政治・宗教・野球の話題は、どこで誰から反感を買うかわからず、
危険と言われる。電車内などでするのは御法度である。
ツイッターやミクシィをやってると、それと同等に危険なのが
「仕事とは?」「働くとは?」という議題だとわかる。
実際、この価値観の違いで友人と疎遠になったこともあるし、
ネットで絡まれたこともある。
反対に同じ意見の人と出会うと異様に嬉しく、
大いに盛り上がることができるのもこの話題。
諸刃の剣なのだ。
昨日も
「働かないだけでそんなに悪いのか。働いてるだけでそんなに偉いのか」
とツイートしたところ、ミクシィやFB(連携してある)で盛り上がった。
これは、日本で労働が「労道」となって宗教化してることを物語っている。
それで「異教徒は許さん」、
「労働という宗教行事をおろそかにするヤツはポアしてやる」、
みたいにムキになる輩が出てくるのである。
※「労道」とは、かつての人気ブログ主さんの造語。ちょっと拝借します。
だから日本においては、イスラム教徒とクリスチャンのように、
「働くとは」「仕事とは」の価値観が違う人とは
適度な距離を保ってうまく付き合う必要があるのだろう。
ちなみによくある指摘に対する回答(FAQ)を示しておく。
●日本のインフラを使ってる以上、働かないのはやっぱり悪だ。
→ 「権利を使うなら義務を果たせ」には懐疑的。
権利って義務との交換条件ではない。
権利は、誰にでも当たり前にあるもの。
いつも権利を使わせてくれるから、
たまには義務を果たしてお返しするかな、
くらい気軽でいいと個人的には思う。
まあ、ろくすっぽ義務を果たしてない国や会社が、
国民に義務を強いるのもおかしな話だが(笑)
また、先進国なら国民の1~3割程度が働くだけで、
たぶん社会は維持できる。
労働は働きたい人やエリートに任せて、
それ以外の生き方も認めてもいいと思う。
●権利だからってみんなが使ったら仕事が回らない
→ 当然の権利を使ったら回らないなんて、欠陥社会そのもの。
潔く崩壊させて、一から作り直した方がいい。
そもそも、
「みんなが権利を使えずに社会が回る」とよりは
「みんなが権利を使って社会が回らない」方がマシだと私は思う。
「社会にどれだけ貢献してるか」で人間の価値が決められてしまうのは悲しい。
「社会の奴隷になるために生まれたんじゃない!」みたいな(笑)。
著書にも書いたけど、21世紀になり
「社会にどれだけ貢献したか」から「どれだけ地球に優しく生きたか」
へと世界の価値観が大きく変わってきている気がする。
(↑どさくさ紛れに本の営業です!)
そして、今この社会は、はたして「貢献」するほど価値があるものか?
太古に、自然から受けていただろうストレス。
それを上回るストレスを強いられるようなら、
そんな文明社会に存在価値はない。
人間なんて、欠陥生物&劣等生だ。
「一人(一個体)じゃ生きていけない」
なんていう泣き言を言う生物を、人間以外に私は知らない。
食物連鎖には貢献せず、地球の資源を食い尽くそうとしている。
地球から見れば、役立たずの「寄生虫」だ。
「誰がどれだけ社会に貢献したか」なんて比べ合っても、目くそ鼻くそ。
寄生虫同士でいがみ合うのでなく、
せめて寄生虫なりに、助け合って美しく生きたいものだ