「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」(日本国憲法第13条)
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」(同25条)
昨夜放送の「ケンカツ(健康で文化的な最低限度の生活)」、観ました?区役所で生活保護を担当する新米ケースワーカーの頑張りを描いた連続テレビドラマですが、昨日の回はいつもの貧困問題に加え、児童虐待の問題も取り上げていて、「毒親」を抱える私にとっても、非常に身につまされる話でした。
島岡光(しまおか・こう)という、うつ病の若者が、区役所に生活保護申請に訪れますが、扶養照会を頑なに拒否します。扶養照会とは、扶養意思や経済力の有無を申請者の家族に問い合わせ、有りと判断されればそちらを優先する手続きの事です。光の父である島岡雷(しまおか・あずま)は総合病院の院長で、光を扶養する意思も示すのですが、光は父親と会う事さえ頑なに拒否し、その理由も言おうとはしません。
しかし、そんな事で生活保護受給を認めていたら、どんどん保護費が膨らみ、不正受給が幅を利かすことになると、業を煮やした生活保護課の係長・京極は、部下の新人ケースワーカー・義経えみるに扶養照会を強行させます。扶養照会で光が保護申請した事を知った雷は、区役所を訪れ、義経達に「今後は自分が息子の面倒を見る。これから息子と会って話をする」と言います。それを受けて、義経が光に、今から父親がそちらに向かう事を知らせますが、光は親父から逃れようと、アパートを逃げ出し駅で投身自殺を図ります。
幸い光は一命を取りとめ、病院に入院して怪我の治療を受ける事になりますが、オムツ交換の際に暴れて手がつけられなくなります。実は光は子供の頃に父親の雷から性的虐待を受けていて、それがトラウマとなってPTSDを発症していたのです。
それを聞いた京極係長は、扶養照会を強行した事を反省し、今後は光の立場に立った自立支援をする事を誓います。しかし、その直後に、父親の雷に息子の入院先を突き止められてしまいます。雷は、自分の名前では面会を許可されないので、区役所訪問で手に入れた京極の名刺を悪用し、京極に成りすまして息子を無理やり連れ帰ろうとします。それを病院の婦長や義経・京極たちが寸での所で食い止め、島岡光を守り、保護受給につなげます。
このドラマの中でも、父親の雷が、事ある毎に「私達は親子なのだから」「親が息子に会いたがって何が悪い」と言っているのが目を惹きました。これは典型的な「共依存」の症状です。
「共依存」とは、子どもを親の言う通りにさせる事で、自分自身の不安を紛らわそうとする親と、それを不憫に思う子どもが、互いにもたれ合いの状態に陥り、そこから抜け出せなくなる状態です。こんな状態になれば、親子で共倒れするしかなくなります。
本当の親なら、たとえ子どもが自分と違う道を歩もうが、それで子どもが幸福になるなら、子どもの自立を応援するものです。ところが「共依存」の親は、子どもにも無理やり自分の価値観を押し付け、自分と同じ道を歩ませようとします。この手の親にとっては、子どもは自分の思い通りになる「操り人形」でしかないのです。それをゴマ化すために、「私達は親子なのだから(他人があれこれ口出しするな)」と、しきりに強調するのです。
だから、島岡雷は身分を偽ってまで、無理やり息子の光との面会を迫り、息子という「操り人形」を取り戻そうとしたのです。こんな物は「親子の愛情」なんかじゃない。「愛情を装った支配」だ。
今から思えば、私の父親もそうでした。まだ私が幼い頃は、父親に懐く私を可愛がってくれました。
ところが、反抗期になって私が父親の言いなりにならなくなると、途端に暴力を振るうようになりました。
「勉強を見てやる」と言って、少しでも答えを間違うと物差しで引っ叩かれた。
少しでも権利主張すると、いきなりアカ呼ばわりし、ド突かれた。高校の部活や読んでいる本の内容まで干渉して来て、友達からの電話も取り次ごうとしなかった。
私の生協への就職が決まってからも、自分の口から言わず母親に言わせる形で、執拗に教員採用試験の受験を迫り、勝手に先走って校長との面接を設定し、私にすっぽかされて「よくもワシの面を汚したな」と…。
私は親父の体面を取り繕う為に生きているのではない。私の人生は親父の所有物ではない。私だけの物だ。社会人となり、生協に就職して、ようやく親の干渉も止みました。ところが、兄や妹が結婚を機に実家を出て、私も生協を辞めて非正規雇用となり、数年前に母親も亡くなり、実家には私と親父しか居ないようになってから、再び親父の「干渉癖」がもたげる様になって来ました。
「いつまでも親のスネかじってないで実家を出ろ」と言いながら、いざ一人暮らしを始めようとした途端に「何も今さら実家を出る事はないじゃないか。そんな事する位なら、何故もっと早く実家を出なかったのか」と泣きつく始末。
早かろうが遅かろうが、親父の言う通りしているんだから、それで良いじゃないか。「出ろ」と言ったり「出るな」と言ったり、一体どっちなんだ?
