自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

悲しき熱帯 上/パラナ編

2023-08-18 | 移動・植民・移民・移住

  1977年  中央公論社刊 原著は1955年刊 写真  猿を頭にのせた娘(ナンビクワラ族)

1935年、文化人類学者レヴィ=ストロースがサンパウロ大学を発って奥地の先住民集落の伝統、慣習の調査、民俗学上の蒐集のための探検旅行に向かった。このブログで長く付き合うことになる教授の氏名は長いので以下教授と略称する。

フランスと同じくらいの広さをもつサン・パウロ州は、1918年の地図によると、その三分の二が、「インディオ[トゥピ語族]のみによって居住されている未開の土地」であったが、私がそこへ着いた時には、海岸に押し込められた数家族から成る一団を除けば、もはや唯ひとりのインディオもいなかったのである。

1935年、教授は「1930頃までほとんど人間に汚されていないと言ってよかった」パラナの大森林地帯に入った。その最初の都市がLondrinaである。私がそこで生まれる3年前のことである。
鉄道が開通したばかりの駅がLondrinaで住民三千、開通予定のロランディアは六十、一番新しいアラポンガスは一人だった。懐かしい地名だ。私の故郷であり、それぞれにいとこたちが住んでいた。 
「細長い分譲地は、一方の端は道路に、他の端は各々の谷の底を流れている小流に接するように区切られている」。道路は尾根伝いに作られている。まるでウチの分譲地ロッチを見ているかのようだ。
パラナ州に居たIndigenaインデジェナ*についての教授の概観によると発見された当時ブラジル南部全体には言語・文化上の類縁関係をもつ諸集団ジェ語族が居住していた。かれらは沿岸全域を占拠していたトゥピ語族に圧迫されて防戦しながら大森林の奥深く逃げ込んだため、「植民者たちにたちまち殲滅されてしまったトゥピ語族より、何世紀も後まで生き残った」。パラナ、サンタ・カタリーナでは原始的なままの小さな群れが二十世紀まで、いくつかはおそらく1935年まで、維持されていた。
*今日インヂオ、土人、野蛮人なる用語はほぼ全世界で差別語となっている。原文以外はこれを踏まえてインデジェナ、先住民とする。

教授はパラナ州には「純粋な」先住民はもはや居ないという。そして政府保護下の生活の種々相を、見たかぎり細大漏らさず記述した。 
政府はサン・ジェロニモ村等を建設してジェ語族の定住を推進した。「束の間の文明の経験の中から、インディオたちは、ブラジル式の衣服、斧、ナイフ、縫い針だけを生活にに採り入れた」。村と家を捨て遊動生活に戻った。粗末な小屋か椰子の葉の差し掛けで雨と寒気をしのぎ地べたに寝た。
能率と効率は一顧だにされなかった。マッチ、銃そして万能のカネ。「彼らはしばしば、最小の出費で自分たちの知的調和を得る術を心得ていた。」 
教授より30年若い世代に属するわたしは、単刀直入に「彼らは、富と権力の集積を生む便利なモノと社会システムを自らのアイデンティティを破壊する危険な異物として意識的に無視した」と言い換えたい気持ちに駆られる。
教授がパラナのジャングルの小道で時たま出合ったインデジェナの家族はどんな生活をしていたのであろうか。
教授は出合ったインデジェナを遊牧民ならぬ遊動民と定義した。生業は、男性による狩りと女性による採取、取るに足らぬ農作業である。狩りの季節や木の実の季節になると家族はみな獲物を求めて移動する。
教授は農作業について短い記述を残している。「森の奥で時折、原住民の開墾地を横切ることがある。木で作った高い柵のあいだに、惨めな緑が数十平方メートルの土地を占めている。バナナ、甘藷、マンジョーカ[キャッサバ]、玉蜀黍など。」
土起こし、草取り等の耕作をしない自然農法である。それだけではない。わたしは、インデジェナを妻帯した(普通のことだった)ポルトガル人移住者が妻から農業を学んだという印象を受けた。日本人移民も先住民に農法を学んで鳥害、病害虫を予防した例がある。最初の稲作(確認できた)、アマゾンの一部トロピカルフルーツ栽培(ヒントを得た?)。原理は不耕・混栽で栽培種を雑草、密林の保護下におくことだ。
教授の蒐集活動は困難を極めた。教授は先住民のわずかな生活資材を安物のアクセサリーやカネで蒐集(今様では押し買い)することを恥じた。それでも道なき道を騎行と二輪の馬車・牛車隊で強行し、道中出合ったインデジェナと交渉して欲しいものを入手する職務の遂行に努めた。
教授は、インデジェナが激減した原因については、移住者が持ち込んだ伝染病と討伐については触れるだけで聞き取りをしていない。しかし、宣教師、移住者が意識的に時には無邪気に伝染させ、インデジェナの魂を押しつぶしたイデオロギー措置=蛆食い人種説については、みずから探求し実体験している。なお、人喰い人種説*には踏み入っていない。
蛆とは死体、糞便、生ゴミが水分を保っているときに湧く言わずと知れたハエ類の幼虫である。その悪臭、不潔、気味悪さに嫌悪感を抱かないヒトはいない。インデジェナとて同じだ。
*東洋に金と香料を求める西欧人は例外なく対象地の人喰い説を広めた。マルコポ-ロも黄金の国ジパングでは戦の捕虜が身代金が支払われない場合食べられたとしている。
インデジェナは白人からさんざん嘲笑を受けた屈辱感から甲虫類の幼虫コロを食べていることを外来者にかたく秘するに至った。教授は、熱病のため唯一人保護村に残された哀れな男にあれこれ手を尽して(最後の決め手は「俺たちはコロが食べたいんだよ」)コロ椰子の腐食した倒木に案内させて、蚕によく似た白い幼虫を捕って生で試食した。頭をちぎると胴体から白っぽいバターのような脂が出る。ココ椰子の「乳液のような風味」だった。
蛆なる翻訳の原文はどうなのか識らない。教授は何も注釈していない。体験談に真実を語らさせていると解釈したい。

私はグアラニー族の行方を追っている。教授が会いたがっているのが「純粋のインディオ」に近い先住民であることが解った。同床異夢になるが、広大湿地Pantanalを越えてマトグロッソに至る教授について行こう。