大阪ダブル選挙の結果について、前からずっと気になっていた事がある。ダブル選挙の結果は残念ながら橋下・松井コンビの圧勝となった訳だが、その内実を見ると、民主・自民両党支持層のみならず、共産・社民両党支持層からも、少なくない部分が橋下に流れてしまった事になっている。実際の出口調査でも民主・自民票の4~5割、共産票でも2割弱が橋下に流れ、社民票も選挙直前の世論調査では半数以上が橋下支持に傾いていた。その為に、反橋下陣営がせっかく無党派層の半数近くの支持を獲得しながら、推薦・支持した筈の肝心の政党票をまとめきれず、橋下陣営の圧勝を許してしまったのだ。
http://www.senkyojapan.net/special/2011_osaka/kenshou/
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111119/lcl11111920120000-n1.htm
民主・自民両党の「裏切り」については、今更驚く事もない。元々、橋下自身が一期目は自公から担がれたのだし、所詮は民主・自民も橋下も、憲法改正・日米安保に賛成で大企業優遇・競争至上主義(格差拡大容認)という点では「似た者同士」なのだから。それが、今回は橋下の余りの横暴ぶりに嫌気が差して対立候補擁立に回ったものの、党本部の方では橋下人気にすっかり怖気づいて、橋下と反橋下の両陣営に二股をかけていた。最初から本気で戦う気なぞなかったのだ。
問題は、「反橋下」である筈の共産・社民支持者からも、かなり橋下に投票した人が出た事だ。ただ、これらの人々は、民主・自民支持者とは違い、「憲法改正・日米安保に賛成で大企業優遇」だから橋下に投票した訳ではない。寧ろ逆に、橋下の「反二大政党」姿勢や「脱原発」などの「革新ポーズ」に惑わされて、橋下に投票してしまったのだろう。下記「超左翼おじさんの挑戦」というブログの「橋下批判への違和感」という記事に、その辺の感覚を理解する手掛かりが潜んでいるように思える(但し、このブログ主さん自身が橋下に投票したという意味ではないので、その辺は誤解しないで頂きたいが)。
(引用開始)
橋下徹さんへの批判が盛んである。私だって批判するし、そのための本も準備しているから、批判が高まること自体に、違和感があるわけじゃあない。
問題は、批判の手法だ。というか、批判にとどまっていることというかなあ。
一言で言うと、不満のはけ口を求める国民に対して、分かりやすい不満の対象(公務員とか教師とか)を示し、あおり立てるやり方だという、そういう批判のやり方って、果たしていいのか。小泉さんとかヒトラーとかと同じで、まさにファシズムの手法だというやり方だ。
別に、それ自体、おかしいと思わない。いえ、それどころか、まっとうな批判だと思う。だけど、いくつか、理解できないことがある。
一つは、橋下さんの積極面をどうとらえるか、その見方が不明である。たとえば脱原発とか、高校教育の無償化とかは、橋下評価のなかでどういう位置を占めるのか。
橋下さんの全体はファシズムで、脱原発などは付随的な問題なのだろうか。そうではないだろう。だって、脱原発って、現在の日本政治の中心問題で、国民の関心の最大問題だ。
そういう問題で頑張っている橋下さんに対して、それなりの敬意が必要なのではないか。脱原発以外の小さな(相対的にだよ。人によっては脱原発より大事な問題はあるだろうけど)問題にこだわって、脱原発の課題を後景に退けていいのだろうか。いま大事なのは、脱原発でがんばる橋下さんを応援する市民運動だ、ということにはならないのか。
(中略)
さらに問題なのは、その橋下さんの手法に国民がだまされているという、その考え方だ。国民というのは、その程度の理解力しかないという考え方。
いや、そうなのかもしれないよ。でも、その程度の国民だというのだったら、なぜわれわれは、その程度の国民を惹き付ける言葉を発せられないのか。われわれの言葉が国民に響かないのは、いったい何故なのか。
だって、橋下さんが国民の不満をあおり立てるというけど、国民の不満を受けとめ、解決の方向を指し示すのが、市民運動とか左翼の役割でしょ。橋下さんのやり方が成功して、われわれのやり方が成功していないということは、どこかが抜本的に間違っているということではないのだろうか。
そういう見方に立って、自分のことを考え直すことも大事だと思う。
(引用終了)
http://chousayoku.blog100.fc2.com/blog-entry-1051.html
―確かに橋下は危なっかしい。誰かを敵に仕立て上げて叩く事で、国民の不満をそっちに逸らそうとしている。これは、かつてユダヤ人を弾圧したヒトラーと同じ、ファシストの手法だ。でも、脱原発とか「好い事」も言っているじゃないか。演説も巧みで国民の心を惹きつけてもいる。そこを何故もっと評価しないのか。何故我々もそれを見習おうとしないのか―これが、上記記事の言わんとする事だろう。
なるほど、筋論だけで見れば、そういう「善意の解釈」も成り立つかも知れない。でも、おかしくないか。そもそも何故「脱原発」なのか。原発が、放射能をまき散らし、環境と人々の暮らしを破壊し、原発労働者を被曝の危険に晒すからだろう。その「脱原発」を、元々「核武装」論者だった橋下が、何故急に唱え出したのか。
橋下が核武装論者なのは有名な話だ。「たかじんのそこまで言って委員会」という、右翼タカ派コメンテーターに主導権を握らせた関西ローカルのバラエティ番組での、橋下の核武装肯定発言で、一期目の知事選挙では公明党が推薦に二の足を踏んでいた位だ。今も橋下のその考えは変わらない筈だ。公人と私人の使い分けはしても、思想自体を変えたとは一切言っていないのだから。環境・暮らし破壊の最たるものである「核実験」「軍拡競争」や「核武装」に賛成しながら、何故「脱原発」を唱える事が出来るのか。
それは、「核武装」も「脱原発」も、橋下にとっては只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎないからだ。北朝鮮核武装への反発が強まったのを機に「日本も核武装せよ」と煽る。その一方で、今度は福島原発の事故で世論が脱原発に傾いたのを見て、それまでは一言も言わなかった脱原発を急に口にしだす。何のことはない。その時々の世論の風向きを見て、時流に便乗しているだけだ。
「2万%出馬しない」と言って知事選に出馬し、自公推薦で当選しながら政権交代後は民主党にすり寄る。その延長で、今回たまたま福島原発の事故が起こったから、今だけ「脱原発」を標榜しているだけだ。
