富はどこかから削り落として分け与えられるものではなく、余らなければ分配されない。
分配行為は気まぐれに行われる。気まぐれ度が高いほど、喜ばれる。
バラマキは、思いがけないほどありがたがられる。
ありがたがるのは、思いがけない分配を受けた人たちと、バラマキはけしからんという論評の材料を拾う人たちである。
富の総量が一定であれば、どこかへの分配を増やすには、どこかを削り取らなければならない。
これでいいと思っている人々にわざわざ手を差しのべるには、世界の富の総量が増えていくという前提が必要である。
富が動く方向と、その割合はおおよそ決まっている。
富のほとんどは、積んでも仕方がなさそうなところに向かって集まっていく。
富が向かえばよさそうなところには、ごくわずかの部分しか流れていかない。その方面への流れは、富とは呼べないような形に変わっている。
2000年の歴史のうちに、人類には、富の分配様式のこういう習慣が沁み付いてしまった。
優しい顔をして手を差しのべる数少ない人がいる。差しのべる手には手助けがいる。その手助けは、大勢の弱者の負担でしなければならないように仕組まれている。
手を差しのべる人は、差しのべるだけで自分の手は汚さない。口は出しても手は動かさない。下手に手を動かせば、覇者であり続けなければならない宿命に逆らうことになる。
「2位ではだめなんですか」という間抜けなあの発想は、2位を叩くのが覇者の仕事で、その行為が1位を争うだけでしかないことを見落としたか、あるいは憎く思ったか、そんなところから出たのだろう。
いろいろ考えていたら、奇妙なことが一つわかった。
救いの手になくてはならないものは、それを待つ人だったのである。