東京都知事選での澤藤氏らの宇都宮候補批判に対して、「保守陣営を利するものでしかない」との意見があります。所謂「利敵行為」論です。実は私も、前回記事を書いた後、ある方から同様の意見をメールで戴きました。早速、私も自分の真意をしたためたメールをその方に返信させて貰いました。幸い、その方とは最終的に分かりあえる事が出来ましたが、これを機に、改めて前回記事を書いた真意をここに公開する事にします。
私は、今回の件については、澤藤氏らの主張だけでなく、宇都宮陣営の言い分も聞かなければ公正なコメントはできないと思い、ネットで調べていました。
でも、宇都宮氏は有力都知事候補でありながら自身のHPも持たず、後援会「人にやさしい東京をつくる会」HPにもなかなか反論が掲載されませんでした。ようやく掲載された先の「法的見解」も、抽象的な言い訳ばかりで、澤藤氏や醍醐氏の疑問に具体的に答える内容には全然なっていませんでした。
まず第一に、「法的見解」には、最初に事件の発端となった澤藤大河氏など2名の随行員外し強行や、その背景となった選対の非民主的運営についての説明が、一切載っていません。選対を私物化し、街宣日程も当日にならなければ第一線の運動員には伝えず、現場からの人手不足解消を求める声にもまともに対応しなかった件です。それをずっと大河氏は指摘し続けていました。民主的な組織なら、ここで何らかの改善策が講じられる筈ですが、選対本部はずっと無視を決め込んだ挙句、最後には異論排除に打って出てきました。
そして、候補者の宇都宮氏も、その選対の非民主的運営を是正するどころか、それを容認し寧ろ加担するかのような態度を取り続けました。最初は「大河氏たちには何の問題もない」と言っておきながら、後になれば周囲と口裏を合わすかのように大河氏たちの揚げ足取りを始める。これが果たして革新・民主の候補者のする事でしょうか。
私は、ある意味、この非民主的運営への指摘の方が、後述の金権・企業ぐるみ選挙との指摘よりも重大だと思いました。何故なら、ここにこそ、宇都宮後援会幹部の「人にやさしくない」官僚的体質が現れていると思うからです。その現象としての現れが金権選挙です。
そして第二に、金権選挙との批判に対しても、「法的見解」においては、「幹部が受け取った報酬は、ウグイス嬢などの機械的業務に対しては支払いが認められている労務費や、交通費・宿泊費などの実費支給に過ぎず、選挙買収には当たらない」との一般的な言い訳に終始し、「実費支給ならなぜ端数金額まで収支報告書に記載しないのか」「選対幹部の選挙運動まで機械的業務として処理できるのか」等の具体的疑問には何ら答えるものになっていません。
選対事務局長が岩波書店から社員として給与を貰いながら選挙専従として約1ヶ月間張り付いていた件についても同様です。「法的見解」では告示日以降の17日間だけを取り上げ、「有給休暇で消化可能だから企業ぐるみ選挙には当たらない」と片付けています。しかし、では告示日以前についてはどうなのか。本当は、告示日以降であろうとなかろうと、業務外の選挙活動に業務命令で参加する(させられる)事自体が、企業ぐるみ選挙であり、個人の思想信条の自由を侵すものであるのに。
そのくせ第三に、澤藤氏の妻が宇都宮氏の供託金を一時立て替えた事について、澤藤氏があたかもそれを宇都宮氏への人格攻撃に利用しているかのように書き立てています。実際は、宇都宮氏の借金が供託の為に必要に迫られたもので、何らやましいものでない事は、澤藤氏もブログで言及しており、その上で「何故借金したと正直に言わずに、自腹で供託したと同窓会で嘘をついたのか」と書いているだけなのに。(だから私も、こんな事は議論の本筋とは無関係なので、前回記事でも敢えて取り上げませんでした)
そんな「どうでも良い事」で澤藤氏と論争する暇があるなら、第一で取り上げた選対の非民主的運営についての釈明をまずすべきだろうと思います。
要するに、宇都宮氏も後援会幹部も、保守陣営の金権・腐敗や非民主的・権力的体質を批判しながら、自身も規模こそ違えど、それと同じ様な体質にまみれていたという事です。
