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耳触りの良い呪文に騙されてはいけない

2015年03月22日 20時27分36秒 | 貧乏人搾取の上に胡坐をかくな


 さる3月16日に、参議院予算委員会で、自民党議員の三原じゅん子が、多国籍企業の税金逃れを問題にする中で、「今こそ八紘一宇という戦時中のスローガンを思い起こせ」と言ったそうです。(その事を取り上げた3月17日付日刊ゲンダイの記事が左上写真)
 「八紘一宇」と書いて「はっこういちう」と読みます。「八紘」は四方八方、「一宇」は一つの家という意味です。「八紘一宇」と四文字熟語にすると、「全世界を天皇の下にひとつの家のようにする」という意味になります。その「八紘一宇」国会質問の当該部分が動画で公開され、文字起こしもされているので、次に紹介しておきます。

三原じゅん子 日本が建国以来大切にしてきた価値観「八紘一宇」


(三原じゅん子の質問内容)
「はい、ありがとうございます。私はですね、そもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の影の部分に、 もう、私たちは目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまできているのはないかと思えてなりません。
 そこで今日皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)であります。
八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む」とおっしゃったことに由来する言葉です。 今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。
 これ昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。「八紘一宇とは、世界が一家族のように睦みあうこと。一宇、すなわち一家の秩序は、一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強い者が、弱い者のために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度ができたとき、はじめて世界は平和になる」ということでございます。
 これは戦前に書かれたものでありますけれども、八紘一宇という根本原理のなかにですね、現在のグローバル資本主義の日本がどう立ち振る舞うべきかというのが、示されているのだと私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対していかがお考えになられますでしょうか」

 この三原じゅん子の質問に対し、麻生太郎(副総理・財務相)も、「宮崎県には今も「八紘一宇の塔」というのがあって(右上写真)、地元の尊敬を集めている」みたいな事を言って、二人で勝手に盛り上がっていました。もう八百長質問そのもので見ていられませんでした。
 以前の中曽根内閣の時にも、この「八紘一宇」が国会質問で取り上げられた事がありましたが、その当時は、同じ自民党で極右政治家の中曽根康弘ですら、「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と、むしろ否定的に捉えていました。その事と比べても、この麻生答弁の異常さは際立っています。(ウィキペディアの記述参照)

 同じ異常さは三原じゅん子の国会質問にも言えます。これではまるで八百長質問です。
 三原が国会で取り上げた多国籍企業の租税回避問題とは、「アマゾンやスターバックス、グーグルのような、世界を股にかけて活動するグローバル企業が、ケイマン諸島など、法人税のほとんどかからないタックスヘイブン(租税回避地)と呼ばれる所に本社を置いて、税金逃れをしている」事を問題にしたものです。しかし、本当にこれが問題だと思うなら、わざわざこんな太平洋戦争当時の戦争スローガンなぞ引き合いに出さなくても、サミット(先進国首脳会議)で議論されているようなタックスヘイブン規制や、多国籍企業の横暴を規制する資本取引税・金融取引税のような取り組みを紹介する方が、よっぽど実のある議論になるはずです。
 そういう、現代において実際に議論されている事例がいくらでもあり、そういう事は国会議員としても関連知識として当然知っておかなければならない事なのに、そんな事はおくびにも出さず、何の関係もない昔の戦争スローガンをなぜ唐突に持ち出したのか。本当は三原も麻生も、多国籍企業の横暴を規制する気なぞサラサラなく、ただ単に「当時の日本は正しかった、あの戦争は正義の戦争だった」と言いたかっただけ、その為の材料(ネタ)を探していただけではないでしょうか。そうでなければ、こんな、まるで二人で事前に示し合わせたかのような、芝居がかった質問になるはずがありません。

 異常なのは質問の仕方だけではありません。その内容も支離滅裂です。
 三原は、今の多国籍企業の横暴と対比する形で、「かつての日本は素晴らしかった」と言っているのですが、私から言わせると「はあっ?」としか言いようがありません。実際は、かつての日本も欧米諸国と同じように、欧米諸国と張り合う形で、植民地支配や搾取に積極的に加担していたのですから。
 ここで3.1独立運動や満州事変がどうたらこうたら書くよりも、何よりも「論より証拠」。そもそも、前述の三原質問の発言の中にある「一番強い者が、弱い者のために働いてやる」って何ですか。本当に、太平洋戦争が侵略戦争ではなくアジア解放の戦争だと思っていたら、こんな「~してやる」なぞという「上から目線」で呼びかけたりなぞしません。少なくとも「共に闘おう」という呼びかけになるはずです。もし、こんな「上から目線」で労働組合への加入を誘われたとしても、誰が組合に入ろうと思いますか。
 そして、当時日本の植民地だった台湾・朝鮮を真っ先に独立させたはずです。ところが、日本自身は台湾も朝鮮も独立させず、中国人の事もシナだのチャンコロだのと差別しながら、アジアの人々に「お前らを解放してやる」と「上から目線」で言った所で、誰が聞く耳を持ちますか。アジアの人々からすれば、支配者が欧米人から日本人に変わるだけなのですから。これこそ「弱肉強食」の「搾取」そのものじゃないですか。これの一体どこが「八紘一宇」「世界平和」なのか。
 それを、「昔は横暴だったが今は反省して、世界から暴力や差別をなくす先頭に立とうと思う」と言うならまだしも、「横暴だったのは他国だけで、日本は全然そんな事はしなかった」と居直った所で、誰が聞く耳を持ちますか。


