認知症で徘徊して亡くなったり、行方不明になったままという方たちが多いとい
うニュースが流れてきました。
今日は撮りためた桜の競演で。3/19
「徘徊するようになっても、安心な町づくりを実現するためには」と話は続きました。
もう20年くらいも前のことですが、保健師さんたちの勉強会で「釧路方式」という発表がありました。
釧路は寒いところですから、冬に徘徊が起きれば、それはすぐに凍死の問題につながります。
できるだけ早く発見することがどうしても必要なのです。
最初の通報が行われた時点で、(細かいことは忘れましたが)警察、テレビ局、タクシー会社などなどに情報が一斉に共有されるというものでした。
その後、全国のいろいろなところで釧路方式に相当する取り組みが始まりました。
徘徊しているとき、その人は時や所の見当識はもうないのです。
今がいつなのか、ここがどこなのか、さっぱりわかりません。ついでに言えば、目的もない!
だからこそ徘徊なのですね。
そういう状態で歩いている人を、困らせないとか安全に守るとかいうことになると、とにかく人の目が必要ということになります。
都会なら、人間関係は希薄かもわかりませんが、人の目はあるでしょう。
でも、地方になるほど、人が少ない。
種々の機関は利用すればいいのですが、大切な人の目、そのものが少ないのです。
家庭に目を転じてみましょう。
繰り返しますが、徘徊をするような状態になると、夜中でも夜中ということがわかりません。
そうです。どこかに行きたくなると夜中に徘徊し始めることもあります。
その番組でも取り上げられていましたが、行方不明になってしまった方のご家族が
「いつもは、シルバーカーを使って出かけるので音がして必ずわかったのですが、あの日に限って、なぜだか身一つで出かけてしまったのでまったく気づきませんでした」
この家族を責めることはできるでしょうか?
徘徊を起こすことと、24時間の体制で見守りが必要ということは全く同じ意味です。
介護者には家事もあれば、休息も必要。
ほんとにちょっとした間に、考えられないような方法で「脱出」してしまうのですから、「見守りなさい」というのは、少人数の家庭ではとても無理です。
最近はGPS機能を利用するということも耳にしますね。
これが一番現実的かと思いますが「、どうして外したのかわかりません」という声が聞こえるような気もします。
とっても不思議です。
認知症の人は、必ず「普通に生活していた」時があるのです。(これは定義です)
普通の大人は、目的も行先も時間も考慮して行動しますね。方向音痴の人だって、人に尋ねたり事前に準備したりして目的を達するものです。
4/7 中伊豆筏場のわさび畑
そこから、徘徊を始めるまでには長い期間が必要です。
そう、思いませんか?
今日まで自由に問題なく行動していて、明日突然徘徊するでしょうか?(徘徊に至る経過をこの次に書きましょう。)
なぜ、もっと前の段階で施策を始めようとしないのでしょうか!
「安心して徘徊できる町作り」よりも「徘徊を起こさない町作り」のほうが効率もいいし、国民の希望でもあると思います。