自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

どう生きるか? 模索の旅、いざ出発/若者による文化革命の嵐

2019-04-30 | 革命研究

自分はどう生きるべきか? その答えを求めて1964年から独学で革命研究を始めた。4年間学生運動に打ち込んで来た流れでロシア十月革命を主軸に据えた20世紀の革命運動を研究対象に選んだ。4年後1968年後半にほぼ目途がついたので高槻市に転居した。そして『情況』誌に「10月革命への挽歌」を連載した。連載終了後それは情況出版で本になった。サブタイトルに「われらの内なるスターリニズム」、帯に「レーニン主義とロシア革命からの決別を!」の文字が躍った。

  「変革を目ざす総合誌」 1968年8月号

 情況出版 1972年

菊地章典先生ほか歴史学者による書評もいくつか新聞に掲載された。その一つに「歴史清算主義」というのがあった。歴史は赤字、黒字と清算できるものではないので首肯できなかったが、当のソ連は後に「清算」されてしまった。私の著書はソ連崩壊を予測するものではなかった。あくまで自分のアイデンティティを確立するために、進行中の歴史的事件に影響を受けながら書かれたものであった。
しばらく拙著の内容を紹介しながら個々の事件についても振り返ってコメントするつもりだ。
どんな政治的社会的事件があったか年表風に列記する。

1964
米国 ベトナム戦争の段階的拡大戦略「エスカレーション」を評議(政・軍首脳ホノルル会議)  トンキン湾事件(米駆逐艦が北ベトナム魚雷艇に攻撃されたと捏造して北基地を爆撃)  人種等マイノリティ差別を禁ずる公民権法成立 北部学生による南部黒人有権者登録支援「フリーダム・サマー」(運動家6名殺害される)  カリフォルニア州立大学バークレー校で政治活動と言論の自由のある大学像を求めてキャンパス内フリー・スピーチ・ムーヴメント起こる⇒大学ホール占拠・座り込み⇒逮捕者800余人⇒世論と教授会に支持され大学改革成る
中国 人民日報、米帝国主義に反対するすべての勢力に団結を訴える社説掲載 最初の原爆実験成功 ソ連指導部を現代最大の分裂主義者と非難
ソ連 平和共存柔軟派フルシチョフ解任(後任は同強硬派ブレジネフ)
ベトナム グエン・カーン軍事クーデター 軍事独裁反対のデモ、全国に拡大
韓国 就任したばかりの親日朴軍事政権に対して全国主要都市で屈辱外交反対のデモ 日韓会談に怒った学生、大統領官邸を包囲 ソウル地区に非常戒厳令布告
ブラジル カステロ将軍クーデタ(土地改革阻止、軍事独裁で米国資本導入の道開く) 
日本 池田から佐藤へ首相交代 韓国工業化支援(2000万ドルの原材料・機械部品の延払い輸出) 第7次日韓会談開始⇒翌年日韓基本条約調印 
1965年
南ベトナム解放民族戦線、プレイク米軍基地襲撃 米機、北爆開始 ワシントンで1万人の反戦デモ ベトナムに平和を!市民文化団体連合(ベ平連)主催初のデモ行進 米B52爆撃機、沖縄から発進してメコン-デルタを爆撃 韓国、ベトナムに部隊派遣 反戦青年委員会(ベトナム反戦・日韓条約批准阻止を目的とする職場・地域の共闘組織)結成
ベトナム海兵大隊戦記第1部TV大反響(官房長官のクレームで第2, 3部放送中止) 岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』
1966年
中国「大文化革命」始まる 紅衛兵街頭進出 「文化大革命勝利祝賀大会」と銘打った天安門広場100万人大集会 毛沢東の後継予定者・林彪、群衆にプロレタリア革命の造反精神に基づき旧「思想-文化‐風俗‐習慣」の四旧打破を呼びかける
閣議、新国際空港建設地を三里塚に決定
1967年
10.8羽田事件(佐藤首相のベトナム訪問阻止闘争で京大生山崎博昭君死亡)  先頭集団に角材・ヘルメット登場 同日チェ・ゲバラ、ボリビアに死す
1968年
青年、学生が既成体制と価値観に反抗し、文化-思想に異議を申し立てて、世界中が政治的に沸騰した年である。国により争いのもとになった課題イッシューは違ったが共通していたのは既存の権威を否定する思潮だった。わが師友井ノ山さんはこの年の世界的動乱を指してもしかしたら文化革命となるかもしれないと語った。