若し、脱原発が彼の本意であるなら、関電株主代表権行使なぞという、「多数決に阻まれ何も出来なかった」と後で何とでも言い訳出来るような微温的な公約だけを一枚看板のように掲げて、それで事足れりとするような態度は取らない。「脱原発」公約をまるで自分の個人的手柄のように見做し、反原発の市民運動に冷水を浴びせかけるような真似はしない。況してや、脱原発とは根本的に相いれない核武装推進の立場なぞ、絶対に立てない筈だ。
ついでに言えば、橋下が強行する教育現場での「日の丸・君が代」強制も、当人は決して「日の丸・君が代」を素晴らしいなんて思っていない。強権支配をゴリ押しする為の地ならしとして利用しているだけだ。若し本心から素晴らしいと思っているなら(私はあんな非民主的で時代錯誤の君が代の歌詞なぞ素晴らしいとは全然思わないが)、少なくとも、その素晴らしさを相手にも分かるように説得する筈だ。その歴史や背景もすっ飛ばして、ひたすら「ルールだから守れ」なぞという強制の仕方はしない。そんな理屈で行けば、ブラック企業の不当労働行為や不正隠しすら「社内ルール」として免罪されてしまう。それを、世論の風潮がそうだからと言って、その是非も問わずに無条件に従わせようとする。これも只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎない。
「脱原発」も「日の丸・君が代」強制も只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎないとすると、では橋下のバックボーン・本質は一体何か。それが、政治的には「新自由主義」と呼ばれる「弱肉強食、競争至上主義」の価値観である。
橋下は、決して裕福な家庭には生まれなかったが、その逆境をバネに、進学校に進み一流大学を出てタレント弁護士になった。但し、その努力も所詮は「自分さえ良ければ好い、その為には幾ら他人を貶めても構わない」というエゴイスティックなものだったが。
そうして、サラ金の顧問弁護士として強きを助け弱きをくじき、「強いヤツや金持ちが一番偉いんだ、弱いヤツや貧乏人には人権なんて無いんだ」と、「ジャイアンに阿るスネ夫」みたいな生き方を理想とし、「嘘がつけたり人を騙す位でないと強い奴にはなれない」と嘯き、「2万%出ない」と嘘をついて選挙に出馬。
最初の選挙では「笑顔で笑う大阪」や「子育て支援」の偽公約を掲げ、大阪府知事に当選した途端に児童文学館の廃止や私学助成削減、パート公務員の首切りを強行。その挙句に、府財政の赤字を逆に増やし、震度3にも耐えられない不良債権のWTCビルまで抱え込みながら、その失政の責任も取らずに「大阪都構想」と公務員叩きで矛先逸らし。そうして茶番のダブル選挙を強行した挙句に、民意とか民主主義を「選挙に勝てば(たとえそれがゲリマンダーで得た勝利でも)何でもアリ」とまで捻じ曲げ・・・。
「大阪都構想」も公務員叩きも、公務員のリストラが目的だ。今まで自治体がやっていた地下鉄や水道や保育所などの仕事は、悉く民間企業の安上がりな派遣労働に置き換えられる。民営化で濡れ手に粟の大企業だけが肥え太り、労働者には低賃金過重労働、地域住民には「福祉の沙汰も金次第」の現実だけが押し付けられる。何の事はない。これまでの官僚支配(役人天国)が今度は財界支配(資本家天国)に取って代わるだけだ。だから財界がこぞって橋下を応援するのだ。
そんな事を目論んでいる人物の言う「脱原発」なぞ、とても額面通りには受け取れないだろう。彼は「脱原発で頑張って」なぞいない。嘘やハッタリをかましているだけだ。彼の手法から学ぶとすれば、ファシストに「敬意」を表するのではなく、寧ろ反面教師として、彼以上に有権者を惹きつける術を身に着けなければならないという事以外にはあり得ない。そうでなければ、逆に市民運動がファシズムと同じレベルに堕してしまう。
「地獄への道は善意で敷きつめられている」という格言がある。「善意の行動が却って悲惨な結果を招く事がある」という意味で使われる。橋下に「反二大政党」や「脱原発」の虚像を見て一票を投じてしまった人には、特に肝に銘じてほしい言葉だと思う。
http://www.senkyojapan.net/special/2011_osaka/kenshou/
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111119/lcl11111920120000-n1.htm
民主・自民両党の「裏切り」については、今更驚く事もない。元々、橋下自身が一期目は自公から担がれたのだし、所詮は民主・自民も橋下も、憲法改正・日米安保に賛成で大企業優遇・競争至上主義(格差拡大容認)という点では「似た者同士」なのだから。それが、今回は橋下の余りの横暴ぶりに嫌気が差して対立候補擁立に回ったものの、党本部の方では橋下人気にすっかり怖気づいて、橋下と反橋下の両陣営に二股をかけていた。最初から本気で戦う気なぞなかったのだ。
問題は、「反橋下」である筈の共産・社民支持者からも、かなり橋下に投票した人が出た事だ。ただ、これらの人々は、民主・自民支持者とは違い、「憲法改正・日米安保に賛成で大企業優遇」だから橋下に投票した訳ではない。寧ろ逆に、橋下の「反二大政党」姿勢や「脱原発」などの「革新ポーズ」に惑わされて、橋下に投票してしまったのだろう。下記「超左翼おじさんの挑戦」というブログの「橋下批判への違和感」という記事に、その辺の感覚を理解する手掛かりが潜んでいるように思える(但し、このブログ主さん自身が橋下に投票したという意味ではないので、その辺は誤解しないで頂きたいが)。
(引用開始)
橋下徹さんへの批判が盛んである。私だって批判するし、そのための本も準備しているから、批判が高まること自体に、違和感があるわけじゃあない。
問題は、批判の手法だ。というか、批判にとどまっていることというかなあ。
一言で言うと、不満のはけ口を求める国民に対して、分かりやすい不満の対象(公務員とか教師とか)を示し、あおり立てるやり方だという、そういう批判のやり方って、果たしていいのか。小泉さんとかヒトラーとかと同じで、まさにファシズムの手法だというやり方だ。
別に、それ自体、おかしいと思わない。いえ、それどころか、まっとうな批判だと思う。だけど、いくつか、理解できないことがある。
一つは、橋下さんの積極面をどうとらえるか、その見方が不明である。たとえば脱原発とか、高校教育の無償化とかは、橋下評価のなかでどういう位置を占めるのか。
