自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

在宅介護・診療・逝去・葬送/母身まかる/享年104歳

2018-12-19 | 家族>社会>国家

母を先月の今日見送った。母は、徳島、北海道、ブラジル、久留米と福岡、大阪、と地球を一回りし、大正、昭和、平成の三代を生き抜いた。私が駆け足で考察した近現代史と時代が重なる。
畳の上で楽に死にたい。これは多くの日本人の願望である。母は在宅のまま介護ベットの上で眠ったまま安らかに逝った。大往生だった。
その前の週の木曜日、嫁に「毛糸のパンツを編んであげられなかった」のが心残りだ、「もうダメだ」「ありがとう」「さよなら」と意思表示していた。本人は口を動かしてそう言っているつもりだが耳が遠いわたしには通じない。嫁には通じた。母は年の割に耳が良く、こちらの言うことはかなり聞こえていた。やがて本人が予想した通りの最悪の体調になった。眠りこけて摂食飲水がほぼできないのに下痢気味になったうえ尿がほとんど出なくなった。
金曜日、わたしが指を握らせて「さ」なら強く握ってというと応えてくれた。よ、な、らと意が通じた。私は「さよならはまだ早い」と言ってそれ以上「対話」をしなかったことが今心のこりである。昏睡、飲食不可。夕方6年生と保育所の曾孫3人が来て「おばあちゃん、がんばって~」と声を張り上げるが反応なし。
ろうそくの灯が燃え尽きる前に一瞬最後の煌きを発するように母もまた命の灯を燃やして夜8時過ぎに少量のおかゆとすりおろしたリンゴを食べた。さらにかつてなかったことだが夜10時頃に好物のパンを食べる意思表示をしてパン粥とトロミをつけたお茶をほんの少し摂った。これが最後の飲食となった。
土・日曜日、目覚めることがない。昏睡状態が続く。38度の熱がある。背中の褥瘡jokusou がひどくなったが本人からの訴えはまったくない。訪問看護師が医師と連絡をとりながら頻繁に見舞ってケアしてくれた。
11月19日月曜日、眠ったままが続く。午後2時過ぎ私は2階に上がる前に母の様子を確かめた。呼吸がやや早く首筋に手を当てて脈を確かめると脈打ちが呼吸と同調しているように感じられた。ちょっと変だなと思ったがそれ以上考えず2階に上がった。30分ほどして妻が下りて来てと呼んだ。降りると息してないという。触るとあったかい。妻が看護師に電話している間に軽く心臓マッサージをした。

私には微かな迷いがあった。先週の水曜日最後に訪問医が来たとき、消化も嚥下も悪くなったうえ点滴も落ちない状況を踏まえて、最期が近いことをそれとなく話しかけてきた。「延命治療はしないで良いですか」と再確認を求められて、私「たとえば」先生「胃ろう、点滴、心臓マッサージ」私「結構です」 点滴による水分補給にはほかの道があったことを後で知った。かつて施術が困難なため私が苦痛をあじわった体芯の大静脈点滴である。在ると知っていたら多少迷ったと思う。

