何かを知ることと、そのとおりだと認めるかどうかの判断は、異次元のことです。
その次元の散らばり具合は、みながそれぞればらばらなのではなく、これまでに知ったことの集まりの中に、認めるかどうかを両極に置いたいろいろなことがらが詰め込まれているようにも思えます。
中には承認か否認かの極を持たないこともあります。
その極は、知識の塊の中にはいりこむとき、はじめから持っているのではなく、入り込んでから居座るときに極ができるのでしょう。
はじめから極を持ったまま入ってくるのは、その人の知識ではありません。
日本人のなかには、ここ70年の間に、極を持ったまま入ってくるニセの知識を、教えられ信じ込まされてきた人が大勢います。
学校や大学という人間の知識を練り上げる場で、そのお手伝いをしなければならない教師と呼ばれる職に携わる人たちは、はじめから極をはめ込んだ永久磁石型のニセ知識の詰め込み作業に励みながら、望ましい教育という仕事を忘れていました。
これまで日本には、経済力のみ強化させ、ほかのだいじな国力はつけさせないようにする周到な計画のもとに、恐ろしいニセ知識注入が行われてきました。
このまま30年経てば、"百年目"という困ったことわざどおりの時期が到来します。
それまではあっという間で、のほほんとしてはいられません。