橋下さんの全体はファシズムで、脱原発などは付随的な問題なのだろうか。そうではないだろう。だって、脱原発って、現在の日本政治の中心問題で、国民の関心の最大問題だ。
そういう問題で頑張っている橋下さんに対して、それなりの敬意が必要なのではないか。脱原発以外の小さな(相対的にだよ。人によっては脱原発より大事な問題はあるだろうけど)問題にこだわって、脱原発の課題を後景に退けていいのだろうか。いま大事なのは、脱原発でがんばる橋下さんを応援する市民運動だ、ということにはならないのか。
(中略)
さらに問題なのは、その橋下さんの手法に国民がだまされているという、その考え方だ。国民というのは、その程度の理解力しかないという考え方。
いや、そうなのかもしれないよ。でも、その程度の国民だというのだったら、なぜわれわれは、その程度の国民を惹き付ける言葉を発せられないのか。われわれの言葉が国民に響かないのは、いったい何故なのか。
だって、橋下さんが国民の不満をあおり立てるというけど、国民の不満を受けとめ、解決の方向を指し示すのが、市民運動とか左翼の役割でしょ。橋下さんのやり方が成功して、われわれのやり方が成功していないということは、どこかが抜本的に間違っているということではないのだろうか。
そういう見方に立って、自分のことを考え直すことも大事だと思う。
(引用終了)
http://chousayoku.blog100.fc2.com/blog-entry-1051.html
―確かに橋下は危なっかしい。誰かを敵に仕立て上げて叩く事で、国民の不満をそっちに逸らそうとしている。これは、かつてユダヤ人を弾圧したヒトラーと同じ、ファシストの手法だ。でも、脱原発とか「好い事」も言っているじゃないか。演説も巧みで国民の心を惹きつけてもいる。そこを何故もっと評価しないのか。何故我々もそれを見習おうとしないのか―これが、上記記事の言わんとする事だろう。
なるほど、筋論だけで見れば、そういう「善意の解釈」も成り立つかも知れない。でも、おかしくないか。そもそも何故「脱原発」なのか。原発が、放射能をまき散らし、環境と人々の暮らしを破壊し、原発労働者を被曝の危険に晒すからだろう。その「脱原発」を、元々「核武装」論者だった橋下が、何故急に唱え出したのか。
橋下が核武装論者なのは有名な話だ。「たかじんのそこまで言って委員会」という、右翼タカ派コメンテーターに主導権を握らせた関西ローカルのバラエティ番組での、橋下の核武装肯定発言で、一期目の知事選挙では公明党が推薦に二の足を踏んでいた位だ。今も橋下のその考えは変わらない筈だ。公人と私人の使い分けはしても、思想自体を変えたとは一切言っていないのだから。環境・暮らし破壊の最たるものである「核実験」「軍拡競争」や「核武装」に賛成しながら、何故「脱原発」を唱える事が出来るのか。
それは、「核武装」も「脱原発」も、橋下にとっては只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎないからだ。北朝鮮核武装への反発が強まったのを機に「日本も核武装せよ」と煽る。その一方で、今度は福島原発の事故で世論が脱原発に傾いたのを見て、それまでは一言も言わなかった脱原発を急に口にしだす。何のことはない。その時々の世論の風向きを見て、時流に便乗しているだけだ。
「2万%出馬しない」と言って知事選に出馬し、自公推薦で当選しながら政権交代後は民主党にすり寄る。その延長で、今回たまたま福島原発の事故が起こったから、今だけ「脱原発」を標榜しているだけだ。
若し、脱原発が彼の本意であるなら、関電株主代表権行使なぞという、「多数決に阻まれ何も出来なかった」と後で何とでも言い訳出来るような微温的な公約だけを一枚看板のように掲げて、それで事足れりとするような態度は取らない。「脱原発」公約をまるで自分の個人的手柄のように見做し、反原発の市民運動に冷水を浴びせかけるような真似はしない。況してや、脱原発とは根本的に相いれない核武装推進の立場なぞ、絶対に立てない筈だ。
ついでに言えば、橋下が強行する教育現場での「日の丸・君が代」強制も、当人は決して「日の丸・君が代」を素晴らしいなんて思っていない。強権支配をゴリ押しする為の地ならしとして利用しているだけだ。若し本心から素晴らしいと思っているなら(私はあんな非民主的で時代錯誤の君が代の歌詞なぞ素晴らしいとは全然思わないが)、少なくとも、その素晴らしさを相手にも分かるように説得する筈だ。その歴史や背景もすっ飛ばして、ひたすら「ルールだから守れ」なぞという強制の仕方はしない。そんな理屈で行けば、ブラック企業の不当労働行為や不正隠しすら「社内ルール」として免罪されてしまう。それを、世論の風潮がそうだからと言って、その是非も問わずに無条件に従わせようとする。これも只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎない。
「脱原発」も「日の丸・君が代」強制も只の「大衆迎合、人気取り」にしか過ぎないとすると、では橋下のバックボーン・本質は一体何か。それが、政治的には「新自由主義」と呼ばれる「弱肉強食、競争至上主義」の価値観である。
橋下は、決して裕福な家庭には生まれなかったが、その逆境をバネに、進学校に進み一流大学を出てタレント弁護士になった。但し、その努力も所詮は「自分さえ良ければ好い、その為には幾ら他人を貶めても構わない」というエゴイスティックなものだったが。
そうして、サラ金の顧問弁護士として強きを助け弱きをくじき、「強いヤツや金持ちが一番偉いんだ、弱いヤツや貧乏人には人権なんて無いんだ」と、「ジャイアンに阿るスネ夫」みたいな生き方を理想とし、「嘘がつけたり人を騙す位でないと強い奴にはなれない」と嘯き、「2万%出ない」と嘘をついて選挙に出馬。
最初の選挙では「笑顔で笑う大阪」や「子育て支援」の偽公約を掲げ、大阪府知事に当選した途端に児童文学館の廃止や私学助成削減、パート公務員の首切りを強行。その挙句に、府財政の赤字を逆に増やし、震度3にも耐えられない不良債権のWTCビルまで抱え込みながら、その失政の責任も取らずに「大阪都構想」と公務員叩きで矛先逸らし。そうして茶番のダブル選挙を強行した挙句に、民意とか民主主義を「選挙に勝てば(たとえそれがゲリマンダーで得た勝利でも)何でもアリ」とまで捻じ曲げ・・・。
