雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

2010年03月25日 04時46分18秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」

 1ページを何回も「学習」する、カタツムリのような遅い歩みですみません。

 カタツムリで思い出して,脱線しますが、最近、デンデンムシムシカタツムリを見なくなっていませんか?これは、大気汚染による酸性雨の影響で、カルシウムの殻をもつカタツムリが減っているのではないかという記事を数年前に見ました。
 ほんとうにそうかもしれません。

 子どもたちが「でんでんむし、むし、かたつむり、おまえの頭はどこにある」という歌を知らないなら、さびしい日本列島だなと思います。

 前回、引用した原文です。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 この続きで、マルクスさんは、こう書いています。

 「これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積(たいせき)されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 第1点は、注意深く読むと、新日本新書版は「もの」と「物」を訳し分けています。このことは「表わす」と「現わす」も同じだと思います。

 第2点は、マルクスさんは、価値とは、抽象的人間労働の直接の結晶であるとはしていないことです。
 抽象的人間労働の「それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 このことの意味は、また後で述べたいと思いますが、マルクスさんは、そう言っているということを確認して、この項目を終えます。



資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

2010年03月25日 04時22分13秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 

 前々回の「資本論の学習4」で以下の文章を引用しました。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(新日本新書①p64、原書p52)

 その続きの学習です。

 マルクスさんは、こう言います。
 「それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的形状はすべて消し去られている。」

 そして、労働による生産物の具体的形状が消し去られたということは、その元の「労働の有用的性格も消え失せ」る、と。

 マルクスさんは、このような「労働のさまざまな具体的形態も消え失せ、これらの労働は、もはやお互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働」に「還元され」と分析し、このような労働をここで「抽象的人間労働」と定義しています。

 この問題は、次の節「第1章第2節 商品に表わされる労働の二重性」で詳しく分析されるので、ここではこれまでにしておきます。

 ただ1点だけ、次のパラグラフを考えます。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 問題は「まぼろしのような対象性」という用語です。
 「対象性」は、文章で明らかなように「凝固体」と同じ意味だと同じだと思います。
 
 つまり、具体的有用労働は、使用価値という、目に見える「まぼろしのよう」ではない対象性に「凝固」するのですが、具体性を抽象した抽象的人間労働は、その使用価値の中の価値という「まぼろしのような対象性」「凝固体」になるのだと思います。

 図式としては,以下のようになります。
 
 ① 具体的有用労働 → 凝固 → 目に見える使用価値
 ② 抽象的人間労働 → 凝固 → まぼろしのような対象性

 こういうことかな?