勿論、全てとは申しません。清廉潔白で真に弱者の味方として活動しておられる方も一杯いる事は私も知っています。でも、幹部の中には保守陣営と同じ様な体質が蔓延っている事が、今回の事件で露わになりました。しかも、宇都宮後援会には、共産党関係者だけでなく、過去には「共産党は非民主的・スターリン的」と罵ってきたような人(高田健氏など)や、無党派市民活動家(上原公子氏や内田聖子氏など)もいます。そういう人も含め、前述の体質にまみれていた事が明るみになったという事です。これは相当根が深い問題だと思います。
ソ連が何故崩壊したか、北朝鮮が何故あの様な独裁国家になってしまったのか、いずみ生協でなぜ経営私物化問題が起こったのか。その最大の原因は、いずれも当事国の国民や職員が、「私たちの国は労働者の国だから」「私たちの勤務先は民主団体だから」という理由で、実際の不正や人権侵害に目をつむってきたきたからでしょう。
これについては、私自身にも忸怩たる思い出があります。生協に勤務していた当時、残業代は殆ど支払われておらず、大変な長時間労働とサービス残業が職場に横行していました。その実態を誰かが労働基準監督署に告発し、労基署から監査に入られた事がありました。その時に職制は何と言い訳したか。「労基署といえども国家権力の手先である、サービス残業摘発に名を借りた弾圧から生協を守らねばならない」という趣旨の事を言ったのです。そして「生協理事会としても決して長時間労働やサービス残業に手をこまねいている訳ではないが、その是正には時間がかかる」とも。しかし、実際には何人もの労働者が過労死させられていたにも関わらず!(私が退職するまでに、知っているだけでも4名)
しかし、その頃の私は、その職制に内心反発を抱きながらも、「まずは生協を弾圧から守らねばならない」と思っていたのです。今にして思えば、何て能天気だったかと思います。労働者の人権や人命を平気で蔑にするような生協が、政府の憲法改悪・リストラ政策と本気で闘えるか?ズルしても競争に勝てれば良いという立場で、財界の新自由主義(弱肉強食)の考え方やブラック企業の搾取を本気で批判できるか?できる訳がない。その様な立場では、最後にはこれらの問題でも、組合員や国民を平気で裏切るだろう事は、容易に想像できるのに。
私は何も、宇都宮氏の候補者としての適性だけを問題にしているのではありません。単に「演説が下手」等の技術的な問題だけなら、それを克服すれば良いだけです。直ぐには克服できなくても、場数を踏む中でいずれは解消される問題です。宇都宮氏の問題はそれに止まらず、選対の非民主的運営を容認し自らもそれに加担してきた所にあります。だから革新統一候補として不適格だと私も思ったのです。
これらの両者の主張を見比べてみて、果たしてどちらの言い分の方が正しいかどうかを考えた結果、たとえ澤藤氏に息子の大河氏に対する親としての思い入れが多少あったとしても、澤藤氏・醍醐氏の主張の方にこそ分があると私は判断し、自分のブログでもこの問題を取り上げました。
現実の不正や人権侵害に対しては、それが保守の国家権力や資本によるものであろうと、民主団体や革新政党によるものであろうと、あくまで人権擁護の立場で闘わなければならない。そうしなければ、最後には自分たちにもそのツケが必ず回ってくる。逆に、たとえ困難ではあっても、それを成し遂げてこそ初めて革新勢力の再生・復権も可能になると思います。
私は、今回の件については、澤藤氏らの主張だけでなく、宇都宮陣営の言い分も聞かなければ公正なコメントはできないと思い、ネットで調べていました。
でも、宇都宮氏は有力都知事候補でありながら自身のHPも持たず、後援会「人にやさしい東京をつくる会」HPにもなかなか反論が掲載されませんでした。ようやく掲載された先の「法的見解」も、抽象的な言い訳ばかりで、澤藤氏や醍醐氏の疑問に具体的に答える内容には全然なっていませんでした。
まず第一に、「法的見解」には、最初に事件の発端となった澤藤大河氏など2名の随行員外し強行や、その背景となった選対の非民主的運営についての説明が、一切載っていません。選対を私物化し、街宣日程も当日にならなければ第一線の運動員には伝えず、現場からの人手不足解消を求める声にもまともに対応しなかった件です。それをずっと大河氏は指摘し続けていました。民主的な組織なら、ここで何らかの改善策が講じられる筈ですが、選対本部はずっと無視を決め込んだ挙句、最後には異論排除に打って出てきました。