「蟹工船」「女工哀史」といった小説には当時の日本の過酷な労働者搾取の実態が描かれている。また、昭和初期の東北の農村では、自分の娘を借金のカタに、遊廓や女中奉公に出さざるを得ない現実があった。これの一体どこが「八紘一宇」なのか。

 これは何も昔だけに限った話ではありません。日本も今の「グローバル資本主義」と無縁ではありません。それが証拠に、むしろトヨタなどの日本企業も、多国籍企業の一員として「グローバル資本主義」を後押しするような形で、アマゾンやスターバックスと同じように、「輸出戻し税」などの形で税金逃れをやっているではありませんか。トヨタもカンバン方式などの形で、アマゾンと同じような労働者酷使をやっているではありませんか。政府も、TPP(環太平洋経済連携協定)推進や法人税引下げ、「残業代ゼロ法案」や「生涯ハケン固定化法案」などの形で、それを後押ししているじゃないですか。そして、その法人税引下げのツケを、消費税増税の形で、我々庶民に一方的に押し付けようとしているじゃないですか。
 ワタミの女性社員は、午後3時位から深夜2時位まで、毎日十数時間も働かされた挙句に、休日も渡辺会長の講演会に、「自主参加」の形でタダ働きで参加を強制され、レポート提出まで義務付けられたのを苦に、「もう身体が持たない」と自殺してしまいました。その女性を過労自殺に追いやった会長の渡辺美樹を自民党の国会議員にしておいて、それに抗議する女性社員の遺族も自民党本部から門前払いにしておきながら、何が「世界が一家族のように睦みあう」「強い者が弱い者のために働いてやる」か。人をおちょくるのも大概にせえよ!


ワタミに過労死させられた女性社員は、「体が痛い、体が辛い、誰か助けて」というメモ書きの遺書を残して亡くなった。それでも会長の渡辺美樹は、「労務管理が出来ていなかったとは思わない」と、ツイッターでほざき続けている。そして自民党は、そんな人物を国会議員にしている。

 それに対し、三原じゅん子は、この「八紘一宇」発言について、自分のブログで次のように言い訳しています。

この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使われたという歴史は理解しています。侵略を正当化したいなどとも思っていません。私は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を広く皆さんにお伝えしたいと考えました。
ご指摘いただいた中にもありましたが、「八紘一宇」という四字熟語そのものは、大正時代に入ってからつくられた言葉であると言われていますが、もともとは神武天皇即位の際の「橿原建都の詔(みことのり)」にそもそもの始まりがあります。
是非、全文をお読みいただきたいと思いますが(「橿原建都の詔」の全文は、末尾に引用させていただきました)、まずは該当部分の抜粋をご覧ください。
「八紘(あめのした)を掩(おお)いて 宇(いえ)と為(せ)んこと 亦可(またよ)からずや」
今回、私が皆さんにお伝えしたかったことは、戦前・戦中よりも、ずっとずっと昔から、日本書紀に書かれているような「世界のすみずみまでも、一つの家族として、人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう」という理念、簡単に言えば「みんなで仲良くし、ともに発展していく」和の精神です。
(中略)
今回の質疑では、グローバル資本主義の下、競争社会が行き過ぎ、つまり弱肉強食であって、自分さえ儲かれば他人などどうでもいいといった考え方が世の中にあることをうれい、それを正すための理念が必要だと考えました。
(以上、三原じゅん子公式ブログ「夢前案内人」の当該記事「予算委員会の質問でお伝えしたかったこと」より)

 言葉だけならいくらでもキレイ事が言えます。違法政治献金疑惑で次々大臣を辞任した自民党の政治家も、口を開けば道徳教育の大切さを力説していました。当の自分はワイロまみれなのを棚に上げて。ワタミやユニクロなどのブラック企業の経営者も、自分ところの会社の労働基準法違反や従業員の過労死を棚に上げ、「世のため人のため」と、心にもないキレイ事を並べ立て、消費者を欺いています。
 うちの会社の上司も、キレイ事だけなら何ぼでも言います。「危険箇所には気をつけろ」とか「労災事故を無くせ」とか。でも実際は、予算や権限がないからと言い訳ばかりして、補修もロクにせず、労災事故も私傷病扱いにして揉み消しを図った事もありました。
 肝心なのは、キレイ事の由来や講釈なんかではなく、「それが実際にどう使われてきたか」です。この「八紘一宇」にしても、元々は大正時代に、田中智学という日蓮宗の坊さんが、当時の戦争賛美の風潮を嫌って、それを批判する中で、仏教の教えの一つとして紹介したのが始まりです。それを後に軍部や政府が、元々の言葉の意味も無視して、「全世界を天皇の下にひとつの家のようにする」という部分だけを都合よくつまみ食いし、アジア侵略の戦争宣伝に利用して行ったのです。(前述のウィキペディアの記述参照)
 それ以前に、そもそも、「日本書紀」の中で神武天皇が橿原神宮で即位したとされる今から2700年近く前と言えば、日本ではまだ縄文時代です。その事だけでも、まともに議論するような話ではないでしょう。