【1月】
・佐世保原子力空母エンタプライズ寄港阻止闘争 反戦・反核基地の要素がより合わさって空前の盛り上がり 民社・公明系団体も集会 全学連、機動隊と激しく衝突 市民の同情集まる 参加した大浜は現地右翼親分の接待を経験
・北ベトナム人民軍、南全土で「テト攻勢」  勝利を確信していた米国世論に衝撃、反戦運動が拡大深化
【4月】
・米国黒人公民権運動のカリスマ指導者・キング牧師暗殺 全米各地で人種暴動が発生 ブラックパンサー党武装闘争
【5月】
フランス「5月革命」 黒人差別・ベトナム戦争反対運動に参加した学生に対する懲戒問題に端を発する学園ロックアウトでソルボンヌ校から閉め出された学生達は中世に起源をもつ文教地区カルチェ・ラタンを占拠した。その間警官隊と衝突し、数百名の逮捕者、重軽傷者を出した。高校生、大学生による連帯ストライキ、デモの渦が起こり、ソルボンヌ校をはじめカルチェ・ラタンは、警察隊が撤退して、学生の「解放区」となった。
その後労働大衆が加わってカルチェ・ラタンは「バリケードの夜」に保安機動隊、警官隊との対決で流血の騒乱場と化した。レ・フィガロ紙が「権力はストリートにあり」と報道した。デモ、占拠、ストライキが全土に広がった。フランス放送協会 は一連の出来事の放送を禁止した。タクシーをふくむ交通システムは完全に麻痺した。デモの最盛時80万人の市民がパリ市街をうずめつくした。自発的にストに参加した労働者は800万人とも1000万人とも云われる。
政府と雇用者団体が譲歩し、最低賃金が3分の1上昇し、労働組合への公的権利が確立される「グルネル協定」が締結された。ドゴールを支持して秩序回復を願う市民の大デモがあったことも見過ごしてはならない。翌年大学と教育が現代的に改革された。無政府状態はド・ゴール大統領の下での凄まじい弾圧と現代に適応する改革で終息した。
「この運動により労働者の団結権、特に高等教育機関の位階制度の見直しと民主化、大学の学生による自治権の承認、大学の主体は学生にあることを法的に確定し、教育制度の民主化が大幅に拡大された」(Wikipedia)
「5月革命」に触発されて、日本と西欧諸国、ブラジル、メキシコ等の南米諸国・・・でも学生による反体制運動が熾烈に闘われた。そして父権的社会体制の変革にもっとも成功した国が西ドイツとフランスであったことはEUにおける両国の地位と発展の軌跡をみれば明らかである。そのほかの国においても性革命、文化革命が個々人の生き方に何らかの形跡を遺した。価値観、男女関係、ロックやファッション、映画やアニメ、アート等で影響を受けなかった者はいないだろう。
日大全学共闘会議(秋田明大議長) 巨額の使途不明金に端を発する数度の大衆団交要求集会 体育会系学生、右翼団体による集会襲撃 警察傍観、逆に集会学生逮捕 学生重軽傷者多数 6月末までに各学部スト突入、バリケード構築 9月占拠解除中の機動隊員、4階から投下されたコンクリート片で殉職 両国講堂で9.30大衆団交 大学側、11時間3万5千人学生の圧迫に、経理公開・理事総退陣要求に合意も翌日の佐藤首相の横槍で撤回 秋田ら8人に逮捕状 
このあと国家権力を後ろ盾にした大学当局とその手兵・右翼学生との流血の戦いが続く。これより、学生運動の火の手は全国に広がり高校生、浪人生の運動も注目された。日大闘争を特徴づけるノンセクト・ラディカル、ボス同士の交渉に替わる大衆団交、バリケード封鎖が、広がった運動にたしかな形跡を遺した。東大、京大、慶大が強固なバリケード構築法を日大全共闘に学んだという話が記録されている。 
丁度50年後世間を騒がせた日大アメフト事件は理事会の裏社会的体質が学園闘争史上画期的な日大闘争によっても改革されなかったことを天下に示した。それを裏返すと、民主化を求めて参加し討議して決める直接民主主義を実践した日大全共闘運動の評価がおのずと高まる。バリケードの中は若者の祝祭だった、という回想を多く目にする。
6月】
東大闘争 全国の医学部では学生と医師の卵が権威主義で固まった医局制度とインターン制度(卒業後1年間無給の実地研修を修了しないと国家試験受験資格がなかった)に反対して青年医師連合を結成して闘っていた。東大医学部で無期限スト中に医局長缶詰事件があり大学側は複数の学生、研修生を処分した。ちなみにわが親友大浜も京大医学部大学院で唯一ストに参加しなかった院生を教室から運び出した容疑で拘留され裁判にかけられた。東大では退学5人をふくむ17人の被処分者中に誤認処分が判明して闘争が激しく広がり始めた。医学部全闘委が卒業式と入学式阻止行動の後安田講堂を占拠した。
国家権力からの大学の自治(教授会の自治)は大学の伝統であり誇りであったはずだが、すでに体制化して硬直していた大学当局は安易に千余の機動隊を導入して封鎖を解除した。医学部を越えて全学部に抗議活動が広がり安田講堂前の抗議集会には六千人が参加した。
7月、安田講堂のバリケード封鎖 東大全共闘(山本義隆議長)結成 全学助手共闘会議結成 医学部本館占拠 医学部集会には教官・学生約1300名参加 医学部卒業試験延期 附属病院外科医局等占拠 法学部も無期限スト突入で開校以来初の10学部「無期限スト」 神経科医局全員、教授会に抗議し、スト終了まで一切の診察を有給者のみで行う(無給医診療拒否)と決議 医学部研究と臨床一部麻痺
11月総長以下学部長全員・付属病院長辞任 加藤総長代行新体制、ストライキ反対の民青、ノンポリ=無党派学生と結んで事態収拾=ストと封鎖解除に躍起 全学封鎖派劣勢・孤立化
このころ「東大解体」「自己否定」がセットで全共闘のモットーとして語られた。国権と金権の下部simobeとなった大学を変革する目的で大学の機能を一時的に止めるストではなく革命を目指して全機能をとめどもなく止める全学封鎖の行動を「解体」と表現したのであれば、革命志向者以外のノンポリの支持は得られない。体制とその発展という特別の役割を果たしている東大でなくても外の大学でも総スカンを食らう。
全学封鎖を最初に試みたのは京大である。1962年12月9日の明け方のことであるが、投票結果を知らせるパネルにさみしい数字と敗北の文字を書き込みながら覚えた身がすくむような寂寥感を私は忘れることがない。
自己否定は聖なる言葉である。釈迦牟尼やキリスト、田中正造にこそふさわしい。自己否定の語は言霊である。国家であれ運動組織であれ自己否定を政策のレベルで人々に押し付けるとポルポト・カンボジア政権によるような大虐殺が起こる。「滅私奉公」の縛りが大東亜で何千万の命を奪ったか、当時の私は想い至らなかった。私は東大闘争のころ「自己否定」の言霊の魔力にいささかいかれていたことを告白する。個人の心情としては可だが他人と組織や国家に求めてはならない。
東大闘争の過程で「何のための高度経済成長か」「何のために大学が在り、何のために学ぶのか」という問いが一部学生、研究者から発せられたが、その問いは超難問で今日なお解答できていない。
【8月】
・チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」をソ連主導のワルシャワ条約機構軍の戦車が蹂躙
【10月】
・メキシコ、政府が仕組んだトラテロルコの大虐殺 五輪直前のメキシコ市で、民主化要求デモに軍隊が発砲、学生ら数百人死亡 