そして、候補者の宇都宮氏も、その選対の非民主的運営を是正するどころか、それを容認し寧ろ加担するかのような態度を取り続けました。最初は「大河氏たちには何の問題もない」と言っておきながら、後になれば周囲と口裏を合わすかのように大河氏たちの揚げ足取りを始める。これが果たして革新・民主の候補者のする事でしょうか。
私は、ある意味、この非民主的運営への指摘の方が、後述の金権・企業ぐるみ選挙との指摘よりも重大だと思いました。何故なら、ここにこそ、宇都宮後援会幹部の「人にやさしくない」官僚的体質が現れていると思うからです。その現象としての現れが金権選挙です。
そして第二に、金権選挙との批判に対しても、「法的見解」においては、「幹部が受け取った報酬は、ウグイス嬢などの機械的業務に対しては支払いが認められている労務費や、交通費・宿泊費などの実費支給に過ぎず、選挙買収には当たらない」との一般的な言い訳に終始し、「実費支給ならなぜ端数金額まで収支報告書に記載しないのか」「選対幹部の選挙運動まで機械的業務として処理できるのか」等の具体的疑問には何ら答えるものになっていません。
選対事務局長が岩波書店から社員として給与を貰いながら選挙専従として約1ヶ月間張り付いていた件についても同様です。「法的見解」では告示日以降の17日間だけを取り上げ、「有給休暇で消化可能だから企業ぐるみ選挙には当たらない」と片付けています。しかし、では告示日以前についてはどうなのか。本当は、告示日以降であろうとなかろうと、業務外の選挙活動に業務命令で参加する(させられる)事自体が、企業ぐるみ選挙であり、個人の思想信条の自由を侵すものであるのに。
そのくせ第三に、澤藤氏の妻が宇都宮氏の供託金を一時立て替えた事について、澤藤氏があたかもそれを宇都宮氏への人格攻撃に利用しているかのように書き立てています。実際は、宇都宮氏の借金が供託の為に必要に迫られたもので、何らやましいものでない事は、澤藤氏もブログで言及しており、その上で「何故借金したと正直に言わずに、自腹で供託したと同窓会で嘘をついたのか」と書いているだけなのに。(だから私も、こんな事は議論の本筋とは無関係なので、前回記事でも敢えて取り上げませんでした)
そんな「どうでも良い事」で澤藤氏と論争する暇があるなら、第一で取り上げた選対の非民主的運営についての釈明をまずすべきだろうと思います。
要するに、宇都宮氏も後援会幹部も、保守陣営の金権・腐敗や非民主的・権力的体質を批判しながら、自身も規模こそ違えど、それと同じ様な体質にまみれていたという事です。
勿論、全てとは申しません。清廉潔白で真に弱者の味方として活動しておられる方も一杯いる事は私も知っています。でも、幹部の中には保守陣営と同じ様な体質が蔓延っている事が、今回の事件で露わになりました。しかも、宇都宮後援会には、共産党関係者だけでなく、過去には「共産党は非民主的・スターリン的」と罵ってきたような人(高田健氏など)や、無党派市民活動家(上原公子氏や内田聖子氏など)もいます。そういう人も含め、前述の体質にまみれていた事が明るみになったという事です。これは相当根が深い問題だと思います。
ソ連が何故崩壊したか、北朝鮮が何故あの様な独裁国家になってしまったのか、いずみ生協でなぜ経営私物化問題が起こったのか。その最大の原因は、いずれも当事国の国民や職員が、「私たちの国は労働者の国だから」「私たちの勤務先は民主団体だから」という理由で、実際の不正や人権侵害に目をつむってきたきたからでしょう。
これについては、私自身にも忸怩たる思い出があります。生協に勤務していた当時、残業代は殆ど支払われておらず、大変な長時間労働とサービス残業が職場に横行していました。その実態を誰かが労働基準監督署に告発し、労基署から監査に入られた事がありました。その時に職制は何と言い訳したか。「労基署といえども国家権力の手先である、サービス残業摘発に名を借りた弾圧から生協を守らねばならない」という趣旨の事を言ったのです。そして「生協理事会としても決して長時間労働やサービス残業に手をこまねいている訳ではないが、その是正には時間がかかる」とも。しかし、実際には何人もの労働者が過労死させられていたにも関わらず!(私が退職するまでに、知っているだけでも4名)
