自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

政治と社会への関心高まる/横道にそれる第一歩1959年

2014-10-13 | 体験>知識

現実逃避に向かうとこれまで見えなかった現実が空白を埋めるかのように入り込んで来た。
何がきっかけか思い出せないが、お爺ちゃんおばちゃんのデモの後にくっついて
円山音楽堂の集会に参加した。
参加したというより傍観したと言うほうが正しい。
何を要求していたのかさえ憶えていないのだから。
当時失業対策事業というのがあった。
それに従事する労働者はニコヨンとよばれていた。
日当が百円札4個と拾円札4枚と法律で決まっていたから。
今日ニコヨンは死語であるが当時は蔑称の意味を込めてつかう者もいた。
さてニコヨンは全日自労に所属していたからデモを組織した大元は京都地評だったと
と思われる。自労は自由労働組合の略。
だとすれば動き始めた安保反対闘争のはしりだったかもしれない。
わたしはまだ政治闘争、労働争議を意識していなかった。
左寄りの主義主張に傾いていたわけではない。
ほぼ人々が無意識に抱いている社会正義と平等社会への想いが顔を出し始めたにすぎない。
安保阻止国民会議(総評、地評、社会党等2000の諸団体結集)が国会に向けて数次の全国統一行動を実行していた。
全学連は統一行動のみの間接参加だった。
11月27日その全学連が社会党議員団の請願デモにまぎれて国会構内に「乱入」した。
東京地評の青年労働者を合わせて約2万人が国会正面玄関広場を数時間にわたり占拠し赤旗を振りデモをして気勢を上げた。
翌日全学連幹部が逮捕されたが清水と葉山の2名が東大の駒場寮内に籠城した。
大学の自治が絡んで警察と学生が対峙する状態が2週間続いた。
マスコミが連日報道しZENGAKURENの名が内外で知られるようになった。
1960年1月15日から16日にかけて全学連の精鋭700人が安保条約調印の為
に渡米する岸全権代表団を阻止しようと羽田空港ロビーを占拠しバリケードを築いて警官隊と衝突した。
全学連は唐牛委員長以下77名の逮捕者を出した。
逮捕された中に東大生の樺美智子さんがいて注目された。
渦中の幹部達は、国民会議から「跳ね上がり」と非難され権力とマスコミに叩かれて
世間の注目を引けば引くほど、学生の間ではヒーローになっていった。
わたしもTV映像に釘付けになって入学したら活動家になる決意を固めた。
幹部達はそれまでに日本共産党と決別して共産主義者同盟(ブント)を結成していた。
全国に1500名ほどメンバーがいたらしい。
綱領もなく安保闘争の中で日共に替わる「前衛党」作りをしていた。
当時私はそんな背景はまったく知らなかった。
ブントのアウトロー路線による耳目衝動作戦は見事成功した。
中身はともかく安保が広く知られ反対活動が活発になっていった。
安保阻止国民会議に「重い」とみられていた安保反対闘争が翌1960年史上空前の大デモに発展した。
ブント同盟員も倍増した。