まるみのあっちこっち巡り

ー32,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

日本100名城 熊本城

2024-11-16 00:21:55 | 日本100名城



加藤清正によって築城された熊本城。
「武者返し」と呼ばれる反りのある高石垣や
巧みな縄張といった独自の築城技術が特長。

その見事なつくりから日本三名城の
一つに数えられています。







2016年熊本地震では石垣の凋落や
建造物の倒壊など、甚大な被害を受けました。
2019年に特別公開がスタートしましたが、
復旧作業は現在も継続しています。







2021年に春に天守閣の復旧が完了、
久し振りに見学することにしましたが、
内部の展示も一新されていました。







天守閣の1階は、加藤時代の城づくりと町づくり
2階は、細川家の入城後、拡大する城下
3階は、軍施設として使われた近代の熊本城
4階には、熊本城の修理と復元







5階は最上階へと続くフロア
6階が展望フロアで熊本の市街地を一望。
かつて見た風景との違いに
地震の恐ろしさを再認識。







国指定重要文化財宇土櫓(五階櫓)解体保存工事。

続櫓は地震で倒壊、他城郭の天守に匹敵する
大きさである五階櫓は漆喰壁や床などが
破損しながらも威容を保っていたようです。







加藤時代の天守軸組模型(縮尺1/10)







復元した数寄屋丸二階御広間の石垣が
地震により一部崩落、石垣上面には
地割れが生じています。







別名:銀杏城
種別:平山城
築城者:加藤清正
築城年:1607年
主な城主:加藤氏、細川氏

熊本県熊本市中央区本丸1-1

2024.2.16


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日本100名城 大分府内城跡

2024-10-04 00:08:11 | 日本100名城



大分府内城は、大分川と住吉川の河口部に築かれ、
本丸、二の丸、三の丸と城下からなります。

府内城の築城は、福原直高が秀吉から命を受け、
1597年に着手、城づくりは竹中重利に
引き継がれ、1602年に完成しました。







府内城の玄関口にあたり、大手門と呼ばれますが、
正確には「多聞櫓門」という名称です。
1945年の空襲により焼失、
1966年に整備建築されたものです。







熊本(石工)や大坂(大工)、京都伏見(瓦師)から
職人を招き、当時の最新技術で築かれた府内城。







府内城には、3箇所に廊下橋が設けられていました。
大手門をはじめ、西ノ丸から北ノ丸、
本丸から東ノ丸への廊下橋です。







江戸時代の軍学者が、理想の橋の形としたもので、
軍学所には「内、必ず引橋」とあり、
床をはずして敵の進入を防ぐことができました。







かつて、茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた
山里丸(北の丸の一部)と西の丸を結ぶ
渡り廊下で、1996年に復元されました。







1602年に四重櫓の天守閣が築かれましたが、
1743年の大火により焼失、
以降再建されることなく現在に至ります。

別名:荷揚城、白雉城
種別:平城
築城者:福原直高、村中重利
築城年:1597年
主な城主:福原氏、早川氏、竹中氏、日根野氏、松平氏

大分県大分市荷揚町4-1

2023.12.14


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日本100名城 岡城

2024-09-29 00:23:49 | 日本100名城



難攻不落の堅城と謳われる岡城。
周囲を囲う断崖絶壁とその絶壁場に
累々と築かれている石垣群がその所以です。







築城は1185年、標高325mの
天神山の断崖絶壁を生かした古城は、
緒方惟栄が源頼朝に追われた源義経を
迎えるために築城したと伝えられています。







大手門跡

大手門は、城の正面玄関であることに加え、
防御施設でもあります。







東西2500m、南北362m、総面積は23万4千㎡に及ぶ
広大な敷地に広がる山城である岡城は、
1369年、志賀氏の居城となります。

島津の大軍に攻撃される豊薩戦争では志賀氏が撃退、
「難攻不落の城」と言われるようになりました。

1594年、播磨国三木城から中川秀成が入部。
中川氏により、総石垣の近世城郭へ、
大幅改修が行われました。







太鼓櫓跡・鐘櫓跡

太鼓櫓は岡城の中心部への入口、城内で最も重要な門。
2m程の巨石を「切込接」という石垣の技法を使い、
隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴、
岡藩の石垣技術の高さを窺えるものです。







