まるみのあっちこっち巡り

ー33,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

日本100名城 備中松山城(天守が現存する唯一の山城)

2025-03-01 00:07:03 | 日本100名城



備中松山城へ車で行く場合、城見橋公園駐車場を利用し、
登城整理バス(有料)で、ふいご峠駐車場へ行きます。
登城整理バスが運行されていない場合は、
車でふいご峠駐車場へ行きます。







ふいご峠駐車場から天守までは20分程、
山道を歩いて行きます。
石垣が見えてきたと思っても天守はまだまだ。







市街地の北端にそびえる標高約480mの臥牛山。
北から大松山・天神の丸・小松山・前山の
4つの峰からなり、備中松山城は
その頂を中心に全域に及んでいます。







大手門跡北側の天然の岩盤上に
築かれた石垣群が一際目を引きます。

石垣を築き、更に土壁を建て、
山城の魅力である天然と人工の
コラボレーションがよく表れています。







左から六の平櫓、南御門、五の平櫓、天守。
現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、
小松山の山頂(標高430m)を中心に
築かれた近世城郭を指します。







日本で天守が現存する12の城、唯一の山城です。
二層二階の典型的な山城ですが、
三層に見えるようにデザインされています。
(国指定重要文化財)

傷みが進んだ天守も2003年には保存修理が
行われて現在に至っています。







籠城戦を想定し、囲炉裏や装束の間が設けられ、
二階には御社壇(神棚)があるのが特徴。







六の平櫓、南御門、五の平櫓、土塀などが
史実に基づいて1997年に復元されました。







天守の北側、岩盤の上に造られた二重櫓。
天然の岩盤の上に石垣を築き建てられており、
山城の特徴がよく表れています。
(国指定重要文化財)







備中松山城PR大使「猫城主 さんじゅーろー」も
小さくですが、写っています。







雲海に浮かぶ天空の山城として人気です。

別名:高梁城
種別:山城
築城者:秋庭重信
築城年:1240年
主な城主:秋庭氏、小堀氏、毛利氏、水野氏

岡山県高梁市

2024.5.15


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日本100名城 鬼ノ城

2025-02-28 00:48:40 | 日本100名城



鬼ノ城には4つの城門がありますが、
推定復元された西門が見えます。
あの山が鬼城山のようです。







主の進入路と思われる場所に西門があり、
高さ13m、三重の木造建築で、
階上には兵士用の部屋があるとか。
(中に入ることはできません)







版築で突き固められた土塁の城壁は長さ約2.8㎞。
版築とは、土を建材に用い強く突き固める方法、
堅固な土壁や建築の基礎部分を
徐々に高く構築する工法を指します。

要所は土塁ではなく、数mの高石垣です。







極めて良好な状態で残っていた西門跡。
戦闘の場としての機能を考慮して
三階建ての城門に復元。

古代山城の城門の復元例としては、
日本で初の事例となります。







西門は日本最大の古代山城大野城の
大宰府口城門(間口8.85m)をしのぐ
壮大堅固な城門です。







吉備平野を見おろす標高397mの鬼城山に
築かれた謎の古代山城ですが、
吉備平野は古代遺跡の宝庫です。







この地には吉備津彦命による温羅と呼ばれた
鬼を退治した伝説が語り継がれ、
昔話桃太郎の原型になったとされます。

伝説では、絶壁にそびえる古代山城は温羅の居城とされ、
約1800年前の巨大墓に立ち並ぶ巨石は命の楯となり、
戦いの後、勝利した命は巨大神殿に祀られ、
敗れた温羅の首はその側に埋められたそうです。







別名:鬼城山(きのじょうざん)
種別:山城
築城者:大和朝廷が有力
築城年:7世紀後半説が有力
主な城主:ー

岡山県総社市奥坂、黒尾

2024.5.15


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日本100名城 福山城

2025-02-24 00:07:41 | 日本100名城



新たに築城が禁止されていた中、
西国鎮衛の役目から例外的に認められ、
築城に着手した徳川家康の
母方の従兄弟の水野勝成。







名君と呼ばれる水野勝成の半生は破天荒。
16歳の時、初陣でありながら15の敵の首をうちとり、
信長から「比類なき活躍」と絶賛されますが、
父の忠臣を切り殺し、父から勘当。







各地を流浪、36歳で家康の仲立ちにより、
親子の和解なるも父が暗殺され、刈谷藩主を相続。
家康に従い、大垣城攻めの総大将として参戦。
その後も数々の戦で活躍しています。







