毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「8・15の大阪梅田」  2012年8月15日(水) No.414

2012-08-16 10:46:54 | 日記
第二次世界大戦での敗戦から67年経ったこの日、
大阪梅田に出かけた。
ロフトやらジュンク堂、NUCHAYAMACHI(ヌー茶屋町)やらの界隈を歩くと、
今日が「終戦(敗戦)記念日」であることなど、
ま~ったく無関係な『お遊び・お買いものムード』に包まれている。
もし、道行く人にマイクでそーゆー話題を投げかけたら、かなり浮くだろうな…。
中国ではこういう節目の日は、
たとえ話題にしなくても、人々が自覚しているのを肌で感じるのだが。

そうは言っても私だとて、
梅田に出向いたのは終戦記念日の人々を観察するためではない。
友人2人とテアトル梅田に映画を観に行ったんである。
「僕たちのムッシュ=ラザール」
「ディア=ピョンヤン」
「かぞくのくに」
「屋根裏部屋のマリアたち」
「それいけ!アンパンマン よみがえれ バナナ島」
「いわさきちひろ」
など、秀作が目白押しだが、
「ディア=ピョンヤン」はずっと前、十三の七芸で観たし、
「ムッシュ=ラザール」は友人の1人が既に見ていた。
「かぞくのくに」「いわさきちひろ」はどっちかと言うと一人で観たい。
というわけで、
ほのぼのエンタテイメントの
「屋根裏部屋のマリアたち」に決定。
水曜日のサービスDAYで千円なのがめちゃ嬉しい。
1962年のパリが舞台のこの映画、
嫌なシーンがひとっつもない、まさに癒し系映画の代表だった。
悲しいことが胸につかえている人などに
お勧めしたい。
上映室の席は60席なので、立ち見が出るほどの盛況ぶり。
インターネット予約しておいてヨカッタ!

映画の後、ヌー茶屋町界隈のビルの一角で
早い夕食か遅い昼食か、中途半端な時間帯の食事をした。
街の真ん中のおしゃれな店なのに、
いろいろ斬新な食材や美味しいパン盛り合わせなどあって1100円。
その店は若い女性たちであふれていた。

映画¥1000、食事¥1100、電車代¥360。
一つひとつはリーズナブルな値段でも、
毎日この調子でお金を使っていたらどうなるだろう。
年金暮らしも迫りくる自分の将来は、消費一辺倒でいいのか。
そんな気持ちで梅田から帰途についた。





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「ヘンソ―、テンソー、ホーキどれにしますか」  2012年8月14日(火) No.413

2012-08-14 17:32:49 | 日記
そろそろ出発の支度をしなければならない。
江西省南昌市まで送る荷物を郵便局の人に家まで取りに来てもらった。
中国の郵便局と比較すると、月とスッポン、雲泥の差、天国と地獄ほども違う。
ありがたくてたまらないサービスだ。

中国では、自分で郵便局まで持っていくのはまあいいとしても、
せっかくきちんと詰め込んだ中身を全部ひっくり返され、
もう一度自分で入れなおさなければならないと聞いた。
私はまだ送ったことがないのだが、
それを聞いただけでウンザリして、
できれば郵便局など永久に利用したくない気がする。

多くの学生も、中国国内で荷物を送るときは
民間の配送業者に頼む。
「郵便局は信用できません」
と言う。
送ってもとんでもなく日数がかかったり、
連絡を受けてすぐ取りに行っても超過日数のお金を取られたり、
ひどいときには、荷物がどこかに消えて届かないことすらあるという。
私も、すぐに引き取りに行ったにもかかわらず、数元払わされた苦い経験がある。

それを思えば手を合わせたいような日本の郵便局様だ。
それなのに、
なんか今日は<心から感謝>とはいかなかった。
家まで来てくれて、「はい、さようなら」と持っていくまで
時間にして数分。
そんな短時間でもホッコリとした時間にもなるし、逆の場合もある。
今日のひっかかりは業界用語だ。
意味不明のことを如何にも(当然知っているでしょ)といった態度で言われると、
それだけでムカッとくるのが私。

