雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 12月4日(土) N子さんのお母さんの3回忌でした

2010年12月04日 19時47分24秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月4日(土) N子さんのお母さんの3回忌でした

 N子さんのお母さんのふでさんの3回忌でした。
 初生町の竹林寺で、午前11時からなので、午前5時に仕事から家に帰ってきて、すぐに横になって、「睡眠剤」も飲んでいないので、眠るに眠れず、おかしな夢まで見て、夢の最中に、N子さんの声で起こされました。

 起きて、お風呂でシャワーを浴びて、ヒゲを剃って、黒服を着て、車を運転して、竹林寺に向かいました。

 竹林寺さんは、こういう法事の時は、お経の本を参加者に配って「みなさん、いっしょに読経してください」といいます。みんな、わりあい真面目に声を出していましたね。
 ぼくは、目の前に、こういう漢字の文章を出されると、つい頭の中で、意味を解読しようとしてしまって、声を出して音を味わうどころではありません。
 和尚さん、ごめんなさい。

 あれ、これって、どこかで経験したような…と思いました。
 それは、うたごえ喫茶です。うたごえ喫茶で、「歌集」を配って「みんなで歌おう」というのと同じ感覚でしたね。

 「いっしょにしないで!」と両方から言われそうですが。

 お墓をお参りした後、和尚さんと「お茶でもどうぞ」というときに、ぼくの父から頼まれた「竹林寺に戦後直後に寄留していた俳人」のことをN子さんが聴いたら「わたしが生まれる前ですからねえ」と、いうことでわかりませんでした。

 お昼過ぎから、近くのフランス料理店「うさぎ…」に移動して、昼食。

 フランス料理を堪能しました。
 写真は、出てきた「ウサギパン」。
 赤い目は、赤いジャムでした。

 なお、来年は、ぼくの干支で「ウサギ」です。
 なんと、60才!
 こんなに長生きしてもいいのかな?
 ぼくみたいなのが長生きしたら、罰当たりですよね。

雨宮日記 12月3日(金)朝 1ヶ月ぶりの大雨でした

2010年12月04日 19時47分00秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月3日(金)朝 1ヶ月ぶりの大雨でした

 雨の予報でしたので、昨夜は、予定の会議も出ずに、眠って、鋭気を養いました、
 完全防備で、夜中、仕事に出かけました。
 仕事をしている時は、小雨でしたが、
 朝4時すぎに仕事がおわる頃から、急に雨が強くなりました。

 うわ、終わった頃でよかったなあと思いながら、家に帰ると、
 玄関に、ぞーきんとタオルがおいてあって、N子さんのメモがありました。

 「おかえりなさい タオルとぞうきん おきます
  豆ちゃんが(ぞうきん)動かしてしまうかもしれません」

 ウサギの豆子は、通常は置いてない異物があるためか
 定位置にいなくて、遠く離れたところにいました。

 N子さん、ありがとう。
 N子さんの部屋は、長女のTさんが同居しているので、
 抱きつきにいけませんので、ここで、心からありがとうを言います。

 
 

雨宮日記 12月2日(木) 娘のつくった「折り紙」

2010年12月04日 19時41分07秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月2日(木) 娘のつくった「折り紙」

 台所のテーブルの上に、娘がつくった「折り紙」が載っていたので写しました。
 こういうのは、日本文化ですね。

 折り紙でいちばん有名なのは「折り鶴」でしょう。
 もっと多様な折り紙があるんですね。
 
 

雨宮日記 12月1日(水)夜 浜松市の講座「戦国の城のはなし 第1回」を聴きました

2010年12月04日 19時16分17秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月1日(水)夜 浜松市の講座「戦国の城のはなし 第1回」を聴きました

 「広報浜松」に浜松市文化財課主催「戦国の城のはなし」を水曜夜に、3回連続で、可美公園総合センターでやります、しかも無料、とあったので、最近は歴史づいているN子さんと2人で往復ハガキで申し込みました。

 人数が多いと抽選なので、当たるかどうか心配でしたが、無事、2人とも返信ハガキがきました。
 午後7時からなので、午後5時あるいはそれ過ぎまで勤務のN子さんと2人でいくのは、華族の夕食の準備を(N子さんがです、ぼくではないです)したりして、大変なんですよね。

 車で行くあいだ「この道、私がバイクで行く道と違うね。遠回りじゃない?」と。
 目的地にたどりつくプロセスはそれぞれ自由なんだから、と思いますが。

 会場に行くと、定刻には、会場一杯で55人が参加して盛況でした。
 以下は講師の辰巳均さんの話の大要です。

 浜松市は来年11月に「全国山城サミット」をやります。
 主な城跡を、国の史跡指定も受けていきたい。
 合併前は「城」というと「浜松城」のことだったが、合併後、この新浜松市の文化財の魅力を考えたら
 まず郷土芸能、そしてもっとないかと捜したら「城」があった。
 舞阪町(雄踏町も?)以外には、城がある。

 この地域は戦国争乱の城だけではなく、それ以前の応仁の乱や、さらに前の南北朝争乱のときの南朝方の城があるのが特徴。
 そのことが全国的には知られていない。

 辰巳さんは、① 城についての基礎知識 ② 南北朝争乱の城 ③ 遠江の覇権をめぐる斯波氏と今川氏の争いと浜松の城、というテーマで、詳しく話しました。

 N子さんが、帰りの車で「辰巳さんって、頭の中に、データがぜんぶ入っているのね」
 ぼく「そりゃあ、専門家だもの」

 N子さん「話してくれたお城を見に行きたいな」
 ぼく「予定を開けて、時間をつくらないとね」

 なお資料(全12ページ)の7pのいちばん下の2行「天野庶子系は興良親王(おきながしんのう)をいだき南朝方と戦うが正平8年(1353)親王が捕らえられ、南朝方の組織的戦闘終了する」とありますが、終わってから辰巳さんに確認しました。

 「天野庶子系は興良親王(おきながしんのう)をいだき北朝方と戦うが正平8年(1353)親王が捕らえられ、南朝方の組織的戦闘終了する」の誤りです。