「原城跡」は世界文化遺産「長崎と天草地方の
潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産。
キリシタン大名の有馬氏が1604年に完成、
1637年、島原・天草一揆の舞台となった城です。
原城跡の北側に位置する三ノ丸。
一揆の際には3,500人の農民などが、
守り固めたという記録が残っています。
本丸と三ノ丸の間に位置する二ノ丸は、
原城の中では最も広い廓です。
一揆の際には5,700人の農民などが、
守り固め、彼らの住居が密集して
建てられていたとの記録が残っています。
有馬氏に代わり新たな城主
松倉氏は、別の場所に城を築き、
1618年には原城は使われなくなりました。
キリシタン大名が去り、禁教期に入っても
多くの領民はひそかに信仰を続けていました。
1637年、松倉氏の圧政や飢饉をきっかけに、
有馬地域と天草地方の潜伏キリシタンが蜂起し、
合流して原城跡に立てこもりました。
この出来事が「島原・天草一揆」と呼ばれます。
2万数千人の一揆勢は、原城跡を包囲した
幕府軍の攻撃によりほぼ全員が殺されて終結、
原城跡は二度と使われないように
石垣などが破壊されています。
埋(うずみ)門は、本丸に向かう2番目の門。
一揆後に徹底的に破壊されましたが、
その破壊の行程が理解できるよう、
3段階に分けて整備されています。
本丸には一揆の際に礼拝堂が建てられ、
キリシタンの教えが説かれていた記録があり、
十字架、ロザリオなどの遺物が出土しています。
天草四郎が居を構えた記録も残されています。
この一揆によりキリスト教を
脅威とみなした幕府は、1639年宣教師の
潜入の可能性が高いポルトガル船の寄港を禁止、
海禁体制(鎖国)を確立しました。
1644年国内最後の宣教師が殉教、
潜伏キリシタンは、自分たちで信仰を
続けることを余儀なくされました。
本丸の北側に幕府軍が破壊した
石垣の痕跡が確認され、
そのままの状態で展示しています。
長崎県南島原市南有馬町
2023.12.10
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