自ら陣頭で職人たちを鼓舞!
五層の天守や20基を超える櫓、
長大な多聞櫓をもつ巨城を短期間で完成。







2022年、福山城築城400年、
令和の大普請を経て天守外観復元。
福山城博物館リニューアルオープン。
常設展:一般500円







天守最上階は、市内を360度見渡せる展望台。
本丸の櫓や、駅周辺の様子も見ることができます。
4階の福山城シアターでは、水野勝成の
まちづくりの映像を楽しめます。







城主である水野勝成と水野家、阿部正弘と阿部家、
体験型コンテンツやクイズも楽しめます。







防御が薄い北側からの攻撃を警戒したためか、
全国唯一の天守北側壁面の鉄板張りを復元。
西国鎮衛として幕府の威厳を示すため
10万石では考えられない規模の巨城です。







別名:久松城、葦陽城
種別:平山城
築城者:水野勝茂
築城年:1619年
主な城主:水野氏、松平(奥平)氏、阿部氏

広島県福山市丸之内1-8

2024.5.14


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日本100名城 甲府城

2025-01-06 00:17:26 | 日本100名城



甲府城は武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城。
山手御門は、山手門と山手渡櫓門の総称で、
甲府城にあった3つの出入口の一つです。

1998年の発掘調査で石垣の一部が発見され、
当時の工法を用いて復元されました。







関東の徳川家康に対抗するための
重要な戦略拠点として築かれたといわれ、
徳川となってからは西側への備えとしての
重要性を保ち続けたといわれています。







明治時代になると石垣も崩され、
堀も埋め立てられました。
現在、甲府城は中央本線の開通で分断、
城跡の一部が公園として開放されています。







穴倉があり平面が不整形の本丸天守台。
豊臣系築城技術が生かされた石垣が見事です。

後年、柳沢吉保が城主となり、
さらに城と城下町の整備を行っています。







天守などの構築物がないだけに
石垣の素晴らしさが際立っています。
富士山や甲府城の稲荷櫓(鶴舞城公園)
などが一望できます。







再建された稲荷櫓は、鬼門の北東にあることから
艮(うしとら)櫓と呼ばれた二十櫓です。
山手渡櫓門と稲荷櫓の中は展示室、
江戸時代の歴史資料などが展示されています。







かつては20haほどの広大な城郭でした。

別名:舞鶴城、一条小山城
種別:平山城
築城者:豊臣秀勝、徳川家康
築城年:1583年
主な城主:加藤氏、浅野氏、徳川氏、柳沢氏

山梨県甲府市北口2-5-5

2024.3.8


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日本100名城 熊本城

2024-11-16 00:21:55 | 日本100名城



加藤清正によって築城された熊本城。
「武者返し」と呼ばれる反りのある高石垣や
巧みな縄張といった独自の築城技術が特長。

その見事なつくりから日本三名城の
一つに数えられています。







2016年熊本地震では石垣の凋落や
建造物の倒壊など、甚大な被害を受けました。
2019年に特別公開がスタートしましたが、
復旧作業は現在も継続しています。







2021年に春に天守閣の復旧が完了、
久し振りに見学することにしましたが、
内部の展示も一新されていました。







天守閣の1階は、加藤時代の城づくりと町づくり
2階は、細川家の入城後、拡大する城下
3階は、軍施設として使われた近代の熊本城
4階には、熊本城の修理と復元







5階は最上階へと続くフロア
6階が展望フロアで熊本の市街地を一望。
かつて見た風景との違いに
地震の恐ろしさを再認識。







国指定重要文化財宇土櫓(五階櫓)解体保存工事。

続櫓は地震で倒壊、他城郭の天守に匹敵する
大きさである五階櫓は漆喰壁や床などが
破損しながらも威容を保っていたようです。







加藤時代の天守軸組模型(縮尺1/10)







