもの」に巧妙に変質させられている事が、いくらでも見て取れる。現に、自民党改憲論者の片山さつきや石破茂が、公的な場でそれに類する事をどんどん言っているじゃないか。自由や人権獲得の歴史もろくに教えないまま、「自由には責任がともなう」としか書いていない道徳の教科書を使わせようとしたり。この発想も、何でも「お達し」だけで人を動かそうとするうちの社員と全く同じだ。
上の写真は前述「残業代ゼロ」報道の当該紙面とその図解拡大図。
アベノミクスのお零れなんて、せいぜい大企業の上級社員止まり。2011年の国内餓死者は、栄養失調と食糧不足を合わせ1746人も。およそ5時間に1人が餓死している勘定になる。日本の貧困率(所得が標準の半分に満たない貧困層の割合)は今や16%。先進国の中でもワースト4位。日本が総中流社会と言われたのは昔の事で、今や押しも押されぬ貧困・格差大国だ。それでも片山さつきなぞは、全体の僅か0.4%しかない不正受給ばかり言い募り、生活保護制度を更に名ばかりのものにしようとしている。
それもこれも全て、今の政府が「人よりも国」「国家権力さえ安泰であれば国民の事なぞどうなっても良い」と考えているからに他ならない。戦時中もそんなろくでもない政府指導者ばかりだったから、日本の兵士はガダルカナル島やインパールの戦場で、ろくに補給もされずに飢えやマラリアでばたばた犬死にさせられたのだ。ブラック企業に使い捨てされる今の労働者のように。「人を物扱い、家畜・奴隷扱い」の国家体質は今も昔も変わらない。
「憲法改正」と言えば、アホの一つ覚えみたいに、従軍慰安婦がどうたら靖国参拝がこうたらと喚き立て、「憲法9条のせいで中国や北朝鮮が攻めてくる」と言うしか能の無いバカウヨ、ネトウヨは、憲法改悪で日本中をブラック企業だらけ、昔の「蟹工船」や「女工哀史」のような職場だらけにしたいのか。