荷物の重量を量り、料金を払った後で、集荷係のその人は早口で、
「あの~、ヘンソー、テンソー、ホーキのどれにしますか」
と聞くので、
「え?戦争放棄?」
とボケると、
「あのですね~、もし荷物が宛先に届かない場合、
返送か転送か放棄かの3つからお選びいただくことになっていますので。」
と言う。
(この人、だめだ。コミュニケーション能力ないわ)と思った。
荷物が送られるとき、不測の事態がないとは言えない。
だから万が一のときの荷物の処置について、
前もって送り主に尋ねるということも必要だろう。
しかし、である。
どうでもいいような荷物を送る人など誰もいない。
送り届けて欲しいから、高いお金を払って委託するのだ。

「送り主にとっては大切な荷物」を預かるという姿勢が、
集荷人の言葉のどこかに少しでも現れていたら
その質問は心にスーっと入っただろう。
淀川郵便局さん、ちょっとザンネンでしたね~。











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「織姫&彦星生活…帰国者の雅子さん」  2012年8月13日(月) No.412

2012-08-13 16:45:47 | 中国帰国者
昨日、雅子さんとお連れ合いのお宅にお招きされて行ってきた。



めちゃ仲良しご夫婦の二人だが、
これほど嬉しそうなのにはわけがある。

彼女の故郷は吉林省長春。
「大地の子」の舞台にもなった。
中国人の連れ合いと結婚したが、
残留孤児のお父さん夫婦が日本に帰国して1年後の1999年に、
夫、4歳の娘とともに日本にやってきた。

他の帰国者同様、彼らもまた言葉の壁、習慣の壁、社会システムの違いに苦しみ続けた。
中国のご両親の介護のため、連れ合いは7年間の日本暮らしの後、
長春に引き上げた。
雅子さんも二度と日本には戻らないつもりで、
夫と行動をともにした。
上の娘、日本で生まれた1歳の下の娘を連れて。
しかし、上の娘が日本に帰りたいと訴え続けるので、
しかたなく雅子さんは娘たちと大阪に戻ってきた。
今から5年前のことだ。

それ以来、
夫は長春、妻と2人の娘は大阪と、家族は引き裂かれてしまった。
QQで夫とチャットなどしても、現実の子育てや生活のやりくりは
全て雅子さんの肩にかかった。
日本で生まれ育った人でも、一人で2人の子育てと仕事探し、
生活の切り盛り全部をやれと言われたら、どれほどのことができるだろうか…。
当時、言葉だけではなく、
日本の社会や習慣に馴染んだとは決して言えない雅子さんは、
たった一人、孤立無援で子どもを守り、
日々の生活と闘うしかなかった。

ちょうどその頃、
私は近畿帰国者支援センターで週末だけ
日本語クラスを受け持っていた。
そのクラスに通っていたのが雅子さんで、
真面目で成績もいいが、
いつもどこか悲しそうで暗いムードを漂わせていた。
一人で中学生の上の娘と3歳の下の娘を育てながら、
ヘルパー1級試験に合格し、パソコンも勉強しているという彼女は、
ある日の休み時間、半分病気のように喋って喋って、私やクラスメイトに
窮状を訴えたことがある。
実は半分病気どころか、その頃の彼女は本当に病気だったそうだ。
せっかく得たヘルパーの職も、その病気のせいで止めざるを得なかった。

上の子の高校受験でも、日本のシステムが分からず、
どれほど困ったことだろう。
その頃、夜何度か電話がかかってきた。
途方に暮れて泣いている彼女からだった。

この写真の笑顔を彼女が取り戻したのは、
彼女自身が持つ、人一倍強い根性と、
そしてやはり、頼りがいのある連れ合いの存在によるものだ。
今、二人は七夕の織姫と彦星のように、
年に一、二度、数週間中国と日本を行ったり来たりしている。
いつかまた、ともに暮らせる日を夢見て…。


