自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大学時代/1961年頃/ブント分裂の東風

2016-02-26 | 体験>知識

安保闘争、三池闘争が終結すると東京ではブントが分裂し派閥ができそれぞれ独自の活動を始めた。
京都では組織的な動きはなかった。
われわれブントは、自治会選挙ではそれまで通り「主流派」を名乗り民青に対して勝利し続けた。
運動としては学生大衆の政治熱が冷えて下降期に入ったがブントは安保闘争の遺産で新入生のリクルートになんの困難も感じなかった。
わたしは1年下に働きかけて3人を加盟させた。
Kはわたしを師友として慕ってくれたがわたしはそれに応える器でなかった。
クロヤギは対坐した瞬間にYESと分かった。
頭髪が伸びかかった坊主頭と煙草をさかさまにくわえて火をつけようとしたぎこちなさが初々しく印象に残った。  
薩摩出身の理学部(後経済学部)の秀才で時が来れば大化けする予感があったが若くして病に斃れた。
臨終の床で何度も意識が戻って、またセーフ、と笑顔でパートナーの手を握った。
西郷ドンが城山で「晋ドン、もうここいらでよか...」と別府晋介に介錯を頼んだ逸話を思い出した。

このころブントか自治会で2度ほど東京の大会に行った。
どちらか分からないほどに心に響くものがなかった。
憶えているのは、両国公会堂、明治大学駿河台キャンパス、つるや旅館である。
各分派が口角泡を飛ばして議論していたが関心がなかったので何も記憶がない。
関西勢はそれからつるや連合とよばれる諸派グループに分類された。
わたしの大学時代に限って言えば京都のブントは関西ブントと称されるようになったが中身が変わったわけではない。
どの大会か定かでないが、大会の終了後、1年上の先輩AとNに誘われて東京散策に行った。 
AとNは同学会の役員(委員長と会計)で皆の信頼が厚かった。
Nは江戸っ子らしく気風がよく面倒見のよい姉御肌でみなに敬慕されていた。
Nが育った浅草では花やしきのジェットコースターに乗った。
体中の血が沸き立つ感じがして2度と乗るまいと肝に銘じた。
浅草の庶民文化とは対照的な名勝六義園では広大、壮麗な日本庭園に癒された。
将軍綱吉の大番頭柳沢吉保が一代で築いた何万坪もあるありがたい歴史文化遺産だが、当時の身分制の土台だった人々にとっては大変な負担だったと思う。
ここで撮った、わたしが3人の真ん中に立っている写真がある。
わたしは二人のデートの照れ隠しを務めさせられたのだった。
たしかこれで4度目、私は男女関係で乗せやすいキャラクターだとつくづく思う。
二人は卒業後結婚した。