アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

今初めて明かす自分の生い立ち

2012年10月12日 09時01分40秒 | 当ブログと私の生い立ち
 ブログ更新再開第二弾の記事は、急遽予定を変更して、自分の生い立ちについて少し書いてみたいと思います。mixiボイスの呟きで、マイミクさん(ここでは仮にAさんとしておきます)の下記の呟きに触発されて、自分の生い立ちについてコメントしました(以下P=プレカリアートと表記したのが私の呟き)。mixiに残したままでは、どんどん流れて後で探し出せなくなってしまうので、自分自身を顧みる為にも、こちらのブログにも保存しておきます。

(転載開始)
A:うちの親のいいなりになったら、他人の自由と幸福を素直に喜べないひねくれた性質になったよ。それに、自分の権利のために闘えないふぬけになった。脱却しなきゃ。縁を切らなきゃ。

P:ひょっとしたら封建的で内弁慶な頑固親爺タイプの親御さんでは?保守的な公務員に多いタイプで、堅物で世間が狭く、目上にはペコペコ目下には偉そう、面と向かって批判されたら逆切れ。金八先生のドラマで性同一性障害の生徒に差別的な態度で臨んだ校長キャラ。少々オーバーな表現ですが実は私の親爺がそんなタイプでした。(続きを見る)

P:それでも5人家族時代はみんなそれぞれ貶し合ったり庇い合ったりで特定の誰かだけを意識する事は殆どなかった。しかし兄が独立し妹も嫁ぎ母も亡き今は、否が応でも親爺を意識せざるを得ない。もう互いに好い齢なので昔みたいに取っ組み合いにはならず適当に譲り合ってはいるが、何かの折に昔のようになりかけたりもする。(続きを見る)

A:うーん。プレカリアートさんのおうちもいろいろあって大変のようですね。(以下、Aさんの生い立ちが数回に渡って綴られるが、個人のプライバシーに立ち入った内容をmixi外の一般公開ブログに転載する訳にはいかないのでここでは割愛)

P:Aさんも色々あったのですね。以下自分史の続き。幼少期は近所のガキの虐めと親爺の家庭内暴力に晒される。それを勉強で見返してやろうと非進学校から某有名私大へ。当然保守的な親爺とは対立、但し世捨て人として。大学時代になって漸く虐めを克服。民青・共産党に誘われ差別や暴力を生み出す社会矛盾に目覚め。(続きを見る)(注:民青=日本民主青年同盟、共産党系の青年組織)

P:やがて社会変革に生きがい求め生協に就職。その生協が実は民主的なのは外面だけで内部はパワハラの巣だった。退職し労働者を守らない共産党にも幻滅して離党。しかし虐めや差別を生む資本主義や右翼はもっと嫌いなので今も共産党は批判的に支持。こういう根っからの反体制左翼なので保守的な親爺とは今もウマが合わず。(続きを見る)
(転載終了)

 字数制限のあるmixiボイスでの呟きなので、内容は大幅に端折っています。今までの全人生が虐められるだけの灰色人生だった訳ではありません。病弱だった幼い頃の虐めはもうすっかり忘却の彼方に消え、小中学校時代の虐めも決して全学年を通してではなく実際にはのべ数年間だけで、その間にはバトミントン部に所属した青春時代もありました。
 生協時代も、新人当時こそ先輩から虐めにあったものの、二年目には他の職員を味方につけて反撃に転じ謝罪・和解に至り、その後は長時間のサービス残業も苦にせず、それなりに楽しんで仕事をしていました。
 一番腹立たしかったのは1998年頃からの虐め・搾取です。当時、日本経団連がそれまでの終身雇用を見直し、今後は一握りの幹部正社員だけを重宝し、残りの大多数は非正規労働者として使い捨てていくと宣言し、生協もその新自由主義の流れに便乗する形で、それまでの民主的ポーズをかなぐり捨てて、資本の本性を露わにしてきました。私が知っているだけでも4名の職員が過労死で亡くなっています。私もうつ病一歩手前まで追い詰められました。退職しなければマジで自殺か暴発していたかも知れない。
 前のバイト先でドーリーの件や労働条件切り下げに抵抗したのも、もう生協時代のように泣き寝入りはしたくなかったから。差別・搾取や虐めをする奴は絶対に許せない。

 そんな生い立ちの影響もあってか、今から思えば中学時代にはもう一端の「サヨク」だった様に思います。但し、斜に構えた「世捨て人」のガキンチョ「サヨク」で、共産党と中核派や革マル派の区別もつかず、寧ろ後者の方に憧れていたような記憶が。今でも、弱肉強食・競争至上主義の強欲資本家や御用経済学者、石原や橋下の様な国家主義で「上から目線」の右翼政治家は、自分とは絶対に相容れず、生協の共産党の官僚体質にも反発してきました。ただ、生協退職以後はその反発も次第に和らぎ、離党したのも単にバイトの勤務時間との関係で活動に参加出来なくなったのと、正直言ってオジン・オバン党員ばかりで魅力が失せたから。だから今でも頼まれれば選挙のビラ撒きを手伝ったりもします。

 そんな私なので、保守的な親爺とは昔から悉く対立してきました。但し、今はもう親爺も私に気を遣うようになり、今は互いに譲り合って生活しています。ただ何気ない拍子に、私からすれば取るに足らないような事で(例:たまたま急いでてスリッパを乱雑に脱ぐ)、いちいち人格絡みの小言を言ってくる事があり(例:お前は人間が出来ていない)、私も売り言葉に買い言葉で応酬になる事がある(例:親爺こそ奴隷根性でスネ夫みたいな人間で云々)。もうお互い別人格なんだから、人は人で放っておいてくれたら良いのに。年寄の冷や水と諦めるしかないのでしょうか。寧ろ今まで育ててくれたのだから、私の方が親をいたわらなければならないのに、「スネ夫」呼ばわりは流石に言い過ぎだと思いますが、だったら親爺もたかがスリッパの置き方ぐらいで人格や道徳を振り回す事ないと思いませんか?
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