おまけと言ってはナンだけど、
お連れ合いの新作中華料理がまたむちゃ美味しい!
下の写真は「ゴーヤと豚ミンチの蒸し物」


これは「三鮮(卵・にら・あと何だった?)揚げ」巨大餃子のような形。
もちろん皮から作る。皮作りのコツ教えてもらったもんね~。


全部手作り料理のラインナップ
彼は中華料理店を経営する夢を持っている(できれば帰国者の仲間たちと)。
実現できたらいいな!













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「日本の若者の感想」  2012年8月11日(土) No.411

2012-08-11 20:32:58 | 中国事情
黄君の日本滞在5日目と、7日目は日本で生まれ育った若者2人にガイドをお願いした。
二人とも、中国の若者との交流を楽しみにしていた。
しかしながら、
何しろ黄くんはまだ18歳で、大学の中でもまだまだ子どもの部類。
同学年でも女の子の方が圧倒的に大人である。

7日目にガイドをしてくれた木村くんは、大学院生のお兄さんということもあり、
小さい子の面倒を見るといった雰囲気が感じられた。
夜、一緒に焼き肉を食べながら黄くんに、
「高校のとき、一番楽しかったことは何?」
と聞くと、
「英語の成績があがったことです」
と答えたのには、その場にいた全員(黄君以外の)が、心中「ヒエ~!」と叫んだだろう。
私ですら、ヘナヘナと力が抜けるのを感じたものだ。

5日目のガイド原田君(大学2年生;黄くんと同学年)が感想をメールで寄してくれたのを
紹介すると、

『黄君を案内したのは 
神社→紀伊國屋→大阪城→ポケモンセンター→予備校の自習室→ヨドバシカメラ 
です。
昼食は定食屋に連れて行ったのですが、日本食はあまりあわなかったようです。

黄君は青空と、紀伊國屋の勉強に関する参考書予備校の自習室が特に気に入っているみたいでした。

お互いに大学のことなどを情報交換できて良かったです。

会話は全て日本語で行いました。2年間しか勉強していないのに相手が理解できるレベルまで到達していたので驚きました。
黄君はゲームを持っていないらしいし、勉強関連のことに興奮していたので、
(勉強が好きなんだな~)と思いました。

4時間半でいろんな所を案内したくて急ぎ足で案内した結果、
1つ1つの場所をじっくり案内することができなかったので、
黄君が満足したかどうかはわかりませんが、
私は中国の学生の生活などの情報が知れて楽しかった です。』


ほんとに、興味も話題も勉強ばかり。かと言って、そんなに深い内容もない。
ひたすら丸暗記。
おそらく3年になってからが、日本文化について少しは深く学べるのだろう。
ちょっと日本に来るのが早過ぎた気がするな。
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「黄くんが帰っていった」  2012年8月10日(金) No.410

2012-08-10 09:12:35 | 中国事情
日本の多くの友人・知人・我が娘のお蔭で実現した、
江西財大「日本語スピーチコンテスト」優勝者の日本招待(7泊8日ホームステイ)。

中国の若者にホンモノの日本を体験してもらいたい一心でやったことだが、
それが昨日終わった。
台風のため、上海浦東空港への便が欠航して、
北京経由上海虹橋空港への代替便に乗ることになった黄くんは、
かなり混乱していたが、
それでも最後は笑顔で出発ゲートに入っていった。

このイベントを振り返ってみると、
ほうら、やっぱり、何回もイライラした自分を発見した。
しかし、苛立ち・腹立ちを含め、感情はたいへん大事なものだ。
特に私は自分に優しいので
腹が立った時は(大人げない)と即座に感情をねじ伏せず、いつも、
(このムカつきの根拠は何か=なぜ苛立つのか、その苛立ちに正当性はあるか)
などと何度も反芻する癖がある。