しかし、その頃の私は、その職制に内心反発を抱きながらも、「まずは生協を弾圧から守らねばならない」と思っていたのです。今にして思えば、何て能天気だったかと思います。労働者の人権や人命を平気で蔑にするような生協が、政府の憲法改悪・リストラ政策と本気で闘えるか?ズルしても競争に勝てれば良いという立場で、財界の新自由主義(弱肉強食)の考え方やブラック企業の搾取を本気で批判できるか?できる訳がない。その様な立場では、最後にはこれらの問題でも、組合員や国民を平気で裏切るだろう事は、容易に想像できるのに。
私は何も、宇都宮氏の候補者としての適性だけを問題にしているのではありません。単に「演説が下手」等の技術的な問題だけなら、それを克服すれば良いだけです。直ぐには克服できなくても、場数を踏む中でいずれは解消される問題です。宇都宮氏の問題はそれに止まらず、選対の非民主的運営を容認し自らもそれに加担してきた所にあります。だから革新統一候補として不適格だと私も思ったのです。
これらの両者の主張を見比べてみて、果たしてどちらの言い分の方が正しいかどうかを考えた結果、たとえ澤藤氏に息子の大河氏に対する親としての思い入れが多少あったとしても、澤藤氏・醍醐氏の主張の方にこそ分があると私は判断し、自分のブログでもこの問題を取り上げました。
現実の不正や人権侵害に対しては、それが保守の国家権力や資本によるものであろうと、民主団体や革新政党によるものであろうと、あくまで人権擁護の立場で闘わなければならない。そうしなければ、最後には自分たちにもそのツケが必ず回ってくる。逆に、たとえ困難ではあっても、それを成し遂げてこそ初めて革新勢力の再生・復権も可能になると思います。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-fb6c.html
憲法会議による澤藤論稿掲載拒否がもつ反民主主義的性格についての、最もラジカルな立場からの批判です。
この批判は、左翼法曹界にも蔓延する「法律学の幻想(=反マルクス的な法律観・社会観)」や、20世紀的な「民主集中制」原則にまで刃(やいば)が及ぶことになるかもしれません。
澤藤氏や醍醐氏の法律論には、マルクスに通じる徹底性が顔をのぞかせています。今のところ水面下の氷山ですが、両氏の援軍は質量ともに想像以上の陣容なのではないでしょうか?
しかし、昨日の細川氏の記者会見の詳報や、ようやく公開された細川氏のホームページで述べられている政策を読む限りでは、秘密保護法に対する言及はありません。また、石原ー猪瀬体制時代の「尖閣購入発言」などで東京都政が主体的にコミットしている中国など周辺諸国との外交関係や、集団的自衛権の行使の是非について記者会見で聞かれても、お茶を濁した回答しかしていません。
これでは、細川氏を「反安倍」の看板とするのは厳しいと感じました。
また、脱原発都知事を実現する会という団体の宮台真司氏の発言には、正直ドン引きしました。あのような場で宮台氏に発言させれば共産党攻撃のオンパレードになることは平生の氏の主張から十分に想像出来るのに、あえて氏に共産党や宇都宮健児氏を脱原発運動の敵対者であるかのように話させている細川勝手連の姿勢に疑問を感じています。
さりとて、これまでも述べてきたように、宇都宮健児氏の陣営に対しても疑問は感じます。
というわけで、私は都知事選については、「消極的細川支持」の見解を改め、静観することにします。
他所のブログにも既に書いていますが、この共産党の変質のツケは、今回の都知事選で看過出来ないものになった、ということです。
つまり、国際主義的な大衆運動を軽視する現在の日本共産党の一国主義や制度圏政治への過大評価(=共にブルジョア議会主義や改良主義の産物)が、お気楽文化人たちに「細川都知事の実現で脱原発を」なる、あどけない幻想の原因にもなった、ということです。
中韓、アジア諸国でも原発新増設ラッシュが起こっている近年の東アジア地域で、放射能の恐怖・被害から人間が本当に解放されるためには、諸国民の連帯を土台とした反原発国際統一戦線による運動が求められているにもかかわらず、日の丸排外主義者や靖国派、核武装論者とのの「一点共闘」まで言い出す無原則な運動潮流を容認・許容したり、議会や知事職のような制度圏への依存気分を助長してしまったのも共産党に大きな責任があるのです。
市田前書記局長の小泉発言歓迎談話などはその典型でしょう。
反原発課題の実現のためにも一国主義や一点共闘(至上)主義は有害なのです。
共産党指導部や細川応援団文化人たちは、こんな簡単なこと、ナゼ判らないのだろう???