「大阪都構想」も公務員叩きも、公務員のリストラが目的だ。今まで自治体がやっていた地下鉄や水道や保育所などの仕事は、悉く民間企業の安上がりな派遣労働に置き換えられる。民営化で濡れ手に粟の大企業だけが肥え太り、労働者には低賃金過重労働、地域住民には「福祉の沙汰も金次第」の現実だけが押し付けられる。何の事はない。これまでの官僚支配(役人天国)が今度は財界支配(資本家天国)に取って代わるだけだ。だから財界がこぞって橋下を応援するのだ。
そんな事を目論んでいる人物の言う「脱原発」なぞ、とても額面通りには受け取れないだろう。彼は「脱原発で頑張って」なぞいない。嘘やハッタリをかましているだけだ。彼の手法から学ぶとすれば、ファシストに「敬意」を表するのではなく、寧ろ反面教師として、彼以上に有権者を惹きつける術を身に着けなければならないという事以外にはあり得ない。そうでなければ、逆に市民運動がファシズムと同じレベルに堕してしまう。
「地獄への道は善意で敷きつめられている」という格言がある。「善意の行動が却って悲惨な結果を招く事がある」という意味で使われる。橋下に「反二大政党」や「脱原発」の虚像を見て一票を投じてしまった人には、特に肝に銘じてほしい言葉だと思う。
●ダブル選挙の結果は残念通り→残念ながら
●共産・社民両党支持者からも、かなりの部分が橋下に流れてしまった事だ。→少なくない部分が~流れた事になっている。
●実際の出口調査でも~橋下支持に傾いていた事になっている。→傾いていた。
●所詮は民主・民主も橋下も→民主・自民も橋下も
●「善意の行動が却って悲惨な結果となって跳ね返ってくる事がある」→「~悲惨な結果を招く事がある」
「さらに問題なのは、その橋下さんの手法に国民がだまされているという、その考え方だ。国民というのは、その程度の理解力しかないという考え方。
いや、そうなのかもしれないよ。でも、その程度の国民だというのだったら、なぜわれわれは、その程度の国民を惹き付ける言葉を発せられないのか。われわれの言葉が国民に響かないのは、いったい何故なのか。
だって、橋下さんが国民の不満をあおり立てるというけど、国民の不満を受けとめ、解決の方向を指し示すのが、市民運動とか左翼の役割でしょ。橋下さんのやり方が成功して、われわれのやり方が成功していないということは、どこかが抜本的に間違っているということではないのだろうか。
そういう見方に立って、自分のことを考え直すことも大事だと思う。」
ここは、右翼の私としても120%賛成。なぜ、私の意見は世に受け入れられず、橋下氏は少なくとも現在のところ大きな支持を得ているのか。それはやはり私の方に根本的に間違っている、少なくとも伝え方においては間違っている点があるのではないか、そういうことを考えないといけないのだと思う。
やっぱり、いい意味でも悪い意味でも大衆の本音に通じる何かを橋下氏は持ってるんですよ。それは悪しき本音かもしれない。でも、本音ではあるんですよね。もし橋下氏に勝とうと思ったら、大衆の「よき本音」を引き出すことが絶対必要なんだと思う。
ま、消費税の問題でもTPPでも、大企業スポンサーベッタリのテレビ・新聞だから、橋下はブルジョアマスコミ連中の期待の星なんだろうし。
橋下も前例同様どうせ1、2年で賞味期限切れですよw
橋下の公務員叩きや弱者叩き(生活保護受給者バッシングなど)への支持が、大衆の「悪しき本音」の現れだとすると、震災被災地支援活動や「伊達直人」現象などへの共感・支持が、大衆の「よき本音」という事になるのかも知れませんね。
ただ、私はその「よき本音」も、無条件に肯定する気にはなれません。それは、「よき本音」も簡単に「悪しき本音」に変えられてしまうからです。
実際に、それらの美談が「頑張ろう日本」キャンペーンに絡み取られて、「今は非常時なんだから政府のやる事に協力しなければならない」「デモや集会も自粛しなければならない」という形で、権力にとって都合の良いように利用されてしまっています。
でも本当は、幾ら頑張ろうにも頑張れない、それどころか、頑張ろうと言っている政府自身が大衆の頑張りにブレーキをかけているのが現実です。
政府による口先だけの震災復興とは裏腹に、生活再建の目途が立たずに自殺した酪農家や、地域の共同体が崩壊して孤立した末に「お墓に帰りたい」と言い残して亡くなったお年寄り、全然事故が収束していないのに冷温停止だの収束だの言って原発延命を図る政財界人によって、チェルノブイリ並みの被曝に晒され続けている福島県民や原発労働者にとっては、「よき本音」から発せられた「頑張ろう日本」キャンペーンも、所詮は安っぽい同情や「目くらまし」でしかない。そういう意味では、橋下の公務員叩き・弱者叩きと同じ「悪しき本音」とも何ら変わらない。
そして、単なる安っぽい同情や「目くらまし」として利用される事を拒否し、本当の支援や生活再建を求める脱原発や反TPP、反失業などの運動に対しては、過激派・反日極左などの罵倒が「悪しき本音」側から発せられる。
そういう事で、私は大衆の「よき本音」に対しても、最近は余り賞賛する気にはなれないのですが、その中で唯一希望を持てるとすれば、次のような例でしょうか。
それはもう数年前の事。当時は、ようやく小泉改革の影の部分にも光が当てられだした頃で、「派遣切り」の話題がよくニュースで取り上げられていました。丁度その頃に、大阪の長居公園か靱公園か忘れましたが、機動隊が放水で野宿者テントを強制排除しようとしていた場面をテレビ・ニュースでやっていて、それを休憩時間に見ていた当時のバイト先の同僚が、野宿者にいたく同情していたのが、非常に印象に残っています。
その人は、普段は職場の他の同僚と一緒になって「朝鮮人をやっつけろ」とか「反日左翼は」云々と言っていたのに(安倍内閣の頃で今以上にそういう雰囲気が強かった)、このニュースでは「この寒空に野宿者を放り出すなんて、余りにもやる事がえげつなさ過ぎる」と憤っていました。
その人にとっては、ひょっとしたら野宿者は意外と身近な存在だったのかも知れません。近所に寄せ場があり、以前の職場にも元野宿者がいたのかも知れません。だから、他の朝鮮人バッシングに興ずる人なら決して口にしないような、野宿者への共感が口に出たのかも知れません。
でも、たとえそういう人でも、他の場所では朝鮮人を貶めたり、最低時給を千円に引き上げを求めようとする運動を「贅沢」と罵ったりしていたのですから、やはり限界はあると思います。
その野宿者への共感が、時給引き上げへの共感に結びついた時こそ、橋下みたいな偽「救世主」や、時の権力に好いように利用される官製「よい本音」の限界を乗り越えられるのではないでしょうか。その為にも、時給引き上げを求める側も、橋下の悪宣伝に感情的に反発するだけでなく、「野宿者への共感が時給引き上げに結びつかないのは何故なのか」を、考えなければならないと思います。
