昨日は暑くもなく寒くもなく風も穏かで、風通しのいい部屋にいればうとうとと眠ってしまいそうな1日でした。
そんな日のすがすがしい朝、祖母が旅立っていきました。
明治41年、1908年生まれで99歳、あと半年、11月で満100歳となる目前でした。数え年だと101歳となります。
お正月の1月3日に入院し、その後状態は良くなり退院、また入院しそしてまたすぐ退院とを繰り返していましたが、連休前あたりに入院してすぐのときもお見舞いにいけばニコニコと応対してくれていました。が、今回はそのままでは家に帰ってきませんでした。
お正月に入院しても退院し、寒かった1月2月を乗り越え、部屋の窓のすぐ横にある大きな桜を今年も眺めることができました。
以前は米作もお茶もみかんも作る農家でした。私が赤ん坊のころには牛も馬も飼っていました。カラスだって飼ってました。(頭がいいから面白いんだって)
桜の木が新緑になり、その桜の隣りにある、みかんの木の花が咲き始めたのを確かめたかのように、その日に逝ってしまいました。
思えば3年ほど前に、「もうダメだろう」という状態で救急車で運ばれ、集中治療室に入ったが、医者曰く「96歳にしては驚異的な回復」と言われて後に退院、そんなピンチをあと2回ほど経験しつつも、「不死身のおばあちゃん」でした。
それでも歳もトシですから、いつかこの日がくるのはわかってはいたし、それもそう遠くないことは理解していたつもりですが、やっぱり・・・
かなり前から耳は遠く、足もよくなかったですが、94歳ぐらいまで畑に出て農作業をしていました。99歳になっても、ボケとか痴呆とか認知症などは一切なく、補聴器と筆談でしっかり会話はできました。
いつもニコニコしてて、入院していても看護士さんに何をしてもらっても、どこで何をしてもされても、必ず最後に「ありがとね」と言える、私たち身内だけでなくヨソのどの人に訊いても、「いいおばあちゃんだねぇ~!」と言われる、世界最高のおばあちゃん。
1世紀を生き抜き、戦争も体験、家は空襲で焼かれ、避難した防空壕にも爆弾が落ちたが不発弾で(これが爆発してたらオレはいなかったことになる)命拾いし、戦後の混乱もその後の減反も乗り越え、大きく日本が変わった1世紀を、本当は苦しいこともたくさんあっただろうけど、いつもニコニコと見つめてきました。
本当は身内の不幸などは公開する日記に書くことじゃないと思うけど、大好きだったおばあちゃんのために書き留めておこうと思いました。
おばあちゃん、ありがとう。安らかに。
そんな日のすがすがしい朝、祖母が旅立っていきました。
明治41年、1908年生まれで99歳、あと半年、11月で満100歳となる目前でした。数え年だと101歳となります。
お正月の1月3日に入院し、その後状態は良くなり退院、また入院しそしてまたすぐ退院とを繰り返していましたが、連休前あたりに入院してすぐのときもお見舞いにいけばニコニコと応対してくれていました。が、今回はそのままでは家に帰ってきませんでした。
お正月に入院しても退院し、寒かった1月2月を乗り越え、部屋の窓のすぐ横にある大きな桜を今年も眺めることができました。
以前は米作もお茶もみかんも作る農家でした。私が赤ん坊のころには牛も馬も飼っていました。カラスだって飼ってました。(頭がいいから面白いんだって)
桜の木が新緑になり、その桜の隣りにある、みかんの木の花が咲き始めたのを確かめたかのように、その日に逝ってしまいました。
思えば3年ほど前に、「もうダメだろう」という状態で救急車で運ばれ、集中治療室に入ったが、医者曰く「96歳にしては驚異的な回復」と言われて後に退院、そんなピンチをあと2回ほど経験しつつも、「不死身のおばあちゃん」でした。
それでも歳もトシですから、いつかこの日がくるのはわかってはいたし、それもそう遠くないことは理解していたつもりですが、やっぱり・・・
かなり前から耳は遠く、足もよくなかったですが、94歳ぐらいまで畑に出て農作業をしていました。99歳になっても、ボケとか痴呆とか認知症などは一切なく、補聴器と筆談でしっかり会話はできました。
いつもニコニコしてて、入院していても看護士さんに何をしてもらっても、どこで何をしてもされても、必ず最後に「ありがとね」と言える、私たち身内だけでなくヨソのどの人に訊いても、「いいおばあちゃんだねぇ~!」と言われる、世界最高のおばあちゃん。
1世紀を生き抜き、戦争も体験、家は空襲で焼かれ、避難した防空壕にも爆弾が落ちたが不発弾で(これが爆発してたらオレはいなかったことになる)命拾いし、戦後の混乱もその後の減反も乗り越え、大きく日本が変わった1世紀を、本当は苦しいこともたくさんあっただろうけど、いつもニコニコと見つめてきました。
本当は身内の不幸などは公開する日記に書くことじゃないと思うけど、大好きだったおばあちゃんのために書き留めておこうと思いました。
おばあちゃん、ありがとう。安らかに。
心中お察し致します。全文をじっくりと拝見させて頂きました。
この100年で世の中変わり過ぎて色々とご苦労されたでしょうに、
明るくお過ごしだったようですね。
一度お会いできれば良い会話が出来たであろうと思います。
おばあさまのご冥福をお祈り致します。
でも、大往生だよね。
いつもニコニコした生涯を送れたこと、一番幸せなことだよね。
仕事も大変な時期だし、
いっとくさんが中心となってしなきゃいけないこともいっぱいだろうから・・・
今は頑張って走ってください。
頑張って走って疲れたら、ゆっくり休んでください。
おばあちゃん・・・安らかに、お眠り下さい
>なべさん
葬儀のときに訊いたら、危篤になったのがこの2年半で7回だったそうで、ホントに不死身のおばあちゃんでしたがやはり100歳のカベは厚かったようです。でもほとんど苦しまずに逝ったとのことです。たいしたものです。
100歳とは言いませんが自分もそうなりたい。
>たかちゅき♪
いつもニコニコしていたことがやっぱり長生きの秘訣かもしれません。いつもニコニコで周りもニコニコ。自分のそんな年寄りになりたいだす。
>ぴか姐
ちょうど忙しいときにおばあちゃんが休みをくれました。今年は親父も亡くなって(おばあちゃんの2日後に入院し1週間で死亡。でもおばあちゃんはその後一旦退院した!)、オレも椎間板ヘルニアになっちゃって散々。厄年に運が良すぎたのがダメだったのかな?
今回は母方なので自分はあまりやることがなくちょっとお手伝いだけでした。
>おキャサ
恐れ入ります。上の姉に聞いたら、あばあちゃんは60代の頃でもリアカーに野菜と姉とカラスを乗せて野菜を売りに歩いていたんだって。かなり元気だったらしい。そういえば裏の池で蓮根も掘っていたなぁ~。
明るく元気だったから人望も厚く、長生きだったんだね。自分がそこへ到達できるかどうかはわからないけど、気持ちだけは前向きに生きていきたいっス。