今回の「黄くん日本招待」は、
中国人と日本人との、さらに、人と人との関係作りの課題を今更に自分に問うことになった。

〈その一〉
・自分の勝手な思い入れ:
農業中心の江西省は中国の中でも貧しい省だ。日本語学科の学生も農村出身が多い。彼女ら、彼らは日本語を学びながらも、日本の現実に触れる機会が非常に少ない。中国国家が許可したインターネット、ドラマ、ニュース等でその一面を知るのみである。国家のスクリーニング抜きに直に日本人や日本社会から何かを感じ、判断して欲しい。そのために自分の給料を拠出するのは無駄遣いではない。この際、お金も含めて精一杯のボランティア活動をしよう。

・中国社会の一般的現実、人々の感じ方:
お金は自分と自分の身内・友人のために使うもの。マンションを2つも3つも持っていても、外車が2台あっても、ボランティアに拠出する金は一元もない。もし、お人好しにも何かに募金しようものなら、困っている人の手に渡ることはまずあり得ない。全部、途中で役人か誰かに盗まれてしまう。募金やボランティアのシステムがないので、心優しい人であっても身内を助ける以上の気持ちが湧くはずはない。日本社会は物が溢れ、豊かである。なんやかや言っても助け合いの制度も充実し、人々は金持ちだ。だから、気軽に募金したりボランティア活動ができるのだ。

こんな気持ちの落差を感じたのは、私ひとりだけではないだろう。
中国帰国者のある人は、
「中国に墓参りするのを楽しみに、長時間労働にも耐え、コツコツ貯金して、精一杯の御土産を持って 『故郷』に帰りました。でも、故郷の人々は、『今度は最高級の電化製品を買ってきてな』などと言うのです。私たちが日本で、どんな思いをして暮らしているのが、全然分からないんです。」
と語ったことがある。

ビンボー人だって、募金もするし、ボランティアもする。お土産も精一杯のものを買う。
それも日本だ。それを主張しなければならない。
(日本人はみんな、金持ちだ)と勘違いされないように。





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「黄君の目に涙」 2012年8月8日(水) No.409

2012-08-08 14:26:19 | 中国事情
外国人にとって異国で生活するとき、まずぶち当たる壁は、
言葉、そして食べ物だろう。
黄君は、大学2年生ながら(9月から3年生)日常会話の基本はマスターしている。
慎重な性格も手伝って始めはあまり話さないが、
慣れてくると普通に話すので、周囲の人々は
「うわ、日本語めちゃ上手やん。だまっているから話せないんかと思っていたわ。」
と驚く。
昨夜は尼崎の我が娘宅で会食したのだが、遊びに来た近所の友達親子のうち、
小学5年生の子は、自然に話す黄君を娘の連れ合い(結婚相手)だと勘違いしていた。

そんな黄君だが、食事では悪戦苦闘している。

二日目の朝、ホームステイ先の一子さん宅では、
一子さんが何日も前からあれこれいろいろ考えて、
白いご飯・みそ汁・焼き魚(鮭)・漬け物・果物・その他、
腕によりをかけて作ってくれた。
しかし、
「何でも食べます」とメールに書いていた黄君の箸は
いっこうに鮭に向かわない。
一子さんは医者から塩分を控えるように言われているので黄君だけのために塩鮭を購入し、いつもよりずいぶん早起きしてせっせと作ってくれたのだ。

「鮭は日本人が最も好きな魚の一つです。生ではありません。
焼いてあるので是非食べてください。」
と私が言うと、生臭いので嫌だと言う。

さて、こういうとき、皆さんならどうするでしょう。
さすが年の功、一子さんは、穏やかにニコニコ笑顔を浮かべて、
「黄君のために作ったんだから、ちょっとでも食べてみてね。」
と優しく言うのであった。
私が
「日本では、わざわざ作ってくれたものを食べないのは失礼です。」
と爆発しそうな心を抑えて、冷静に言えたのは
一子さんの仏様のようなピースフルな微笑のお蔭だ。

