哲学の学習13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか
ふつう、哲学の学習と、一人ひとりの人間の「感覚」とは無関係なのですが。
いろいろ考えてきたら、そもそも一番大事なのは、「質」の定義や概念ではなく、具体的なリアルな微細な質や、質の微細な変化を、ぼくが感じ取れるかどうか、ではないかと。
たとえば「色 カラー」の微妙な変化を日本人は、感じ取ることができるといいますね。
萌葱色(もえぎいろ)とか。
浅黄色(あさぎいろ)とか。
妻のN子さんの介護の仕事で「入居者の心の内を感じて仕事をしなければ」という時も、グループホームの入居者のお年寄りの、表情や言葉の揺らぎを感じ取って仕事ができますかということだと思います。
ぼくは、そういう微細な質、微細なゆらぎを大事にしていきたいと思います。
現実は、無神経で、職員の意向を押しつけることが多いのだと思いますが。
哲学の学習と、人間・心・集団の学習とは、本来、別の物ではないと思います。表裏一体、表と裏と追求していきたいと思います。
ふつう、哲学の学習と、一人ひとりの人間の「感覚」とは無関係なのですが。
いろいろ考えてきたら、そもそも一番大事なのは、「質」の定義や概念ではなく、具体的なリアルな微細な質や、質の微細な変化を、ぼくが感じ取れるかどうか、ではないかと。
たとえば「色 カラー」の微妙な変化を日本人は、感じ取ることができるといいますね。
萌葱色(もえぎいろ)とか。
浅黄色(あさぎいろ)とか。
妻のN子さんの介護の仕事で「入居者の心の内を感じて仕事をしなければ」という時も、グループホームの入居者のお年寄りの、表情や言葉の揺らぎを感じ取って仕事ができますかということだと思います。
ぼくは、そういう微細な質、微細なゆらぎを大事にしていきたいと思います。
現実は、無神経で、職員の意向を押しつけることが多いのだと思いますが。
哲学の学習と、人間・心・集団の学習とは、本来、別の物ではないと思います。表裏一体、表と裏と追求していきたいと思います。