岡城内の各所で、北に「くじゅう連山」、
西に「阿蘇山」、南に「祖母・傾山系」など、
九州山地の雄大な山々が展望できます。
特に本丸、三の丸、西の丸からの眺望は絶景。







本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸をおき、
中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられ、
それを囲むように、天守に相当する御三階櫓や角櫓、
多門櫓、金倉などが配置されていました。







瀧廉太郎は、岡城をモデルにして
名曲『荒城の月』を作曲したといわれています。

別名:臥牛城、豊後竹田城
種別:山城⇒平山城
築城者:緒方三郎惟栄、志賀貞朝、中川秀成
築城年:1185年、1331年、1596年
主な城主:緒方氏、志賀氏、中川氏

大分県竹田市大字竹田2761

2023.12.13


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日本100名城 飫肥城

2024-09-25 00:21:14 | 日本100名城



廃藩置県により1873年に取り壊された大手門を
1978年に樹齢100年の飫肥杉を用いて、
飫肥城のシンボルとして復元。
門前は、城下町らしい風情が漂います。







飫肥城は南北朝時代に、
土持氏が築城したのが始まりと伝えられ、
飫肥院とも呼ばれていたとか。







1458年、九州制覇を狙う薩摩の戦国大名島津氏が、
日向の中・北部で鎌倉時代から勢力を
蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、
島津氏の一族で志布志城主・新納忠続を入城させました。







島津氏と伊東氏の長きにわたる争奪戦を経て、
1588年伊東氏が城主となります。

近世城郭の体裁が整ったのは、その百年後、
本丸、中の丸、松尾の丸など多くの
曲輪に分かれていました。







飫肥城は、シラス台地の特性を生かして
城壁となし、堀や曲輪、石垣をもうけていました。
江戸時代、伊東家五万一千石の飫肥城。

写真は、飫肥城歴史資料館。(有料)
日本100名城スタンプはこちらにあります。







伊東祐兵は、領内にスギ(飫肥杉)の植林事業を興します。
これが幕末まで飫肥藩の財政を支える礎となりました。

別名:舞鶴城
種別:平山城
築城者:土持氏、伊東祐実
築城年:1686年
主な城主:土持氏、新納氏、伊東氏

宮崎県日南市飫肥10-1-2

2023.12.13


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日本100名城 鹿児島城

2024-09-17 00:19:51 | 日本100名城



2020年3月に147年ぶりに御楼門が復元され、
2023年3月に黎明館の敷地を含む
鹿児島城跡が国の史跡に指定されました。







1601年、島津家久(18代当主)により築城、
以後廃藩置県まで島津氏の居城でしたが、
本丸と二の丸を連郭式に並べ、
石垣と堀で囲んだだけの簡素な城です。







公称「77万石」の大名の城としては
天守など高層建築や高石垣などは築かれず、
中性の居館のような城で、
大大名なのになぜかと疑問を持ちます。







理由の一つに外城制があります。
多数の外城(大小の支城)が外敵の侵入を防ぎ、
本城を他の大名のような近世城郭にする
必要がなかったからだともいわれます。







石垣には無数のくぼみが見られますが、
銃弾や砲弾の破片が食い込んでいるものがあります。
これらは1877年の西南戦争の際のもので、
日本最後の内戦の歴史を伝える貴重な痕跡です。







熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、
故郷鹿児島に戻り、城山を中心に布陣しましたが、
政府軍は約5万人の兵で包囲し、
西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。







別名:鶴丸城
種別:平山城
築城者:島津家久
築城年:1601年
主な城主:島津氏

鹿児島県鹿児島市城山町7-2

2023.12.12


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日本100名城 名護屋城

2024-08-11 00:19:16 | 日本100名城



豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、
(朝鮮出兵の足がかりにするため)
国内拠点として築いた城です。