但し、これは何も橋下に謙ったり、況してや「敬意を表したり」なぞする性質のものではないと思います。橋下の言っている事なんて、矛盾だらけの揚げ足取りでしかなく、凡そまともに取り上げる価値もないものです。でも、現実はそんな詐欺まがいの輩にみんな靡いてしまっています。それを打ち破るには、運動側の弱さも大衆の弱さも冷静に分析した上で、橋下の弱点を突いていかなければならないと思います。
しかし、それは完全に間違いですよね。もしも大衆が愚かで醜いのなら、それが人間というものであり、私自身もその一人です。ですけれども、実際の一人一人の人間というのはそういうものじゃないですよね。愚かでもあるけど、変な思想にかぶれた私よりずっと本質的なところでかしこかったり、助け合っていたり、時にはエゴイステイックだけど、時にはものすごく無私の行動を取ったりする。金持ちが悪で労働者が正義でもないし、その逆でもない。自分の財産で人助けを本当に頭が下がるくらいしている人もいる。貧しいからこそ精神がゆがんだ人もいれば、本当に苦労しているのに他者を思いやる人もいる。当たり前のことなんですけど、大衆ってそういうもんですよね。
その大衆が、自分の思想や政治方針を拒否し、受け入れない時、それは大衆の無知と同様、自分たちの伝え方に問題があるんじゃないか、という意識は、私は持ち続けないとまずいとおもっているんです。こういう発想が昔は私に全くなかったのでね、「国民の不満を受けとめ、解決の方向を指し示すのが、市民運動とか左翼の役割でしょ。橋下さんのやり方が成功して、われわれのやり方が成功していないということは、どこかが抜本的に間違っているということではないのだろうか。」という言葉に、ああ、これは以前の私への大変的確な批判であし、今も私はこういうところがあるなあ、と思ってしまったわけです。
橋下氏はしょせん2,3年なのかも。しかし、我が右派は一度もこれだけの支持を得ていないのですから、少なくとも私や私に近い立場の人は、橋下氏を侮れないと思います。
小沢一郎は脱原発で反格差だと店のチラシにありましたが、では、何故その「反格差」の小沢が、新自由主義者の橋下徹や河村たかしと昵懇なのか。橋下と一緒になって右翼で原発容認の石原や平沼と新党を作ろうとしているのか。
橋下・小沢・石原が一緒になった新党なんて、まるでゲテモノだ。民主・自民をもっと酷くしたような党になる。そんな党・勢力が「脱原発・反格差」な訳ないじゃないか。
大阪にも討論バーが出来た事は素晴らしいと思うし、増山麗菜さんや木下黄太さんを呼んでのイベントには私も参加したかった。それで、当初はその討論バーの事をブログ記事に取り上げようと思っていたけれど、小沢の件で完全に興ざめ。
この、歴史総括の「欠落」や「未完」は、今放映されている『坂の上の雲』の評価のような芸術・文化問題にまで波及していますが、問題は、近代史だけにとどまらない社会の諸領域で日本民族全体を覆っているように思います。左翼でさえ朝鮮半島問題や核(核兵器も原発も含む)問題、社会変革戦略などのような大問題で総括の「欠落」や「未完」を露呈していますからね。「自民対非自民」や「構造改革」「政権交代」などのニセの土俵で踊らせられてきた多くの日本人にその弱点があることは否定出来ないでしょう。日本人は、もう、「民主党に裏切られた」「東電に裏切られた」などといった類いの責任転嫁で自らの社会的責任を回避することはできない地点にまで来てしまっているのです。
ところで、「自虐」が嫌いなはずの右派論客三浦さんも、丸山史観同様の自虐性を共有しているようですねw
戦前戦中左翼の無力・無能を批判する丸山は、歴史的条件の有無という具体的分析さえ抜きに願望だけの後知恵を過去に押しつけていますが、こういう「逆ユレ」もまた階級闘争史観と裏返しの主観主義の一形態でしかないと思いますよ。「真理」や「善」の類は、それを指摘・提唱されただけで実現するほど観念的なものではないハズです。
残念ながら、人類史はインスタントラーメンのようにもいきませんねw
こういう表現・伝達形式に属するような未熟・拙劣への反省というのも一般的には必要でしょうけど、問題はむしろ、「形式」より「内容」、「中身」の方の真偽や善悪なんだと思いますけどね。
政治も、芸術のように表現・伝達の形式の巧拙は問われますが、問われる主たる点はやはり科学同様に中身だと思いますよ。中身が悪い政治や芸術は、たとえ巧く表現・伝達したとしても「巧言令色少なし仁」です。
だから、「中身」の方こそ、絶えず不断に検討し直さなければならないでしょう。特に、「変革の立場」を自認する左翼の側は、なおさらにねw
やはり私の書き方が悪いのかうまくつたわらないよぅですので、一応一点だけ。私は右ではありますし、自虐史観に断固反対だと思われるのでしょうけど、もっといやなのは「負けてえばる」姿勢なんですよ。私の周囲にそういう人多かったものでね。運動は結果を出せなかったのに、意義があったとか、成果はすぐには表れないが確実に前進しているとか、そういう言い方をするより、まず結果が出なかったときは素直に指導者は謝罪すべきだと思うんです。真理は確かにすぐには実現しないんでしょうけど、でも実現を目指して人に運動への参加を呼び掛けたとき、その指導者はやはり運動の敗北の時には責任が生じると思うので。
ま、これは私もそうです。未だに拉致被害者を救出できず、北朝鮮の独裁政権が存続しているのは、運動の側に大きな責任があります。
>拉致被害者を救出できず、北朝鮮の独裁政権が存続しているのは、運動の側に大きな責任があります。
やはり、上記からは小太さんの善意や誠実と共に情勢認識や歴史観の観念性が窺えますね。
ま、その善意のツメの垢を多少は共産党幹部みたいな連中にも飲ませてやりたいんだけどねw
ナゼ、北の金独裁は延命しているのか?北半部の人民はナゼ体制変革に立ち上がれないのか?北の体制独裁を超克するためには(拉致や帰還運動の被害者も含めた北の民衆全体の前20世紀的な劣悪状況を打開するためには)いったい何が必要なのか?というような問題の分析が弱いままで、自らの主体的努力の不足を膠着状況の主要因視したり「敗北」をみるような貴兄の態度からは、丸山眞男氏のような善意は感じられますが、やはりそれだけではちょっとね。
やはり、貴兄の歴史観は右派的だというだけでなく観念的です。「ミネルバの梟」に笑われちゃうかもw
小太さん、オウムのようなカルト教の信者と対話した経験はあるんですか?
