1998年3月2~3日の舌癌切除部位(舌左側)病理診断書
①から⑦までの断片の内、②~⑥は間質に異形細胞が認められるが、周辺①②には無いことが記されている。軽症の内に診察出来たから助かったが、少し遅れると、広範囲にわたって転移の悪性化がおこりそうな状況だったと考える。
問題は舌の再建手術で起こった。左ひじから手首までの長い皮弁を切り取って口腔内の手術痕に縫い付けた。長い血管を頸の太い血管に吻合したことはすでに述べた。皮弁は形と大きさがPCのマウスに似ている。
出典 www.civillink.net
身体はベッドに固定され、動かせるのは足と右手だけ、気管カニューレで呼吸をし、鼻チューブで栄養をとり、排尿は尿管で、排便はオムツで、・・・何とも不自由、不快な闘病生活が6日間続いた。耳と目は機能したが声を出せないので意思を伝えるのに筆談ボードを使った。
眼球しか動かせない難病患者の不自由を考えると、私が不自由をかこつのは気が引ける。それでも気道を確保する気管カニューレの喀痰吸引は、しょっちゅうで、ベルを押してどれだけ看護師をわずらわせたか、喀痰処理の不快感と共に、忘れようがない。
3月7日、 アジアサッカー連盟主催のダイナスティカップ最終日の試合が東京で行われた。わたしはベッドで対中国戦を観戦した。中田英寿率いる日本代表は0-2で敗れたが、得失点差で中国を上回り優勝した。私は途中で眠りこけた。
TVを視聴できたのだから再建手術の結果は良好だった、はずだった・・・。
翌8日、毎日午前中に移植片に針を刺して血が通っているか検査をするお兄さん(多分アルバイトの大学院生)が来なかった。日曜だから来ないのだろうと思った・・・。
その午後異変が起こったがどのように何時に起こったか全く記憶がない。眠るように昏睡に陥ったのであろう。
妻の記憶によると、当直の形成外科医かS病棟医がたまたま来て異変に気付き、やがて白衣の要員が数人どかどかと入って来て運び出したことは憶えているが、何が起こったのか、何時ごろの事か、何時間後に病室に戻ったのか、思いだせないという。
舌の移植にトラブルが発生してやりなおしていることはH看護室長が知らせてくれたそうだ。舌をほっぺに縫い付けたので言語障害が出るかも・・・とも聴いている。
私はいつ覚醒したか、まったく憶えていない。血流が止まって皮弁が壊死した、舌を頬内側に縫い付けた、と形成外科医に告げられた。それからまたベッド生活が続いたが、記録が皆無なのでその期間と内容が不明。
今回自分の口内を点検して舌の修復手術のあらましが分かった。
舌全体を奥に押し込んで傷跡を二つ折りにして、傷と傷を合わせて縫合癒着させている。修復された舌は歯茎を越えて頬壁に縫着している。その結果私は舌足らずになって舌が口先に出ない。舌なめずりが十分にできない。
今回ようやく妻が少しだけ思い出してくれた。私が覚醒したので湯沸かし室に白湯をもらいに行った。何に使うかは不明。朝陽が差し込んでいたので太陽に向かって手を合わせたそうだ。つまり私は相当の時間麻酔で眠っていたのだ。
このように、医学部耳鼻咽喉科に転院してからも再手術となった。リスク10%に当たるなんて、まったくついてない。
しかも、二度あることは三度ある。次回につづく。
W自家移植に一言。皮弁を剥ぎ取られて剥き出しになった腕のキズにはどこから採った皮膜を移植したのか。私の場合、鼠径部から柔らかい皮膜を採った。今、鼠径部には傷跡が見当たらないが、腕には数本陰毛が生えている。
理学療法士による半年間におよぶリハビリ作業にも関わらず、親指にしびれが残り腕が斜め上までしか上がらない。左手で持つと汁物がこぼれる、肩が固まっていて腕がまわりにくい、といった後遺症といつまでも付き合う羽目になった。