「いつまでもお前の夕食を作れない」と言うから、折角、外で食べて来るようにしたのに、今度は「冷蔵庫の食材が余るから家で食べて欲しい」と。母親が亡くなった後、「今後は各自外で夕食を済ますようにしよう」と私が提案しても、「いやワシが作るから」と頑なに言い張ったくせに。それを問い詰めたら「それが親父と言う物だ」。そんなの只のワガママじゃないか。
その挙句に、「年収200万では嫁の来てが無いから、資産も釣書の収入欄に計上しろ」だの、婚活するのは親父ではなく私で、釣書の書式も縦長の写真を掲載する事になっているのに、「(親父を真ん中に家族が周囲を取り囲んでいる横長の)この写真を載せろ」と、支離滅裂な事を言い出した末に、「そんなにわしの言う事が聞けないのなら、もう勝手にしろ!」と逆切れ…。
しかし、昔から家族は、こんないびつな物だったのだろうか?私が思うに、このゆがみは、明治以降の近代日本の歴史の中で、意図的に作られて来たように思います。
ケンカツの中の島岡雷や私の親父が、二言目には世間体や体面ばかり気にして、子どもの生活保護受給や非正規雇用や未婚を恥じる。この「恥の文化」は、昔の封建社会の中でも、武家社会に特有の価値観です。だから、武士はやたら体面にこだわり、敵討ちや切腹をする人が後を絶ちませんでした。
しかし、武士なんて、当時約3千万だった江戸時代の日本の人口の中で、約1割位しかいませんでした。残り9割の庶民は、士農工商の身分差別に縛られながらも、もっとフランクに生きていました。敵討ちや切腹に走る人なぞいませんでした。「宵越の金は持たねえ」が身上で、今みたいにあくせく働いたりなぞしませんでした。
ところが、明治維新で武家出身の政治家が政治の実権を握り(「西郷どん」も所詮はその片割れ)、日本が「欧米に追いつけ追い越せ」と富国強兵政策をとる中で、家族が国家による国民支配に利用され、隣組(今の町内会や自治会)が支配機構の末端に組み込まれて行きます。回覧板はその名残りです。
これが、今に続く女性差別やLGBT(レズ・ゲイ等の性的少数者)に対する差別の源です。自民党や右翼が、事ある毎に「社会秩序」や「家族の絆」の大切さを説き、家族の扶養義務を社会保障切り捨ての口実にするのも、家族を支配機構の末端に組み込みたいからです。
本当に家族や国民の事を思うなら、その暮らしを破壊する消費税値上げや過労死促進法案(いわゆる「働き方改革」法案)、福祉削減を進めるはずがありません。
とこれが、島岡雷やウチの親父は、自分がなまじっか総合病院の院長や地方公務員上級職に上り詰める事が出来たばっかりに、上から目線でしか物を考える事が出来ないのです。自分が出世できたのも、下積みの人達の苦労や犠牲があり、その上で、たまたま時代の流れに乗れただけなのに。
しかし、たとえそんな親父であっても、私はそれを許す事が出来るだろうか?
私はよく真面目で几帳面だと言われます。几帳面過ぎて融通が利かないと言われた事もあります。これも、今から思えば「毒親育ち」のせいかも知れません。
世の中の不正や偽善を許せず、それに過敏に反応してしまうような所があります。一種の完璧主義なのかも知れません。
このドラマでは一方で、家族間のもつれから、離婚や離縁に至った生活保護受給者も登場します。今回の島岡雷と同じ様に自身に問題を抱えた人達が、自分の弱みをまだ克服できない中でも、次第に家族とよりを取り戻しつつある姿も、同時並行で登場します。
それが、元生活保護受給者・阿久沢の娘・真理や、水原悟の母・律子です。水原律子が、担当のケースワーカーに頼んで、悟に子ども時代のホームランボールを届けてもらい、悟から「まだ会いたくないけど」と返事の手紙に書かれながらも、孫の写真が同封されて送られ来た場面には私もホロリと来ました。
映画「万引き家族」が国際的に高く評価されたのも、徒らにハッピーエンドで終わらせなかったからでしょう。万引きで生計を立てている家族が、虐待された子どもを拾い、自分の家族として育てて行く事になった。そこだけを切り取れば、貧乏家族の美談だけで終わってしまいます。
ところが一方では、この「万引き家族」自体が偽装家族で、死んだ肉親の年金に寄生し、亡くなった老婆を地中に埋め、怪我した息子を置いて夜逃げを図るような家族だった。
それがバレて、息子(実はこの息子も幼い頃に父親に誘拐されて育てられて来た)と父親が別れる事になり、息子の乗ったバスを父親が追いかける場面では、たとえ不完全な父親でも、それでも、この子にとっては掛け替えのないお父さんだったのだな、と思いました。
昨年夏に実家を出てから、親父とはほとんど会っていません。今はもう、親父の葬式も出たくはありません。しかし、そんな私でも、「言いなりになるのでも、恨むのでもなく、ごく普通に付き合える日が、親父が亡くなるまでに来るのだろうか?」と、このドラマを観て考えさせられました。
人間を生産性向上や国威発揚の道具としか見ず、「普通である事」や「社会秩序」をやたら強調する、国会議員で極右の杉田水脈(すぎた・みお)と、その対極にある「異常」「無秩序」そのものでありながら、ある意味では普通の家族以上に家族愛に満ちた「万引き家族」。