復元した数寄屋丸二階御広間の石垣が
地震により一部崩落、石垣上面には
地割れが生じています。







別名:銀杏城
種別:平山城
築城者:加藤清正
築城年:1607年
主な城主:加藤氏、細川氏

熊本県熊本市中央区本丸1-1

2024.2.16


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日本100名城 大分府内城跡

2024-10-04 00:08:11 | 日本100名城



大分府内城は、大分川と住吉川の河口部に築かれ、
本丸、二の丸、三の丸と城下からなります。

府内城の築城は、福原直高が秀吉から命を受け、
1597年に着手、城づくりは竹中重利に
引き継がれ、1602年に完成しました。







府内城の玄関口にあたり、大手門と呼ばれますが、
正確には「多聞櫓門」という名称です。
1945年の空襲により焼失、
1966年に整備建築されたものです。







熊本(石工)や大坂(大工)、京都伏見(瓦師)から
職人を招き、当時の最新技術で築かれた府内城。







府内城には、3箇所に廊下橋が設けられていました。
大手門をはじめ、西ノ丸から北ノ丸、
本丸から東ノ丸への廊下橋です。







江戸時代の軍学者が、理想の橋の形としたもので、
軍学所には「内、必ず引橋」とあり、
床をはずして敵の進入を防ぐことができました。







かつて、茶の湯や能、月見など諸芸能の営まれた
山里丸(北の丸の一部)と西の丸を結ぶ
渡り廊下で、1996年に復元されました。







1602年に四重櫓の天守閣が築かれましたが、
1743年の大火により焼失、
以降再建されることなく現在に至ります。

別名:荷揚城、白雉城
種別:平城
築城者:福原直高、村中重利
築城年:1597年
主な城主:福原氏、早川氏、竹中氏、日根野氏、松平氏

大分県大分市荷揚町4-1

2023.12.14


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日本100名城 岡城

2024-09-29 00:23:49 | 日本100名城



難攻不落の堅城と謳われる岡城。
周囲を囲う断崖絶壁とその絶壁場に
累々と築かれている石垣群がその所以です。







築城は1185年、標高325mの
天神山の断崖絶壁を生かした古城は、
緒方惟栄が源頼朝に追われた源義経を
迎えるために築城したと伝えられています。







大手門跡

大手門は、城の正面玄関であることに加え、
防御施設でもあります。







東西2500m、南北362m、総面積は23万4千㎡に及ぶ
広大な敷地に広がる山城である岡城は、
1369年、志賀氏の居城となります。

島津の大軍に攻撃される豊薩戦争では志賀氏が撃退、
「難攻不落の城」と言われるようになりました。

1594年、播磨国三木城から中川秀成が入部。
中川氏により、総石垣の近世城郭へ、
大幅改修が行われました。







太鼓櫓跡・鐘櫓跡

太鼓櫓は岡城の中心部への入口、城内で最も重要な門。
2m程の巨石を「切込接」という石垣の技法を使い、
隙間なく積まれた石垣は、藩主の権威の象徴、
岡藩の石垣技術の高さを窺えるものです。







岡城内の各所で、北に「くじゅう連山」、
西に「阿蘇山」、南に「祖母・傾山系」など、
九州山地の雄大な山々が展望できます。
特に本丸、三の丸、西の丸からの眺望は絶景。







本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸をおき、
中央部には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられ、
それを囲むように、天守に相当する御三階櫓や角櫓、
多門櫓、金倉などが配置されていました。







瀧廉太郎は、岡城をモデルにして
名曲『荒城の月』を作曲したといわれています。

別名:臥牛城、豊後竹田城
種別:山城⇒平山城
築城者:緒方三郎惟栄、志賀貞朝、中川秀成
築城年:1185年、1331年、1596年
主な城主:緒方氏、志賀氏、中川氏

大分県竹田市大字竹田2761

2023.12.13


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日本100名城 飫肥城

2024-09-25 00:21:14 | 日本100名城



廃藩置県により1873年に取り壊された大手門を
1978年に樹齢100年の飫肥杉を用いて、
飫肥城のシンボルとして復元。
門前は、城下町らしい風情が漂います。







飫肥城は南北朝時代に、
土持氏が築城したのが始まりと伝えられ、
飫肥院とも呼ばれていたとか。







1458年、九州制覇を狙う薩摩の戦国大名島津氏が、
日向の中・北部で鎌倉時代から勢力を
蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、
島津氏の一族で志布志城主・新納忠続を入城させました。