人類史において原始共産制から階級社会が誕生した原因が階級闘争などであるわけがないことは明白です。
ということは、社会変革前提的な変革意識とは、しょせんは「助産婦」(レーニン)でしかあり得ないということであり、人類史もまた「一つの自然史的過程」(マルクス)だということです。
「ヘーゲル-マルクス問題」を貴兄も一度囓ってみたらいかが?
もし、これだけは読んどけ、という文献があったら教えてください、人間、勉強するしかないからねえ。
彼は現実主義者ですから。
>彼は現実主義者ですから。
まあ、そうでしょうね。しかし彼の掲げる「現実」には夢も希望もない。あるのは自分への愛と利益だけ。ってことが問題ですね。そんな人間が政治をしているのが「絶望的な現実」なんだと思いますよ。
ふと思ったんですが橋下氏ってのは「麻薬」みたいなもんでしょうか?一時的な快楽をもたらしてくれて熱中するけど、最後はボロボロになる、みたいな。
あんたたちのいう「現実」って、武装自衛や軍事力による平和が今の世界の現実だ、現実的選択肢だ、とでもいうような類いの蒙昧だろうが!w 9.11テロで完全に破綻が露呈してしまっている幻想をまだ、「現実」だと取り違えてしがみついているような、それこそ麻薬中毒状態の無自覚ですよw
早く眼を覚ますこと!
橋下の妄想世界から一国も早く離脱すること!
>三浦さん
貴兄とは、貴兄のブログで直接対話させてもらっても良いんだけど、お宅には簡単に書き込めないみたいなんだよねw
そうそう、さしあたりお薦めしたいのは有井行夫の『マルクスの社会システム理論』あたりですよ。
20世紀は、唯物論と観念論の闘いでも社会主義と資本主義の争いでも革命と保守の対立でもスタと反スタの闘いでも無かった、ということがマルクスの世界観にそくして解明されている著作ですから、社会や政治、文化の問題について何事かを語ろうとする人間なら一読の価値はあると思いますよ。
そして、それを受けてのうろこさんのコメントも、橋下人気が実態を伴ったものではない事は充分承知した上で、一時的に気落ちしているだけだと思うけど。
たださぁ、あのオレの「あんたたち」というのには、うろこさんは含まれていませんよ。
「現実」と「幻想」、「現実」と「理想」の見分けや区別も出来ずに言葉をもてあそんでいるいわゆる「現実主義者」を指して言っているつもりです。
レッテル貼りすると本質が見えなくなることがあるため、彼を評価するためには彼の言動・行動をできるだけいろんなメディアを通じて細かく知っていく必要があると思います。
ところで橋下さんが「核武装」論者ってのは本当なのですか?たしかにたかじんの番組で言われていましたが、あればあくまでコメンテーターとして番組をもり立てるために言っただけの言葉ですよ。
知事以降、現実的に核武装など不可能とはっきり言っています。
そういう意味じゃ、核武装まで言及している石原知事との連携は難しい気がします。
あと脱原発ですが、なぜそれがただの虚像だと判断できるのですか?
実際に他の株主と共同して関電側に新型火力発電所・発送電分離を株主提案すると言っています。それの目的は減原発そして将来的に脱原発になります。
この前大阪で行われた市民投票ですが、仮にあれで大阪市に条例ができても、実際に脱原発を実現できるのでしょうか?
もっと現実的に脱原発をするための道筋を考えていくことが大切だと思います。
レッテル貼りすると本質が見えなくなることがあるため、彼を評価するためには彼の言動・行動をできるだけいろんなメディアを通じて細かく知っていく必要があると思います。
これは、まあその通りですよ。その現実主義を自称する政治家や識者が、本当にその言葉通りであるかどうかは別にして。
>ところで橋下さんが「核武装」論者ってのは本当なのですか?たしかにたかじんの番組で言われていましたが、あればあくまでコメンテーターとして番組をもり立てるために言っただけの言葉ですよ。
知事以降、現実的に核武装など不可能とはっきり言っています。
そういう意味じゃ、核武装まで言及している石原知事との連携は難しい気がします。
じゃあ逆に質問します。核武装って、そんなバラエティ番組で軽はずみに言えるような事なんですかね。原爆被爆者が聞いたら怒りに身を震わせますよ。だって、レイプの被害者に向かって、「只で思いのままに強姦出来たら、さぞかしスカッとするだろうな」と言っているようなものじゃないですか。そんな発言をしといて、後で幾ら「冗談でした」とか「単なる言葉の綾でした」とか言われても、それで通用する話なんですかね。若し自分が当事者だったら、それで納得できますか。
仮にも政治家として人の上に立つならば、少なくとも最低限のモラルは持ち合わせておいてほしいですね。幾ら演説が上手くて機を見るに敏でも、最低限のモラルすらない、そんな「人間のカス」に、政治なんて絶対にやって貰いたくはないですわ。
これは、別に観念でもイデオロギーでも何でもない、人間としての素朴な感情です。それを観念だのイデオロギーだのと、一方的にレッテル張って貶める人間の方こそ、よっぽど観念主義者だと私は思いますがね。
橋下は核武装に反対じゃないんでしょう。若し反対だったら、たとえ冗談や言葉の綾であっても、決してそんな事は言えない筈です。少なくとも、被爆者の苦しみに思いを馳せるだけの良心を持ち合わせている人間であるなら。そんな良心のかけらもない人間が、幾ら「現実的に核武装など不可能」だからと言われても、それだけで「ハイそうですか」とはなりませんよね。本当は核武装したくてウズウズしているんだけど、世論の手前、渋々諦めているだけかも知れないんだから。
>あと脱原発ですが、なぜそれがただの虚像だと判断できるのですか?
