大学生活最初の帰省は私にとっても両親にとっても重苦しく沈鬱なものとなった。
両親にとって一人息子のわたしは誕生のその日から命そのものであった。
すこし前両親は久留米草野の住まいを売り払って福岡筥崎に移り九大生向けの学生アパートを経営しはじめていた。
それまでは板付基地の米軍人向けのハウス経営で収入を得ていたが米軍の沖縄移転を見越して転業転居したのだった。
国内の反基地闘争の高まりが沖縄への基地集中を強めるとは何たる皮肉。
両親はTVや新聞で全学連が機動隊とぶつかるイメージを目にするたびに命が縮む思いをしたことだろう。
ちなみに3種の神器、洗濯機・冷蔵庫・TVが我が家に来たのはこのころだった。
ぎりぎりまで倹約してわたしに学費で不自由させないために貯蓄していたのだった。
わたしは京都で学費と生活費を現金書留封筒で受け取っていた。
同封の手紙は決まって「ご自愛を」で結ばれていた。
わたしにできることは、盆と正月に欠かさず帰省することだった。
博多にはリュックに詰め込んだ洗濯物を持ち帰った。
10日ほど過ごして家を出るときは胸ふさがる思いで息苦しかった。
こういうことが10年以上繰り返されることになる。
親子で安保を含めて政治討論をすることはなかった。
親は普通に自民党支持者、わたしはノンポリかブント。
ブラジル時代は誇り高き大日本帝国臣民、敗戦後は肩身の狭い勝ち組、わたしはそれを無機質の風景のように眺めるこどもの傍観者。
水と油、かみあうところがなかった。
だがそれは言い訳。
のちに知ったが、ドイツでは広く家庭内で親子間の激論、確執、戦争犯罪の追及と
抵抗があったらしい。
1960年代後半ドイツの学生は親に問うた。「そのとき、何をしていたか?」
そしてそれが国をあげての過去の清算につながった。
われらは家庭内闘争を避けた。
もともとディベイトの習慣もスキルもなかった。
街頭闘争が変革をもたらす、という行動方針を金科玉条としていた。
水と油がもみ合いで渾然一体化しないかぎり社会も政治も変わらない、という真理
にまったく気がつかなかった。