もとより黄君に悪気があるわけではない。
クンクンと匂いを嗅いだりしながらも、おっかなびっくりすこおしずつ食べだした。
江西省では、川や池の魚は食べるが、臭みを消すために様々な強烈香辛料を使う。
朝の焼き魚にそれがないので、(生臭い)と感じたようだ。
しかし、頑張って半分は食べた。骨だらけの川魚に慣れているので、
「骨がない!」と驚きの発見もできた。

四日目、スエミ姐さんのところでは、
大阪のおばちゃん達(元教師・現教師が多い)に取り囲まれ、
「あんた!出されたものは全部食べなあかんねんで!」
「わたしらかて、中国に行ったときは、何でも食べたで。
蜂の子どもかてちゃんと食べてんから。」
と、厳しい教育を受けた。

五日目は我が娘、ナオの登場だ。
我々は回転寿司屋に出かけた。
さすがに私は気を遣って、初めから
「黄くんは生ものは無理だから。」
と言ったのだが、ナオは炙りサーモンにレモンをかけて
「これはちょっと焼いてあるからいいんちゃう。レモンもかけたから。」
と彼に差し出した。
(あ、それ半分生(なま)!レモンも江西省人は苦手では!)
と思った時は遅かった。
〈出されたものは食べなければならない。〉
と多くの人々による薫陶を受けた黄君はパクリと炙りサーモンを口に入れ、飲み込んだ。
ゆっくり顔を上げた黄君の目には涙が浮かび、顔中真っ赤になっていた…。
(ああ、可哀そうに。でも、なんでか可笑しくてたまらな~い!)



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「黄くんは、実は子どもだった…」  2012年8月7日(火) No.408

2012-08-07 13:39:05 | 中国事情
今頃になって気が付く私も、超ボンヤリしている。
反応がイマイチ子供っぽいし、知識も意外と狭いので、
(スピーチコンテストで優勝したからと言って、全てに関して優秀なわけではない。
お姉さんが3人もいるので、家族みんなに可愛がられてお坊ちゃまに育ったんだなあ。
それにしても、なんかちょっと…)
と、内心訝ってはいたのだ。

黄くんはずっと自分は20歳だと言っていた。
しかし、日本に来てから急に
「僕は18歳です。」
と言うので、
「はあ?この前は20歳と言ったじゃないですか!
と私が声を大きくすると、
「中国では年齢はみんな数え(かぞえ)で言いますから。」
と言うではないか。
(現実には外国向けに「満」で言ったり国内向けに「数え」で言ったり、バラバラだが)
・・・・・・

これでストンと納得した。
中国式の丸暗記力、集中力においてすぐれている黄君は、
見事に校内スピーチコンテストで優勝したが、
中国の国内事情についてもそんなに詳しくないし、
日本語の幅広い知識も、
さらにコミュニケーション能力も、
3年生の先輩たちに比べて、まだまだだ。
だって、彼は本当に子どもだったのだ。

(なぜ18歳で大学2年生?跳び級制度?)
と思われるだろう。
そうではありません
中国では(省にもよるが)、小学校入学の年齢に幅があるのだ。
一般的には6歳だが、
「共働きなので幼稚園に連れて行くのが無理。」
などと、親の都合で子どもを早めに入学させるケースも結構多いとのこと。
「年上の中に一人入ったら、その子が苦労するんじゃないですか。」
と聞くと、
「5歳の子もたくさんいますから、大丈夫です。」
と言う。
この5歳、6歳というのは数えであるからして、
満で言うと4歳、5歳で入学することになる。
反対に数え年7歳で入学する子も少数ながらいるそうだ。

スピーチコンテストの審査基準を改める必要をヒシヒシと感じた今日この頃。
トホホ…。
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「中国から黄君来訪す」  2012年8月5日(日) No.407