ただ単に損得勘定だけで、その時々の風向きで脱原発を唱えているだけなのが、もう見え見えだからですよ。
これも逆に質問したいのですが、そもそも何故、脱原発が求められているんですか。ただ単に、事故による補償リスクとの兼ね合いで、経済コストが引き合わないからだけですか。
それだけじゃあないでしょう。原発労働者に被曝を強い、自然環境を放射能で汚染し、地域経済の自主的発展の芽を摘み取り、共同体の人と人との絆をズタズタに引き裂き、核のゴミを途上国に押し付けても、自分たちの国家や企業さえ良ければそれで良い、そんな自分勝手な事をずっと続けていたら、最後には人類全体が地球もろとも絶滅してしまうかも知れないからでしょうが。
新自由主義者の橋下には、そういう最も大事な観点が全く見られないからですよ。若しそういう観点があり、人間としての良心を持ち合わせていたら、「日本は自分から戦争が出来ないからダメなんだ」とか「核武装って良いかも」「ハハハ、あれは冗談でした」「ちぇ、今は核武装が出来ないのか、つまんねえなあ」なんて発想や発言が、そもそも出てくる筈がないでしょうが。
いいんじゃないですか。政治家じゃないですし、単に橋下個人の意見としてそう言っただけですから。
自分はこの点で橋下がモラルのない人間であるとは感じないです。
>いいんじゃないですか。政治家じゃないですし、単に橋下個人の意見としてそう言っただけですから。
自分はこの点で橋下がモラルのない人間であるとは感じないです。(フウセンウナギさん)
今はもう思いっきり政治家になってますが。橋下当人がどんなにいい加減な三百代言で政治家になろうと、少なくとも私は政治家として認識していますので、当然過去の発言との矛盾については突いていきますし、核武装容認から表向きの否定へと立場を変えた事に対しても、今に至るも何の説明もなく、はぐらかしで誤魔化す橋下に対しては、その責任を追及していくつもりですがね。
ところで、なるほど橋下は今この日本では人気を集めているのは事実です。同様に、米国でもオバマ民主党を批判する共和党の右翼やティーパーティーみたいなネオコンが人気を集めているのも事実です。しかし、目を世界に転じてみれば、フランスでは逆に保守派のサルコジ政権が野党の攻撃に晒され、中南米では日本とは逆にネオコンや新自由主義者が民衆から総スカンを食っています。
世界的に見れば、寧ろ日本の橋下人気や米国のネオコン人気こそが、周回遅れの産物だとも言える訳で。橋下人気が現実の一端である事は認めますが、決してそれが全てではないし、それが現実を正しく反映したものではないという事も、頭に入れておいた方が宜しいかと。
弁護士は政治家じゃない、とか「現実」概念の蒙昧とか・・・・
「現実主義」を肯定的に振り回す人間って、やはり、幻想(=過去の現実)を現実(「この瞬間」というものが絶えず過去へと流れ去っているように、「現在」や「現実」は絶えず未来をも含む)と区別出来ず、現象や仮象を即、現実だと混同してしまうような哲学的・言語的貧困を抱えているようです。
「現実」や「現実主義」という言葉を肯定的に使いたい人は、一度「現実」というカテゴリーや概念について、真剣に向き合うべきでしょう。じゃないと、幻想世界の中で「概念の無いところに言葉がやって来ている」www
だから核保有の発言した時点では政治家ではないということですよ。
そのときの発言と今の橋下の政治家としての意見は別物として見る方がいいと思いますよ?
それを別物として見られないというのであれば、根本的に私と考え方が異なるので辛くなりますね。
新自由主義・ネオコン・保守といった主義思想の層とそれについての世界における動向は理解しますが、
それが橋下の言動・行動・政策にどう関わっているのでしょうか?
単純に「新自由主義」とくくるのでなくて、細かいところまで見ていくのがいいんではないでしょうか?
「蜃気楼」も「影」も非存在である存在、非現実である現実でしょ?もっとも、こういう仮象存在は、意識のような仮象とは違って妄想や幻想の類いでもない。実在性が欠如していても誰でも認知出来る点で客観性はある。
しかし、砂漠で蜃気楼の池に飛び込んでも喉の渇きは癒されない。蜃気楼の池や街って、ヘーゲルが「非有の自体的存在」と呼んだところのものでしかないんだよね。
橋下の脱原発もせいぜいそんなものですw
「現実」という言葉に欺されてはいけません!!!
あと、4トロ板にも書いたけど、橋下の脱原発が自家撞着や形容矛盾(「丸い三角形」のようなもの)でしかないことは、彼の9条への態度を始めいろいろな論拠や傍証でも既に明白ですよ。
新自由主義や資本主義の礼賛者、反9条反25条の思想立場と脱原発は論理的に整合し得ません。
橋下に脱原発を期待することは、「八百屋で魚を求める」どころか詐欺師を警官に任命するようなあどけない願望、幼稚な妄想の類いでしかないでしょう。それは蜃気楼の実在性を宣伝するような行為以下の愚行です。
>だから核保有の発言した時点では政治家ではないということですよ。
そのときの発言と今の橋下の政治家としての意見は別物として見る方がいいと思いますよ?
それを別物として見られないというのであれば、根本的に私と考え方が異なるので辛くなりますね。(フウセンウナギさん)
「別物」として認識して貰う為には、(1)過去の核武装容認発言の何処が間違っていたのか、(2)その誤りを何処で気付いたのか、(3)今は当該発言をどう総括しているのか、(4)再び同じ過ちを繰り返さない為にどうするのか―少なくともこの4点について、有権者に分かるように説明する義務がありますね。それも無しに、ただ単に「気が変わったから」「政治家になったから」というだけで、「今はそんな事は思っていない」と幾ら言われても、全然信用出来ませんよ。単に「公人と私人で立場を使い分けているだけ」で、思想自体は全然変わっていないのですから。
今の自民党系政治家がそうじゃない。60年安保の後、池田内閣が「憲法改正しない」と言ったのも、今は形勢不利だから改憲論議を一時棚上げしただけであって、憲法改悪の野望を捨てた訳ではなかった事は、今や周知の事実でしょう。
そういう事(過去の核武装容認発言との矛盾についての指摘)も、既にブログ記事に最初に書いています。このコメント欄も、本来はその記事本文を受けての感想・意見を書く所でしょう。その本文もロクに読まないで、自分の思い込みだけで、いつまでも堂々巡りみたいな事を書かれても困ります。辛いのは寧ろ私の方です。
>新自由主義・ネオコン・保守といった主義思想の層とそれについての世界における動向は理解しますが、
それが橋下の言動・行動・政策にどう関わっているのでしょうか?
