自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

樺さん死の真相/偽名証言と7社共同宣言/どんでん返し

2015-05-22 | 体験>知識


 
  丸木俊画 「犠牲者」 

自分の体験を時間軸に沿って追体験していくBLOGの性格上ある
テーマの資料を総覧した上で一巻すべてを書き上げているわけで
はない。

本稿もいくつかの資料を閲覧して順次結論を出し次の関連資料で
新規投稿の記事を書いている。

「樺さんの死の真相」を突き止めた、と内心満足感をいだきながら、
次のように結論した。

①樺さんは先頭集団10列目のあたりにいて集団は障害物の警備
車間の隘路をさけてアメーバ状に左へはみだし流れた。

②旧議員面会所正面あたりで機動隊の急襲を受けて胸部に警棒
の一突きを受けて倒れた。

ほかに学生が折り重なって倒れていた可能性もある。
警察には分断した戦闘部隊を全員検挙するマニュアルがあった。
機動隊と私服が取り囲み警棒か足でめちゃくちゃ無力化した。
重傷者は議員面会所地下に運ばれ私服が氏名を確認して回った。
死相が著しかった樺さんは地下には運ばれず取り囲み5分後に
「解放」された。

この5分間の包囲拘束が気絶した樺さんに窒息死をもたらした。
未必の殺人か傷害致死である。
③この先頭集団が人なだれを起こした映像も証言もない。

この稿を書くにあたってウラをとる必要からWEBであちこち検索し
ていたら江刺祥子『樺美智子 聖少女伝説』の広告が眼にはいった。

運動から離れて久しく樺さんがどこかで書名のように今なお偶像視
されているとはつゆ知らなかったからタイトルに違和感を抱きながら
本を買った。

前稿を書き上げた達成感もあってブント創立のところから一気に
読んだ。

そして、ニセ証言で「圧死」報道、の小見出しをみてアッと驚いた。
ウラをとりたかった学生の名前が明大生森田幸雄と出ているでは
ないか?!

しかも元記事は、6.16の朝日新聞朝刊にあった。
ずいぶん早いインタヴィユーだ。
警察、検事は警察病院で死後1時間以内に遺体の氏名をつかん
でいた。
部外関係者として最初に遺体と対面したのは現場で救援活動を
していた前出坂本Dr(参議院議員)たちである。
「警察当局が1月の羽田事件[樺さん逮捕]に関係した伊藤検事と
共に既に到着していて、写真数枚を撮影していたことは誠に意外
というほど迅速な措置だった」(坂本Dr)
ラジオの臨時ニュースが氏名を報じたのは深夜である。
警察病院はガードされていて誰も入れない。
新聞記者や通信社記者がインタヴィユーできるはずがない。

証言の前半は前掲した6.29の『女性自身』記事と同内容だが後
半部分はまったく違う。
「足もとはドロの海。隣の女子学生がつまずいた。
ほかの学生たちも何人かころんだ。
倒れた女子学生の上を学生のドログツが踏みにじり、そのあと巻
き返しに出た警官たちがまた乗り越えた。
そのとき〈女が死んでいる〉とだれかが叫んだが、手のほどこしよう
がなかった」
ドロの海、ドロ靴にしては、
遺体の顔の右と上半身から腰部にかけ
て衣服の右側だけ泥がひどかったという証言と写真が示す事実の
いずれにも合致しない。
しかも偽名だった。
森田某の証言は毎日新聞朝刊にも載っており本人は警察病院に
入院中とある。
珍しく重傷者が自分の負傷の顛末を語っていない。
樺さんの目撃談は詳細をきわめる。
「森田君が検挙されて中庭にすわらされたとき、さっきの樺さんらし
いのがうずくまってうめいていた。クリーム色のカーディガンに黒の
スラックス*をはいていたが、まもなく内出血らしいというので救急車
で運ばれていった。」  
   *衣服はまちがいなく樺さんさんを認めたという証になる。

『女性自身』に出ているもう一人の東大生山中啓二も偽名で正体不
明である。
樺さんの両側で腕を組んでいた東大生さえ樺さんを見失う混乱の渦
中で正体不明の二人が樺さんとの親密さを強調する余裕があること
に不自然さと作為を感じる。
朝日と毎日に記事が載っていることから森田某は放免されて病院か
ら出て来たところでインタヴィユーを受けたと想像できる。
先頭集団は自分を護ることに必死だった。
だからこそ樺さんの最期に関わる目撃証言が一件もないのだ。

記事は、編集デスクが各所から上がって来る電話草稿をつぎはぎし
て森田某の目撃談に仕上げた、いや、でっちあげたものである。

疑惑だらけのこの朝日新聞の記事は特別号外にも載っている。

[見出し]  倒れた上にドロぐつ
   樺さん  あっという間に死ぬ
警察を免罪し学生のせいにして安保闘争を終結させる意図が見え
みえではないか? 
「あっという間に死ぬ」  警察は接触すらしていない、とにおわせて
いる。
翌17日朝日新聞社笠信太郎論説主幹*主導で出された7社共同
宣言が安保闘争の燃え盛る炎に冷水を浴びせた。

「暴力を排除し議会主義を守れ」
機動隊の暴力には眼をつむり学生の暴力を非難した。
死因は政局を動かす。
新聞は時局の決定的な瞬間に御用を果たした。
佐藤栄作蔵相コメント「これで新聞もこっちのものになった」
中曽根科技庁長官も記者を冷やかした。「あれは自民党に対する
ワビ状かネ」 (『新聞労連』 1960年)

七社(やがて全国48社が同調)宣言は新聞の死を意味した。

*笠信太郎 ウイキペディアによると、1943年10月中立国スイス、
その地に滞在中の情報機関OSS(CIAの前身)の欧州総局長アレ
ン・ダレス(安保闘争時のCIA長官)と和平について密談。
戦後は1948年2月帰社。同12月東京本社論説主幹。大朝日の顔。