2012-08-05 08:33:09 | 日記
中国江西省の大学生、黄君が8月2日から関西に来ている。
4月はじめの財経大学日本語スピーチコンテストで優勝した彼は、
7泊8日の「日本ホームステイ体験」を手に入れたのだ。

2日はいつものように飛行機が大幅に遅れて(12:30の予定が14:40到着)、
リムジンバスで梅田へ、ヨドバシカメラも新しくなった大阪駅も見せず、
一路阪急で我がぼろマンションに案内し、
一服してホームステイ先の兵庫県川西市の一子さん宅へと移動した。
途中、川西能勢口で和風ラーメンを食べ、能勢電で平野へ、
駅まで一子さんが車で迎えに来てくれてようやく終点!
一子宅に私も一晩ステイした。

初日は電車やバスに乗ってばかりだったが、
関西の多くの庶民を間近に観察できるまたとないチャンスだったと思う。
春に書いた作文のテーマ「中国人はなんでいつも大声で喋るのか」
が、ふうっと頭をよぎったようで、
「日本人はみんな寝ていますね。中国人は乗り物の中では気楽に喋って楽しみます」
と。
なるほど。今回はそのテーマ検証の旅になるかもね。

3日は私と京都巡り。
阪急四条河原町から徒歩で祇園→清水寺へ、
その後バスで銀閣寺、また徒歩で京都大学、出町へと漫遊と言いたいところだが、
35℃はある照り返しの京都を歩くのは難行苦行に等しく、
途中「コクミン」という薬のスーパーで涼んだ。
黄君は、お母さんと3人のお姉さんに顔パックのお土産を買った。
全部韓国製だった。
出町から一つ上がった商店街をぶらぶら西に行くと、
ナント!私が大昔学生の頃年末の餅売りバイトをした店がまだ存在してた!
京都はすごい。条例の所為だろうが、本当に変化が少ない。
近くの王将でラーメン食べて、金閣寺を見て帰った。
実は、
私は京都に8年間住んでいた。
しかし、銀閣寺も金閣寺も全く一度も行ったことはなかった。
金閣寺では、中国人旅行客が辺り憚らぬ声で話していた。
(金閣寺だからまあ、いいか。銀閣寺じゃあ、あまりにもワビサビぶち壊しだけど…)
と思い、黄くんに聞くと、
「一人ぐらいは目立ちませんが、たくさんの人が話すとやっぱりちょっと…」
と境内の雰囲気との違和感を察知した様子。

4日はホームステイ先の一子さん親子が、車で奈良観光に連れて行ってくれた。
暑くて朦朧とし、何も覚えていないとのこと。あああ。

私は、終日自宅にいて、夜はベランダで淀川花火大会を鑑賞した。
一息ついた。

5日の今日はスエミ姐さんの友人葬がある。
黄くんのスケジュールを変更して、スエミねえさんのところへ連れて行く。
彼がどんな感性を持っているか、試しどころだ。

11時梅田で待ち合わせなので、今日のブログは今夜、一子さんちのパソコンを使わせてもらおうかな。
今晩もまた、私も一子宅にお世話になる。


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「『一つの時代が終わった』は言わない」 2012年8月4日(土)No.406

2012-08-04 11:27:34 | 日記
偉大な思想家が亡くなると、よく言われるのが
「昭和が終わった」
「一つの時代が終わった」
などという言葉だ。

しかし、一人の人間の死をもって
一つの時代が終焉したというのは、
残された者の多大な喪失感を表現してはいるのだろうが、
100%本気でそう思ったら間違いではなかろうか。
人の思想や行動は死をもって完結することを前提にしてはいない。
時代もまた同様である。

国家的有名人とまではいかないが
我がスエミ姐さんの生涯を思うと、そう感じた。

「立つ鳥跡を濁さず」の言葉通り、
スエミ姐さんは、いろんなことを整理して旅だった。
しかし同時に、彼女はできる限り普通の生活をし続けた。
これからもずっとこのまま生きていきたいという意思と受け取れる。

