雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 3月7日(日) 早春の喫茶店でわらびもち

2010年03月08日 23時48分58秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月7日(日) 早春の喫茶店でわらびもち

 しゃれた喫茶店で,妻のN子さんが注文して食べたわらびもちです。

 この透明感と、プルンプルンした食感がなんともおいしいんですね。
 
 ほんとうの「わらび」から造っているかどうかですが、実は、他の植物の代用粉である場合がほとんどのようです。

 早春の象徴であるワラビ(わらび)ですが、やはり『万葉集』の、志貴皇子のこの歌でしょうか。
 
 石激(いわばし)る 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 
 萌え出(もえい)づる 春になりにけるかも

 

雨宮日記 3月6日(土) ゴミ環境ネットの総会でした

2010年03月08日 23時34分11秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月6日(土) ゴミ環境ネットの総会でした

 午後は、N子さんといっしょに車でなゆた浜北へ行きました。
 市民団体「静岡県西部ゴミ環境問題ネットワーク(略称 ゴミ環境ネット)」の第9回総会に参加しました。
 会場で,ミニ写真展「里山の小さな生命たち」もやりました。
 少人数でしたが、浜松氏のレジ袋・ごみ袋などのごみ問題について,充実した討議でした。

 今日は啓蟄(けいちつ)、地中に潜んでいた虫たち(「蟄」)が地上に「啓」かれて出てくるという日です。
 里山の小さな生命たちも活動を始めています。

 夜は家へ戻って夕食を一緒に食べると、N子さんは、すぐ、介護福祉士の実技試験でまた名古屋へ。会場の今池駅近くのビジネスホテルへ泊まって、明日朝早くから試験です。
 うかるといいな。



 

本と映像の森12 羽仁五郎さん著「人間の死について」

2010年03月08日 22時56分02秒 | 本と映像の森
本と映像の森12 羽仁五郎さん著「人間の死について」青木書店、1967年初版

 生と死を考えるシリーズです。
 昔読んだ『羽仁五郎歴史論著作集 第2巻』がでてきたので,紹介します。たぶん図書館か古書店でしかみれないと思いますが。

 羽仁五郎さんは、戦争に反対して逮捕もされた歴史学者で戦後、参院議員にもなった人です。

 1946年に書かれた「人間の死について」(p123~148)は、レッシングさんの「死は眠りの兄弟である」という言葉を紹介しています。

 イギリスの学者パセヴィさんは論文「死者の埋葬」(1920年)で、原始人においては死者は死んでしまったのではなく、生き続けているのであり、墓は死者を埋めるとことではなく、生きている人の隠れ家、天国の楽園であるとしました。

 また、ドイツの医師で中国に派遣されたペルテスさんは、たくさんの患者の死を看取った経験から、自然死は苦痛なきものであることを指摘し、「われわれの時間の尺度にとっては種はつねに若くあることができる。若い新しいものがつねにあらたに生まれるからである。若きもののために、老いたるものはわかれ去っていかねばならぬ。そして、老と死はあれあゆる生命の必然の性質とみなされねばならない」としています。
 
 ドイツのレッシングさんは、古代ギリシャや古代ロマを研究して「古代人は死をいかに描いたか」という論文を書いています。
 レッシングさんは、古代ギリシャ人は死を眠りの兄弟として歌っていたことを発見し、古代人にとっての死の神は、小児の姿をして命のたいまつやラッパをさかさにした愛らしい天使であることを紹介しています。

 そして、原始人・古代人においては、死は恐るべきものではなかったのに、共同社会が崩壊し私有財産制が発達していくとともに、もう「個人は、自己の行動が、社会の中に、普及の生命をもつということを、もはや考えなくなったが、しかも完全な死滅という、かれにとってたえがたいものであった。かくて」「死に対する恐怖が生まれた。怯懦が根をはり、死は妖怪となった。」と。

 写真は、早出町の薬師堂にある「地獄図」の一部分です。