わずか5ヶ月で築城され、当時の大阪城に
次ぐ規模を誇った名護屋城。
安土桃山時代の貴重な
技術を示す石垣が残っています。







周辺には全国から参集した大名の陣屋が
150以上も建てられ、人口20万人を超える
城下町が出現したと言われます。







国内でこれほどの名だたる武将が
一堂に会した城、陣跡はありません。
関ヶ原の戦いの後、唐津城を築城した際に、
その一部の遺材を使用したとか。







本丸の広さは東西130m、南北125mで、
西北の隅に天守がおかれていました。
この天守台からの玄界灘の眺望は素晴らしく、
壱岐、対馬も望見できます。







陣城でありながら、本丸、二の丸、三の丸を中心に、
多くの高石垣で構築された曲輪が配され、
城域は約17万㎡にも及ぶ壮大なものでした。







別名:ー
種別:平山城
築城者:豊臣秀吉
築城年:1592年
主な城主:豊臣氏

佐賀県唐津市鎮西町名護屋1938-3

2023.12.9


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日本100名城 大野城

2024-08-03 00:08:26 | 日本100名城



白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、
新羅・唐連合軍の襲来に備え、
太宰府を守るために築いた山城が大野城。







標高410メートルの四王寺山(大城山)の
山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と
石塁の外周城壁は、約6.8kmあります。







南側と北側の土塁が二重となり防備を固め、
城域は東西約1.5km×南北約3kmの、
日本一の大規模な古代山城です。







城は亡命百済人の指導による朝鮮半島の
築城方法によって造られました。

天智政権は白村江の敗戦以降、
唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、
友好外交に徹しながら、防衛体制を整えたとか。







万が一の場合には、城内に太宰府の機能を
移すことも考えて設計されていたといいます。







城壁の総延長は約8㎞にもおよびます。
城内に残る多くの礎石建物群からも
そのスケールの大きさを実感できます。







別名:ー
種別:山城(朝鮮式)
築城者:大和朝廷
築城年:665年
主な城主:ー

福岡県太宰府市・大野城市・宇美町

2023.12.8


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日本100名城 福岡城

2024-07-31 00:21:47 | 日本100名城



関ヶ原の戦いでの功績により筑前に入国した
黒田孝高・長政父子が築いた城です。







丘陵の先端に本丸を築き、北・西・南の守りを
東の二の丸、二の丸、南の二の丸が固めていました。
その外側に三の丸があり、これらを囲む水堀は
幅50メートルを超えていたとか。







城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、
復元された櫓や城門が点在し、
南二の丸多聞櫓と続く南二の丸南隅櫓は
国の重要文化財に指定されています。







城跡の主要部分は国の史跡に指定され、
舞鶴公園と大濠公園になっています。
本丸御殿、武具櫓、本丸裏御門、太鼓櫓、
松ノ木坂御門などの復元計画もあるようです。







東御門は、三の丸から東二の丸へと続く櫓門。
門を入ると右手に直角に曲がる階段があり、
攻め手が簡単に攻められない構造になっています。
三の丸には黒田二十四騎と呼ばれる
重臣たちの屋敷がありました。







別名:舞鶴城
種別:平山城
築城者:黒田長政
築城年:1601年
主な城主:黒田氏

福岡県福岡市中央区城内

訪問日 2023.12.8他


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日本100名城 仙台城

2024-05-29 00:07:51 | 日本100名城



独眼竜政宗が築いた天険の城である仙台城は、
1600年から2年余りで一応完成しました。
大手門は桃山様式の豪壮華麗な城門でしたが、
戦災で焼失し、写真は復元された脇櫓です。







城は、東と南が広瀬川と竜の口渓谷の断崖、
西が険しい山に囲まれた天然の要塞、
石垣は主に本丸の周りに築かれました。







天守はあげませんでしたが、本丸には御成門、
大広間(およそ430畳)などの御殿を建てました。
平山城になるのは二代忠宗が二の丸を造営、
藩制の中心となってからです。







仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城。
仙台城跡のうち仙台市が所有している区画の
青葉山公園はごく一部で、護国神社や東北大学が
所有している区画が多く、車で石垣などが見て回りました。