さらにスエミ姐さんは
私たちにたいへんなものを残して逝った。
彼女の友人、知人、教え子たちである。
彼女が仲介して知り合い、友人同士になった例は数多い。
歳の差、職場や趣味の違いがあったりすると、
なかなか知り合うチャンスが少ないのが日本社会の常だが、
スエミ姐さんのダイナミックな括りの中で
友情の輪はずいぶん大きく膨らんだ。
その括り方は
「反戦・平和」と「愉快・痛快」
と表現できるのではないかと思う。

この括り方はスエミ姐さんが、
さらに生き続けるだろう友人・知人に託したものだ。
簡単に「ああ、終わった」と言ってはならない。

大思想家の功績についても同様に考えられないだろうか。
一つの時代の偉大な思想は、同時に次の時代への暗示と萌芽を内包している。
引き継ぐ者たちが、
そこから学ぶべきことは多い。
日本民族の清算主義的傾向を戒める意味でも、
「一時代が終わった」
と、簡単に言わないでおこう。
ふと、そう思った。












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「ひとの死に方」 2012年7月31日(火) No.405

2012-08-01 00:00:42 | 日記
スエミ姐さんが乳癌と診断されたのは7年前だった。

「ホントにその時は癌だけにガーンとなったのよ。
連れ合いも私以上に落ち込んでね。
でも、1か月か2か月でどん底は脱したわ。
病気と闘うんじゃなくてね、病気と上手に付き合っていくことにしたわ。」
そう言っていたことを覚えている。

その後、もちろん彼女はボンヤリ手をこまねいていたわけではない。
病気について調べ、人の意見を聞き、複数の医師の診察を受け、できる全てを試したと言える。
それなのに経過は、
恐れていた再発、骨に転移と最悪のパターンを辿ってしまった。


1年前までは、体が言うことを聞く限り、痛みに堪えて反原発デモにも参加していた。
「帰国者の友」の篆刻、パーティーなどのイベントにも、何回も来てくれた。
今年の春は、教え子たちとお花見を楽しみ、
橋下市長による大阪市交響楽団への助成金カットに立腹して
支援コンサートに出かけた。
実にいいコンサートだったと、南昌にメールで知らせてくれた。

しかし今月に入っての著しい体力の消耗は、
傍でもはっきり見て取れたそうだ。
その頃スエミ姐さんは、
最近疎遠になっている友人・知人に電話をかけ、
あちこちにメールを送った。
「記念だから」と、自分の陶芸作品のお皿を家に遊びに来た一人ひとりに包んで渡した。
〈釈明窓〉という法名も作った。
7月8日、久しぶりに大阪の味が食べたいだろうと言って、
中国から帰った私のために家人に車で送ってもらい、
近所のお好み焼き屋さんに(そこは2階なのに!)やってきた。
いつもの、明るく、大阪のジョーク連発のスエミ姐さんだった。

たった一度だけ、
法名を作ったお寺の住職の前で号泣したという。
しかし、そのあと、
「一回ちゃんと泣きたかったの。これですっきりしたわ」
と、いつもの明るいはきはきしたスエミ姐さんに戻った。

死に逝く人は、どうしてこんなに健気なのだろう。

昨年亡くなったもう一人の知人は、
「母のもとに行くことになりました」
と、職場を去って入院し、半年足らずで逝ってしまった。
職場では、てっきり故郷に帰ったと信じただろう。
住居の支払いもきちんと済ませ、
「死んでも友人には連絡しないこと」
と身内に伝えて、ひっそり病院で亡くなったそうだ。

死に逝く人は、どうして何もかも清算しようとするのだろう。
生きている者は、
死んでもその人と繋がりたいと思っているのに。
あんまりカッコよく死なれると、
ときには途方に暮れてしまうものなのに。






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