 そうであるにもかかわらず、その「八紘一宇」を言葉尻だけで捉え、庶民向けにグローバル資本主義や格差社会・競争至上主義への批判に使われても滑稽(こっけい)なだけです。三原じゅん子や安倍晋三も、財界人との会合の場や実際の政治においては、むしろ逆に、格差社会・競争至上主義を更に煽るような事ばかり言ったり、したりしているくせに。
 この三原じゅん子の国会質問にも言える事ですが、小泉構造改革やアベノミクスにより、経済格差が広がる中で、ともすれば「昔は良かった」と、過去を懐かしむような議論が流行しています。でも、今の経済格差の広がりは、何もアマゾンなどの外資系企業やユニクロ・ワタミのような新興企業だけによってもたらされた訳ではありません。
 昔の「総中流時代」と呼ばれた終身雇用・年功序列の時代にも、トヨタなどの大企業は、期間工や下請け中小企業を搾取していました。むしろ、終身雇用・年功序列をエサに、積極的にサービス残業や長時間労働を押し付けてきたと言った方が良いでしょう。当時のトヨタ自動車の製造ラインの忙しさも、今のアマゾン物流センターの秒単位での忙しさと、そう変わる所はありません。その実態をごまかす為に、「会社と社員は運命共同体」とか「家族経営」という言い回しがされてきたのです。

 それが今や、「家族経営」「運命共同体」といった上辺のキレイ事もかなぐり捨てる形で、企業がリストラや経費削減に走り、正社員を派遣や請負のバイト・パートにどんどん置き換えて行っています。そのくせ、自分達の都合の良い時だけ、「家族」だの「共同体」だの「絆」だのと言った耳触りの良い言葉でなだめすかして、国民を奴隷状態に置いている事を気付かれないように仕向けているのです。
 実際には、これらの政治家や財界人は、国民の事を家族や仲間だなんて、これっぽっちも思っておらず、平気で国民や労働者の人権を踏みにじっているくせに。東日本大震災・福島原発事故の避難民を今も仮設住宅に閉じ込め、沖縄にも基地を押し付けながら、原発再稼働や海外派兵にばかり力を入れて。消費税増税や年金・生活保護の切下げ、「残業代ゼロ法案」や「生涯ハケン法案」で更に格差を拡大しながら、「アベノミクス」で一部の大企業正社員・幹部や新興成金みたいな奴らばかり優遇して。

 それでも大多数の国民は、いまだに「アベノミクス」のおこぼれにあやかろうと、自民党政治を黙認し続けています。積極的に支持するだけが黙認ではありません。「他に適当な人がいない」という理由で支持したり、選挙への棄権という形で悪政に目をつむるのも黙認の一種です。「他に適当な人がいない」と思うなら、自分が立候補すれば良いだけの話です。もし自分が殺されそうになったら、「他に適当な人がいない」なんて言っていられないはずです。
 これでは新興宗教の教組と信者の関係と変わりません。オウム真理教の信者やIS(イスラム国)の戦闘員も、教組や指導者からの見返り、おこぼれを当てにして、彼らにつき従っているだけです。自分の頭で物を考えよう、真実を見極めようとは一切せずに。

 戦前の大日本帝国も、戦争末期にはそんな感じだったのかと思います。連日の空襲で戦意もとうに失われ、「本当は負け戦だ」と薄々感じていたのに、誰もそれに疑問をはさもうとしなかった。確かに当時は、マスコミには大本営発表以外の報道は許されず、政府を批判しようものなら「非国民」として逮捕されたり村八分にされたりしました。でも、それだけではなく、国民の間にも、権力や金持ちに迎合する怠惰な気持ちがあったからこそ、なかなか政府を批判しようという所まで行かなかったのではないでしょうか。自分で何とかするよりも、力の強い者にすがろうという気持ちがあったからではないですか。
 国民がそんな気持ちでいる限り、また同じ歴史が繰り返されるでしょう。私たちは、ともすれば、目先の仕事や生活に追われる余り、自分の頭で物を考え行動するよりも、時流や権力によりかかり、「家族」や「共同体」「絆」なぞという、一見耳触りの良い「呪文」にすがりたくなる事がよくあります。でも、そういう他力本願な状態でいる限り、また同じ過ちが繰り返される事でしょう。くれぐれも、そんな呪文に騙されてはいけません。
コメント (3)
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