5歳の頃、疱瘡を患い右目を失明、
「独眼竜」の異名をとる伊達政宗の銅像。

戦国時代を生き抜き、仙台藩62万石の
礎を築き、能、和歌、茶道、香道、料理などを
趣味とし、人をもてなすことを大切にされたとか。







仙台城には御殿や櫓は残っていませんが、
石垣や堀跡・土塁などの遺構を見ることができます。

こちらの施設はガイダンス施設の
「仙台城見聞館」(無料)です。
100名城スタンプはこちらで押印。







地震や雷火などで度々被害を受けた仙台城。
東日本大震災でも被災しましたが、
石垣復旧工事は完了しています。

別名:青葉城
種別:山城⇒平山城
築城者:伊達政宗
築城年:1600年
主な城主:伊達氏

宮城県仙台市青葉区川内

2023.10.31


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日本100名城 金山城

2024-03-18 19:52:30 | 日本100名城



群馬県太田市のほぼ中央にそびえる
標高235.8メートルの独立峰、
全山アカマツに覆われた
金山にあった金山城。







頂上の本丸を中心にそこから延びる
尾根を削平して曲輪を造り、
堀切・土塁で固く守った
巨大な戦国の山城です。







山を登っていくと馬場下通路が見えてきました。
この通路は防御上、土橋から見通せないよう
曲がった通路となっています。








馬場曲輪は上下二段の曲輪からなり、
それぞれ石垣が設けれれています。
四阿が建てられ、排水路も見えます。







復元された大手虎口は、石で埋め尽くされた通路。
両側は脇曲輪、その奥が土塁石垣です。







「戦国時代の関東の山城には本格的な
石垣普請の城はない」という
従来の定説が発掘調査で覆されたほど、
多くの石垣が多用されています。







越後の上杉氏や甲斐の武田氏など
名だたる武将たちに攻められましたが、
落城することが一度もなかった
堅固な城だったといいます。







三の丸の下にある「日ノ池」は、出土品から
祭司的な場であったと考えられています。







本丸跡とされている地点に新田神社があります。

別名:新田金山城、太田金山城
種別:山城
築城者:岩松家純
築城年:1469年
主な城主:岩松氏、由良氏、後北条氏

群馬県太田市金山町40-98他

2023.9.19


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日本100名城 今治城

2023-11-20 23:59:19 | 日本100名城



瀬戸内海に面し、「吹揚の浜」と呼ばれた
砂丘地帯に築城の名手として名高い藤堂高虎が、
1602年に築城を開始、約6年の歳月をかけて
ほぼ完成されたという今治城。

武将の像としては珍しく平服姿の騎馬像。
時代を先取りし、平和な時代の城づくりを
考えた高虎に相応しい姿、今治城のシンボル。







海水を取り入れた水堀を曲輪の周囲に巡らせ、
内堀・中堀・外堀の三重の水堀で囲う
広大な城であった今治城は、
日本屈指の海城で、来島海峡の監視基地。







今治城の正門にあたる鉄御門は、
扉や柱に鉄板を使用した
最も堅固は枡形虎口の門で、
格式の高い城にしかない特別な門。







今も満潮時になると堀の北側にある水門から
海水が流れ込むそうですが、
かつて舟入には軍船が出入りできたとか。

別名:吹揚城、美須賀城
種別:平城(海城)
築城者:藤堂高虎
築城年:1602年
主な城主:藤堂氏、松平(久松)氏

愛媛県今治市通町3-1-3

2023.4.28


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日本100名城 宇和島城

2023-10-06 01:32:46 | 日本100名城



宇和島の中心部に位置する標高約80mの
丘陵に築かれた宇和島城は、
江戸時代以降の姿をとどめる
現存十二天守のひとつがそびえ立ちます。







1615年に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、
明治を迎えるまで"西国の伊達"9代の居城でした。







近世城郭は築城家として名高い武将の藤堂高虎によって、
1596年から1601年にかけて築かれたのち、
現在の天守は伊達家の居城になってから再建、
城構えは藤堂高虎が創建した当時のものを引き継いでいます。







各階の装飾性の高い破風や懸魚などから
太平の世を象徴するものとして評され、
小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、
非常に格式を重んじた造りとなっているそうです。







天守の最上階からは伊達十万石の城下町が望め、
本丸の先に宇和島港と海が見える景観は、
かつて城が海辺にあった時代をイメージさせます。







かつては大半が海に面し、堀も築かれていたとか。
その名残は今の町割りや道路に見られます。







石垣は高虎から伊達家のものまで
新旧様々な積み方を見ることができます。

別名:鶴島城
種別:平山城
築城者:藤堂高虎
築城年:1596年
主な城主:西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏