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醍醐聰氏が下掲のエントリーで紹介した、自由や人権をめぐる「直接的適用説」と「間接的適用説」の対立については、①「自由」や「人権」と国家の関係における「間接的適用説」という解釈や②「直接的適用説」と「間接的適用説」の対立という問題設定それ自体を疑ってみる必要があるように思われる。
「間接的適用説」には、マルクスが批判する「法律学の幻想(=観念論)」の嫌疑が濃厚なのであるから。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-fb6c.html
なぜなら、日本国憲法の内容がどうであれ、「自由」や「権利」(=後に「人権」として具体化豊富化され、諸個人の間での相互承認行為の中で一定の社会的規制をも受けて行く・・・例えば「奴隷所有の自由」「建築規制」等等)のような法的カテゴリーは、ブルジョア的人間関係(=私的生産者間の交換関係)を発生母体とする近代法における基本的カテゴリーであろうから、その普遍性は法的諸関係や法的体系を根底的に規定する物質的生産関係に反照して考えるべきであろう。
このことは、『資本論』「交換過程」章の冒頭や「資本の貨幣への転化」章、「剰余価値の資本への転化」章などにあるように、商品交換に立脚する私的生産者間の人間関係(=現代の基本的人間関係)は「自由、平等、所有およびベンサム」(マルクス)が支配する「天賦人権の真の楽園」(マルクス)での諸個人間の相互承認を不可避・不可欠とするのであるから、それが後に資本の運動の下で「領有法則の転回」が起こるに伴い実質的には空洞化されていたとしても、近現代社会の根源的法的建て前的土台になるはずだ、ということだ。
つまり、「自由」や「人権」などのカテゴリーは、立憲主義の要不要もクソも無く、また、国家・私的領域の区別のクソも無い、それ以前的な近代市民社会における根源的法的規範性だということだ。
そしてそれは、生産関係から最も近い位置にある、経済的土台から直に発生した、法的カテゴリーだということ。成文化されていようがいまいがである。「自由」や「人権」は、「天賦」のようなアプリオリではなく、商品交換と市場経済に立脚する現代市民社会の前提的・土台的被造物なのだ、ということだ。
だから、「自由」や「人権」「民主主義」などの法的カテゴリーは、国法さえ超越し得る現代社会の前提的大規範性になる。
これらに敵対する社会システムは、「結社の自由」によっても「内政不干渉原則」によっても免罪されないはずなのである。
人類は、いまだに「プロレタリア民主主義」なるものや、レーニンが言う「民主主義さえ死滅した未来社会」を発明出来ていない以上、上記は肝に銘ずべきであろう。
彼は、細川の当選で脱原発の方向にはずみがつくだろうから、自分は細川に入れると最初言っていた。
オレは、まずは彼の意見の当否については触れず、「ふう~ん、では君は、細川さんが知事になれば、原発問題でいったい何が具体的に起こると思っているの?現状がどう変わると考えているの?」、「細川氏の『反原発』スローガンって、具体的にはどんな中身なの?」などと、とぼけて反問してみた。
彼の答えは「そりゃ、原発再稼働の安倍さんにストップかけられるじゃないですか」などという、具体性の全く無いものでしかなかった。彼は、オレの「でも、今の安倍政権の下でも原発はとりあえずは全基停止しているよね?」「原発が今、全基稼働停止している理由については、キミどう考えているの?」「細川さんが負けて舛添が知事になると、今停止中の原発は即、稼働再開するだろうとでも予想しているの?」などの次の矢にも、明確に答えられなかった。
結局、そんなところなんですね、細川幻想の内容とは。
小泉問題などもややあって、トドメは、オレの次の質問群だった。
「あのさぁ、君のやってる反原発運動って、日本中の原発が廃炉になれば、それで終わりになるの?」「そもそも、原発ゼロって、ナゼ実現しなけりゃならないの?」「中国や韓国の原発だって日本国民にとっては脅威になるんじゃない?海を超えられる放射能に国境なんてないんだぜ」「細川さんや小泉さんの反原発でそういう問題も全部解決できるの?」「中韓政府と対話や交流が出来る共産党や社民党だって中韓の原発継続政策について相手国に何も言えない現状なんだから、ましてや歴史問題や靖国参拝で中韓の国民からも嫌われ拒絶されている政治家や政党が日本国民にも放射能危害を及ぼすアジアの原発問題について、相手国政府と交渉や対話を出来ると本当に思っているの?」「だいたい、原発政策を続けている政府同士や政治家同士の対話や交渉に依存して、アジアの原発を無くして放射能の被害から解放されることなんて、可能だと思っているの?」
これで対話の実質は終了だった。
彼も、オレに問われて、あらためて良く考えてみたのであろう。
しかし、最後もまた、あまり良くなかった。
「じゃ、やっぱ宇都宮さんで行くっきゃないのかな?」というのが彼の反応だったからだ。彼は、自分も参加しているくせに、人々の運動の意義や重要性を、まだ本当には理解していないのだろう。
オレは、自分が宇都宮にも入れない考えであることだけは言わなかった。
酒も入っていたから、対話と説明でさらにもう一苦労しようと思うだけのガッツが残されていなかったのだ。
「宇都宮選対問題」についても投票日前に彼に知らせなければならないのかな。やれやれw