島津氏と伊東氏の長きにわたる争奪戦を経て、
1588年伊東氏が城主となります。

近世城郭の体裁が整ったのは、その百年後、
本丸、中の丸、松尾の丸など多くの
曲輪に分かれていました。







飫肥城は、シラス台地の特性を生かして
城壁となし、堀や曲輪、石垣をもうけていました。
江戸時代、伊東家五万一千石の飫肥城。

写真は、飫肥城歴史資料館。(有料)
日本100名城スタンプはこちらにあります。







伊東祐兵は、領内にスギ(飫肥杉)の植林事業を興します。
これが幕末まで飫肥藩の財政を支える礎となりました。

別名:舞鶴城
種別:平山城
築城者:土持氏、伊東祐実
築城年:1686年
主な城主:土持氏、新納氏、伊東氏

宮崎県日南市飫肥10-1-2

2023.12.13


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日本100名城 鹿児島城

2024-09-17 00:19:51 | 日本100名城



2020年3月に147年ぶりに御楼門が復元され、
2023年3月に黎明館の敷地を含む
鹿児島城跡が国の史跡に指定されました。







1601年、島津家久(18代当主)により築城、
以後廃藩置県まで島津氏の居城でしたが、
本丸と二の丸を連郭式に並べ、
石垣と堀で囲んだだけの簡素な城です。







公称「77万石」の大名の城としては
天守など高層建築や高石垣などは築かれず、
中性の居館のような城で、
大大名なのになぜかと疑問を持ちます。







理由の一つに外城制があります。
多数の外城(大小の支城)が外敵の侵入を防ぎ、
本城を他の大名のような近世城郭にする
必要がなかったからだともいわれます。







石垣には無数のくぼみが見られますが、
銃弾や砲弾の破片が食い込んでいるものがあります。
これらは1877年の西南戦争の際のもので、
日本最後の内戦の歴史を伝える貴重な痕跡です。







熊本・宮崎での戦いに敗れた西郷軍は、
故郷鹿児島に戻り、城山を中心に布陣しましたが、
政府軍は約5万人の兵で包囲し、
西郷軍に無数の銃・砲弾を浴びせました。







別名:鶴丸城
種別:平山城
築城者:島津家久
築城年:1601年
主な城主:島津氏

鹿児島県鹿児島市城山町7-2

2023.12.12


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日本100名城 名護屋城

2024-08-11 00:19:16 | 日本100名城



豊臣秀吉が文禄・慶長の役の際に、
(朝鮮出兵の足がかりにするため)
国内拠点として築いた城です。







わずか5ヶ月で築城され、当時の大阪城に
次ぐ規模を誇った名護屋城。
安土桃山時代の貴重な
技術を示す石垣が残っています。







周辺には全国から参集した大名の陣屋が
150以上も建てられ、人口20万人を超える
城下町が出現したと言われます。







国内でこれほどの名だたる武将が
一堂に会した城、陣跡はありません。
関ヶ原の戦いの後、唐津城を築城した際に、
その一部の遺材を使用したとか。







本丸の広さは東西130m、南北125mで、
西北の隅に天守がおかれていました。
この天守台からの玄界灘の眺望は素晴らしく、
壱岐、対馬も望見できます。







陣城でありながら、本丸、二の丸、三の丸を中心に、
多くの高石垣で構築された曲輪が配され、
城域は約17万㎡にも及ぶ壮大なものでした。







別名:ー
種別:平山城
築城者:豊臣秀吉
築城年:1592年
主な城主:豊臣氏

佐賀県唐津市鎮西町名護屋1938-3

2023.12.9


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日本100名城 大野城

2024-08-03 00:08:26 | 日本100名城



白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、
新羅・唐連合軍の襲来に備え、
太宰府を守るために築いた山城が大野城。







標高410メートルの四王寺山(大城山)の
山頂を中心に馬蹄形状の尾根から谷を廻る土塁と
石塁の外周城壁は、約6.8kmあります。







南側と北側の土塁が二重となり防備を固め、
城域は東西約1.5km×南北約3kmの、
日本一の大規模な古代山城です。







城は亡命百済人の指導による朝鮮半島の
築城方法によって造られました。

天智政権は白村江の敗戦以降、
唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、
友好外交に徹しながら、防衛体制を整えたとか。







万が一の場合には、城内に太宰府の機能を
移すことも考えて設計されていたといいます。







城壁の総延長は約8㎞にもおよびます。
城内に残る多くの礎石建物群からも
そのスケールの大きさを実感できます。







別名:ー
種別:山城(朝鮮式)
築城者:大和朝廷
築城年:665年
主な城主:ー

福岡県太宰府市・大野城市・宇美町

2023.12.8


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日本100名城 福岡城

2024-07-31 00:21:47 | 日本100名城



関ヶ原の戦いでの功績により筑前に入国した
黒田孝高・長政父子が築いた城です。







丘陵の先端に本丸を築き、北・西・南の守りを
東の二の丸、二の丸、南の二の丸が固めていました。
その外側に三の丸があり、これらを囲む水堀は
幅50メートルを超えていたとか。







城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、
復元された櫓や城門が点在し、
南二の丸多聞櫓と続く南二の丸南隅櫓は
国の重要文化財に指定されています。







城跡の主要部分は国の史跡に指定され、
舞鶴公園と大濠公園になっています。
本丸御殿、武具櫓、本丸裏御門、太鼓櫓、
松ノ木坂御門などの復元計画もあるようです。







東御門は、三の丸から東二の丸へと続く櫓門。
門を入ると右手に直角に曲がる階段があり、
攻め手が簡単に攻められない構造になっています。
三の丸には黒田二十四騎と呼ばれる
重臣たちの屋敷がありました。