単純に「新自由主義」とくくるのでなくて、細かいところまで見ていくのがいいんではないでしょうか?(同上)
単純にくくってなぞいませんよ。具体的に橋下の言動や実際の政治行動を分析した結果、彼の道州制志向や公共サービスの民営化路線を「新自由主義」、「脱原発」を「その場しのぎの時流便乗」と認識するに至ったのです。
だから、橋下のやっている事を何も「全否定」はしていません。たとえ「口から出まかせ」であっても、自民党に見切りをつけて、脱原発を口にするようになった事は、それまでの彼からしたら一つの「進歩」ですからw。少なくとも、彼にもそういう「変化」を強いているという点では、反橋下陣営の側も、もっと自信を持ったら良いと思います。
但し、その橋下の「変化」も所詮は「口から出まかせ」のものでしかなく、決して本心から出たものではない。橋下のネオコン・新自由主義者としての本質は何も変わっていない。それは、彼のこれまでの言動や、その言動と表向きの「変化」との矛盾について、有権者に全く説明出来ない事からも明らかです。
そこをきちんと見抜いてこそ、初めて「現実」も見えてくるのではないでしょうか。それを抜きにして、「橋下が言っているから間違いない」と信じているだけでは、新興宗教の信者と同じです。それこそ、観念論やイデオロギーに囚われているのではないでしょうか。
橋下が知事(政治家)になってから発言したのならば、それを撤回した経緯は知りたいですね。
でもその前の政治家ではない状態での発言ですから、そこまで説明する必要があるとは私は感じないです。
でも個々の感じ方になるのでしょうか。難しいですね。
あと、今の今でも核武装の思想は変わっていないとなぜ断言できるのですか?
「考えは変わらない筈だ」とか「思想自体を変えたとは一切言っていない」という理由では、橋下が今でも核武装論者とは断言できないのではないでしょうか?
それと脱原発についてですが、「脱原発」と「反原発」を同じ意味で捉えられていますか?
橋下はこの2つを分けて考えています。
「考えは変わらない筈だ」とか「思想自体を変えたとは一切言っていない」という理由では、橋下が今でも核武装論者とは断言できないのではないでしょうか?(フウセンウナギさん)
あなたもしつこいですね。政治家になって以降は勿論の事、それ以前のタレント弁護士時代も含めて、橋下はメディアで自分を売り込んでいた公人です。公人である以上、自分の発言については説明責任が生じます。公人も人間である以上、従来の立場や思想を変える事はありますが、その場合は一般庶民以上に、何故それを変えたのか、視聴者や有権者に説明する責任が生じます。それも出来ない無責任者に、メディアを利用する資格はありません。
しかし、橋下は今に至るも「思想自体を変えたとは一切言っていない」。だから、そんな人物の言う事なぞ信用できないと言っているのです。これでもまだお分かりになりませんか。何度も同じ事を書かせないで下さい。
>それと脱原発についてですが、「脱原発」と「反原発」を同じ意味で捉えられていますか?
橋下はこの2つを分けて考えています。(同上)
「脱原発」と「反原発」。若干のニュアンスの違いはあり、どちらかと言えば前者の方がより能動的・積極的な感じがしますが、それも使う人や場合によって様々でしょう。その時々の雰囲気によって使い分けているだけの場合もある。
そもそも、それ以前に、橋下の場合は「脱原発」公約自体が「その場しのぎの時流便乗」でしかないので(その理由も今まで散々述べました)、彼が如何に用語を使い分けようと、その違いについて、わざわざ時間を費やしてまで議論するほどの価値があるとは思いません。
そう、つまり、資本主義や市場経済を不動の前提的「現実」だと妄信・拝跪して自身もそのオコボレにあずかっているような連中は、利権社会(=資本主義)の枠内で何とか原発利権に替わる方策を見出そうとする。多くの学者・文化人・タレントたちが原子力村の応援団だったことも想起すべきです。
つまり、問題を、真に建設的なオルタナティヴの模索や実現ではなく、原発に替わる新たな利権構造、利潤追求方策の実現へとすり替えねじ曲げようとする勢力が確実に存在すること。そんな連中が、ちょっと前の渡辺の時のように、最近は橋下の周辺に急速にたむろし始めているようです。
戸毎ソーラー発電の発展・普及のような「革命的な代案」を技術的・社会制度的に追求するのではなく、問題を「送発分離」政策や電力事業の「自由化」に矮小化して資本の利益(=利潤追求社会というシステム原理)を維持・守護しようという方向。
ソーラーシステムの発電能力は、10年以内に現在の数十倍にまで進歩するということが言われていますが、そのソーラーにせよ風力や地熱利用にせよ、それらの利用が本格化すれば経済社会のシステムは大きく変わらざるを得ないでしょう。もし、エネルギーの自給自足・地産地消が戸別・戸毎に完備するような社会になれば、資本主義や市場経済の根本が揺らぐかもしれません。何せ、エネルギーのような基幹産業部分が商品経済から離脱し始めるのですからね。
「現実」に囚われた近視眼には、事態の本質も直近の未来も読めません!
『帝国主義論』の中でレーニンが暴露したように、資本とは、自己の権益を確保するためならば技術的発展を妨害する障害物にさえ転化する疎外存在なのですから、「脱原発」の問題でも注意は必要でしょう。
橋下礼賛者たちに対しては、そういう観点からの警戒も必要だということです。
「地獄への道」は、「善意」だけでなく「私利私欲」によっても敷きつめられているのですから。
公人はあくまで政務につく方だけですよね?いくらみなし公人という扱いがあるにしても、まったく政治力のなかった
橋下「弁護士」が公人扱いされるのはよく分かりません。
脱原発と反原発について、それぞれの定義については気にしません。
ただ橋下本人が分けて考えているのですから、橋下の行動を批判するならば事前にそのことをこちらが理解してから話すことが
筋ではないでしょうか?
こちらの一方的な価値観で橋下を批判しても意味がないと思うんですね。
私はプレカリアート様の意見に対してコメントしてるだけです。
この書込が荒らしのように感じられるのであれば、無視したらいいんじゃないでしょうか?
このウェブログはプレカリアート様ご本人のものですから、自由に管理すればいいと思います。
後で少し調べたら、元々「公人」というのは、官吏や政治家などの公職に就いた人を指し、そこから著名人などの意味にも使われる様にもなったそうです。私は後者の意味で今まで使用して来ましたが、前者で解釈されると意味が通らなくなるので、以後は標記の様にします。
ヒラの公務員(一応は公人)に経団連会長(同じく民間人)よりも重い説明責任を課す様な、倒錯した事になっては意味が通らなくなりますので。
しかし、私人が公人になった場合は、その私人時代の挙動・言動は問われます。
岩手県議会で覆面議員が問題になったのも、彼の過去の潔白が証明不能だったからです。覆面に隠れた犯罪者だったらかなわんからね。
だから、私人の過去の言動も問われるんですよ。
橋下は、生涯ずぅーーーーーーーーと私人を通しているんじゃないですからね。
そういうこと!