まもなく訪問医が来た。まだ温かかったので「先生、まだ生きていますよ」と言うと、2,3調べたうえで臨終を告げられた。「午後3時38分 死因は老衰による脱水症」        

畳の上往生の願望は今日の家族状況、働き方事情下では至難の業である。わが家ではたまたまそれが可能になった。そのことも含めてあれやこれや秘訣等を記録して参考に供したい。
一昨年の正月は福岡から見舞に来た私の従弟妹会の宴席に最後まで座って付き合うほど元気だった。家では週2回デイ-ケアの送迎に車椅子にのって応じていた。堀炬燵に足を入れて食事をする以外は畳の上で寝ていた。嫁と私に支えられてトイレにも行っていた。堀炬燵とトイレ歩行が背筋と足腰の機能を保つうえで有効に働いている、とケアの人たちによく言われた。
デイ-ケアでは入浴とリハビリがありがたかった。本人は、デイ-ケアでも一日寝てすごすばかりだったので行くのを渋ったが入浴できるのが嬉しくて休まず続けた。私たちがデイ-ケアを選択したきっかけは夫婦では安全に入浴介助ができなくなったからである。                                       デイ-ケアでは初めのうちは自分で食事を摂っていたがやがて介助が不可欠になった。家では一日2食と間食を嫁の介助で食べた。口内炎と舌の硬化で入歯の装着を嫌がるようになると流動食に切り替えざるを得なかった。エンシュア(商品名)で栄養を補給したが、流動食になってしばらくすると体重が4キロ激減した。今年4,5月ごろのことである。このころ週3回のヘルパーをケア-マネを通じて依頼した。ヘルパーをお願いしたのは私が右肩腱鞘炎でヘルプできなくなったからである。
同じころ
背もたれなしで炬燵にすわって食事を摂るのが困難になった。トイレ歩行も二人がかりで支えて「イッチ、ニ」「一、ニ」と掛け声に合わせてむりに歩かせた。
6.18の北大阪地震を母は介護ベッドの上で迎えた。畳の上だったら物が落ちてきて危なかったかもしれない。現に死亡事故のあった小学校の近くに住んでいる娘は液晶TVが飛んできて頭に負傷した。小学生が亡くなったことを知って母は「こんな年寄りが死なないで・・・」と少女の死を悼んだ。
支えても立てなくなって
最後の2か月はベッドの上でおもに嫁がシモの始末をした。人間の尊厳に思い至ったがその内なんとも感じなくなった。
老衰の決定的な一撃は2か月前の夜間に起きた。体を起こしてトロミをつけたお茶を飲ませていた時気管に入って母はむせてもがき、のけ反るほど苦しんだ。救急病院で吸引治療とCT検査を受けた。肺に食べ物カスが残っていそうだから数日が危ない、入院さして抗生物質で肺炎を予防しながら経過を見るしかない、と主任医師に言われた。延命治療については本人の古いカルテに記載されているとおり「受けない」でよいか、わたしの確認と署名捺印を求められた。5泊して退院した。
このころから食事中に眠りに落ちるまでの時間がだんだん短くなり食事と飲水の量と回数が少なくなった。元来胃腸が丈夫だったのに数日下痢がつづき
点滴で水分を補った。下痢が止まり一時持ち直したように見えた矢先点滴ができないほどに衰弱して万事休した。

母が苦しんだのはお茶でむせて救急治療をした時だけである。自分の身体の自由が利かなくなったことを嘆いたり早くお迎えが来ないかと死の願望を口にしたりすることはあったが死の不安があるようには見えなかった。夢と現をごっちゃにすることはあったがブラジルと北海道のことは記憶が確かでよく話題にしていた。介護者もよく心得たもので食事中覚醒を保つ手段としてその話題を持ち出した。

母が家で死を迎えることができた要因を考えてみた。
私が一昨年現役を引退して妻と二人で介助できるようになったのが一番大きい。妻の献身は実の親に対するのと変わりなかったが一人では持続できないことである。
つぎに地域に病院を中心に診療と介護のコミュニティがしっかり根を
張っていたことを上げなければならない。毎週訪問診療と訪問看護が交互にあり切れ目なく母の健康を管理してくれた。ケア-マネと係の人が介護素人の私たち二人に常に先回りしてノウハウを教え備品を揃えてくれた。
それは元ブントの先輩が開設した診療所が始まりであった。大学時代かれが中核派に分裂して行ったためその後出会っても知らんふりをして診療以外の話は一切していないが、営利的でない富田健康を守る会がなかったら、母の幸せな最期もなかったと感謝している。地域医療に貢献している元全学連・全共闘指導者は外にもかなりいるがその初志貫徹の生き方に頭が下がる。敬天愛人を地で行っている。
三つ目の要因は市政の在り方と市民の意識である。人権への取り組みが濃い。揺りかごから車椅子を経て墓場までケアが熱い。家族葬だったが納棺から火葬まで市の職員が懇切丁寧に指導、実行してくれた。
最後に私のこども3人がほかでもなく地域に住んでいて孫と一緒になって陰に陽に支えてくれたことをあげたい。