別名:舞鶴城
種別:平山城
築城者:黒田長政
築城年:1601年
主な城主:黒田氏

福岡県福岡市中央区城内

訪問日 2023.12.8他


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日本100名城 仙台城

2024-05-29 00:07:51 | 日本100名城



独眼竜政宗が築いた天険の城である仙台城は、
1600年から2年余りで一応完成しました。
大手門は桃山様式の豪壮華麗な城門でしたが、
戦災で焼失し、写真は復元された脇櫓です。







城は、東と南が広瀬川と竜の口渓谷の断崖、
西が険しい山に囲まれた天然の要塞、
石垣は主に本丸の周りに築かれました。







天守はあげませんでしたが、本丸には御成門、
大広間(およそ430畳)などの御殿を建てました。
平山城になるのは二代忠宗が二の丸を造営、
藩制の中心となってからです。







仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城。
仙台城跡のうち仙台市が所有している区画の
青葉山公園はごく一部で、護国神社や東北大学が
所有している区画が多く、車で石垣などが見て回りました。







5歳の頃、疱瘡を患い右目を失明、
「独眼竜」の異名をとる伊達政宗の銅像。

戦国時代を生き抜き、仙台藩62万石の
礎を築き、能、和歌、茶道、香道、料理などを
趣味とし、人をもてなすことを大切にされたとか。







仙台城には御殿や櫓は残っていませんが、
石垣や堀跡・土塁などの遺構を見ることができます。

こちらの施設はガイダンス施設の
「仙台城見聞館」(無料)です。
100名城スタンプはこちらで押印。







地震や雷火などで度々被害を受けた仙台城。
東日本大震災でも被災しましたが、
石垣復旧工事は完了しています。

別名:青葉城
種別:山城⇒平山城
築城者:伊達政宗
築城年:1600年
主な城主:伊達氏

宮城県仙台市青葉区川内

2023.10.31


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日本100名城 金山城

2024-03-18 19:52:30 | 日本100名城



群馬県太田市のほぼ中央にそびえる
標高235.8メートルの独立峰、
全山アカマツに覆われた
金山にあった金山城。







頂上の本丸を中心にそこから延びる
尾根を削平して曲輪を造り、
堀切・土塁で固く守った
巨大な戦国の山城です。







山を登っていくと馬場下通路が見えてきました。
この通路は防御上、土橋から見通せないよう
曲がった通路となっています。








馬場曲輪は上下二段の曲輪からなり、
それぞれ石垣が設けれれています。
四阿が建てられ、排水路も見えます。







復元された大手虎口は、石で埋め尽くされた通路。
両側は脇曲輪、その奥が土塁石垣です。







「戦国時代の関東の山城には本格的な
石垣普請の城はない」という
従来の定説が発掘調査で覆されたほど、
多くの石垣が多用されています。







越後の上杉氏や甲斐の武田氏など
名だたる武将たちに攻められましたが、
落城することが一度もなかった
堅固な城だったといいます。







三の丸の下にある「日ノ池」は、出土品から
祭司的な場であったと考えられています。







本丸跡とされている地点に新田神社があります。

別名:新田金山城、太田金山城
種別:山城
築城者:岩松家純
築城年:1469年
主な城主:岩松氏、由良氏、後北条氏

群馬県太田市金山町40-98他

2023.9.19


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日本100名城 今治城

2023-11-20 23:59:19 | 日本100名城



瀬戸内海に面し、「吹揚の浜」と呼ばれた
砂丘地帯に築城の名手として名高い藤堂高虎が、
1602年に築城を開始、約6年の歳月をかけて
ほぼ完成されたという今治城。

武将の像としては珍しく平服姿の騎馬像。
時代を先取りし、平和な時代の城づくりを
考えた高虎に相応しい姿、今治城のシンボル。







海水を取り入れた水堀を曲輪の周囲に巡らせ、
内堀・中堀・外堀の三重の水堀で囲う
広大な城であった今治城は、
日本屈指の海城で、来島海峡の監視基地。







今治城の正門にあたる鉄御門は、
扉や柱に鉄板を使用した
最も堅固は枡形虎口の門で、
格式の高い城にしかない特別な門。







今も満潮時になると堀の北側にある水門から
海水が流れ込むそうですが、
かつて舟入には軍船が出入りできたとか。

別名:吹揚城、美須賀城
種別:平城(海城)
築城者:藤堂高虎
築城年:1602年
主な城主:藤堂氏、松平(久松)氏

愛媛県今治市通町3-1-3

2023.4.28


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