・五輪では米国の黒人選手2人が表彰台上で黒手袋のこぶしを突き上げて「ブラックパワー」を誇示、「動乱の1968年」のシンボルになった。
・10.21国際反戦デー 新左翼諸派全学連と若者数万人、新宿駅騒乱 騒擾罪の適用 日大全共闘は組織不参加を決議
【12月】

・「ブラジルの軍事政権史上、最悪の悪法」軍政令第5号制定 政治犯に対する人身保護令の全面不適用により、軍秘密警察による政敵の拷問殺害、数知れず
1969年
【1月】

・18,19日機動隊導入により「安田砦」落城 入学試験中止 大学機能の休止、停止は政府の権限である、思い知ったか、と佐藤首相の高飛車
【2月】
・日大、機動隊導入で文理学部を最後に全学の封鎖を解除
【3月】
・京大の要請なしに機動隊2300人、校内出動、封鎖解除 大学自治に対する番犬のしょんべんマーキング行動
【6月】
・解放同盟、狭山事件対策本部設置
【9月】
・早大、機動隊により、大学臨時措置法反対で封鎖中の大隈講堂、第2学生会館封鎖解除 措置法は政府に大学またはその一部を廃止・改組・縮小等の権限を与える立法 「大学自治」に対する権力のダメ押し

以上が「どう生きるか」の身の周りにあった「どう考えるか」の課題であった。遠いところでは、南アと米国におけるアパルトヘイト、イスラエルによるパレスティナ侵浸食、アフリカ等植民地の独立、ソ連圏の民主化闘争と「雪解け」にも関心があった。