自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

樺さん死の真相/榎本さんの法廷証言/最前列で滅多打ち

2015-05-02 | 体験>知識

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図面写真は、1960年6月15日時点での国会構内および周辺の地図である。榎本暢子証人が「6・15」裁判での証言で活用するべく1968年11月14日付で図面制作し、東京地裁に提出したものを本稿筆者の梅本[後述]が必要な部分を書き写して撮影し掲載した。
 
50年後の2010年、丸屋Drは当時の東大学友会委員長金田教授と長崎教授(旧姓榎本、樺さんの親友)と会って衝突現場の状況を聞き取った。
《長崎さんは当日、樺さん、福田さんの女性三人で、学友会のメンバーに囲まれて国会構内に入った。
その後がどのように混乱したか、確かなことは「警棒で腹を、胸を突かれ、頭を殴られてほとんど朦朧状態になったこと、救急車で運ばれる途中で気がついて、そのまま病院に搬入されたこと、すぐ前にいた樺さんがどうなったのか全くわかりませんでし
た」などと話された。》
《福田さんも警棒で突かれ、頭を殴られて入院したという。樺さんもほとんど同じ状況であったろう。》

長崎暢子さんは『文藝春秋』2010年7月号の座談会でも同じ内容の証言を行ない、「私(長崎さん)も、やはり樺さんは殺されたと思っています」と明言している。

榎本さんには法廷証言[6.15被告23名の裁判]があった。
事件の余韻覚めやらぬ1968年の証言である。
2013年にフリージャーナリスト梅本浩志氏がブログ『横浜日記』で論評をつけて全文公開した。

「横浜日記」(215)その2 2013年6月10日 梅本浩志<あわや樺さんと同じ目に=「6・15」榎本暢子の証言>
 
[引用者による要約]
突入というより門が引き倒され阻止車が1台曳き出されて通れるようになったから阻止車の間を通り抜けて入った感じ。
後方にいたが前の12,3列80名ほどが阻止車の袋小路と警官隊にに邪魔されて左へ流れながら渋滞している間に、その後の榎本さん達が左端の最前列になってしまった。
「車をすり抜けた、非常に短い時間で、出た途端に、最前列になってその途端に[男子学生に危ないから]後ろに入れと言われて、入ったか入らないうちに、かかれといってかかってきた状態」
門から10~20mぐらい入ったところ。
ウオッーと30mぐらい先から突進してきた機動隊に逃げようとした瞬間に3回警棒で左後頭部を殴られ気絶。
翌朝病院で意識が戻ったとき樺さんの死を知らされた。
デモ参加による卒論の遅れを笑いながら話していたばかりの樺さんは門を入る前は2列前にいたが、上記の状況により見えなくなった。
そして議員面会所右前方あたりで同時に急襲されたと考えられる。
 
 内田弁護人 どういう診察でしたか。                      
 
榎本証人 左後頭部の打撲傷と、腹部の打撲傷です。
 内田弁護人 腹部というのは腹のことですか。
 榎本証人 左のお腹です。 
 内田弁護人 腹部の打撲というのは、何によってやられたか分かります。 
 榎本証人 [気を失っていたので]おそらく警棒だと思います。

田弁護人の「どういう治療を受けたか」という質問に応えて、榎本さんは脳へのダメージは大きく安静にして薬をのんだり脳波をとったりしたが1年半後にまた倒れて今なお治療を続けている、と証言した。 
 
梅本氏の取材力で世に出たこの法廷証言によって樺さんのいた場所が特定された。
また機動隊の行動の様子も分かってきた。
あと一歩で現場の状況がわかる。
目撃者を探そう