愛媛県宇和島市丸之内1

2023.5.1


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日本100名城 大洲城

2023-09-24 01:25:13 | 日本100名城



大洲城の始まりは、1331年に宇都宮豊房が
地蔵ヶ岳に城を築いたことによります。
近代城郭に改造したのは藤堂高虎といわれ、
天守を築いたのは脇坂安治の時代です。







天守は、1888年まで残されていましたが、
取り壊されることとなりました。
しかし、4棟の櫓は解体を免れ、
いずれも国の重要文化財に指定されています。







4層4階の天守は、明治期の古写真や
「天守雛形」と呼ばれる江戸期の
木組模型などの史料をもとに
2004年に木造で復元されました。







復元天守の内部を見ましょう。
1階、2階は他の城にない吹き抜けの
構築が施されています。







使用した木材はすべて国産材。
城郭建築特有の迫力ある
木組みが見られます。







清流肱川の畔に城が築かれ、
(前日の雨で濁っていますが)
多くの武将達が主となった大洲城。

別名:地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城
種別:平山城
築城者:宇都宮豊房、脇坂安治
築城年:1331年、1609年
主な城主:宇都宮氏、戸田氏、脇坂氏など

愛媛県大洲市大洲903

2023.4.30


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日本100名城 湯築城

2023-09-17 00:27:00 | 日本100名城



16世紀前半、伊予国の守護であった河野氏が、
館型の城だった湯月城を整備し、
戦国期拠点城郭へと転換させました。
主な遺構は土塁と堀です。







この地を支配していた河野氏の歴史、
城のジオラマや鎧などが展示されている
湯築城資料館は無料で見学できる施設。
日本100名城のスタンプはこちらにあります。







展望台から城の大きさを確認してみましょう。
QRコードから復元CGで映像と解説を聞きます。

1587年には廃城しており、松山城で湯築城の
瓦等の建材が流用されたことが
発掘調査により判明しているそうです。








城は丘陵部とその下の平地部からなり、
比高約30mの丘陵部を二重の堀と
土塁で囲んでいます。







内堀と外堀の間に河野氏の屋敷や
直属の武士の屋敷などが建ち、
平地部は、庭園を伴う上級武士と
その他の武士と居住地が分かれていたとか。







城内に居住区も有するという近世城郭の構造を
安土城より40年も早く築き上げていました。
戦国時代中頃の大規模な堀や土塁が良好に残る
稀な遺構として歴史的価値も非常に高いものです。







別名:湯月城
種別:平山城
築城者:河野通盛、河野通直(弾正少弼通直)
築城年:南北朝期、1535年
主な城主:河野氏

愛媛県松山市1

2023.4.30


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日本100名城 岡山城

2023-02-27 00:20:11 | 日本100名城



父の宇喜多直家が金光氏から奪った城を
豊臣秀吉に厚遇されて大大名となった
宇喜多秀家が8年の歳月を費やし
1597年に完成した岡山城。







外観は黒漆塗の下見板が特徴的で
「烏城」とも呼ばれます。

城跡は烏城公園として整備されており、
隣接する大名庭園の後楽園は、
偕楽園、兼六園とともに、
日本三名園として並び称されています。







西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を
流れるように改修し、天然の外堀に活用。
最上階からは眼下に旭川を望み、
岡山後楽園と市街地を360度見渡せます。







1996年に 築城400年記念事業として、
創建当時の天守には金の鯱がのり、
金烏城と呼ばれていたとの伝承から
鯱に金箔を施しています。







築城当時の天守閣は1945年の空襲で焼失しましたが、
1965年に鉄筋コンクリート造で再建されました。
復元天守の内部は博物館となっています。

宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した
三層六階建ての望楼形天守閣で、
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた
時期の構造的特徴を伝えています。







関ヶ原合戦に敗れた秀家の後に入城した
小早川秀秋や池田氏によっても
拡張整備が続けられ、
現在の姿になったのだそうです。

別名:烏城、金烏城
種別:平山城
築城年:1521~1527年、 1570年、 1597年
築城者:金光氏、宇喜多直家、宇喜多秀家

岡山県岡山市北区丸の内2-3-1

訪問日 2003.7.14

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