CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明智光秀の妻 熙子(ひろこ)の戒名が聖衆来迎寺の涅槃図裏面に記載

2020年08月12日 03時51分38秒 | 滋賀県情報

表題の記事が8月8日付け神戸新聞朝刊27面に掲載されていました。

憶えのためにブログ記事にして残しておきます。

記事の要旨は下記のとおりです。

大津市歴史博物館は、聖衆来迎寺にある「涅槃図」(1581年寄進)の裏面に、

明智光秀の妻、熙子(ひろこ)の戒名「福月真祐大姉」が供養対象者として

書かれているのを発見したと8月7日に発表した。

熙子の死亡時期は、菩提寺・西教寺(同市)の過去帳に記されている時期(1576年)

の他に、「明智軍記」が「本能寺の変」直後の坂本城(同市)落城の際に自害した

とする82年説もあり、同館の和田光生学芸員は「涅槃図が寄進された81年以前に

死亡したと確認でき、76年死亡説の可能性が高くなった」としている。

 

同館は、光秀とゆかりがある聖衆来迎寺の寺宝を調査。

涅槃図(縦約145センチ、横約135センチ)の裏面に寄進者の名前などが墨で書かれ、

成仏を願う物故者として熙子の戒名があった。寄進日は天正9年(1581)8月と記載。

Gooニュース(中日新聞)でも上記とほぼ同じ内容で報道されていますのでリンクさせていただきます。

 gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/chuplus/region/chuplus-101619

本年(2020)3月3日に西教寺と聖衆来迎寺を訪問しており明智光秀の妻 煕子の墓

の写真などを撮っていますので関連写真を添付しておきます。

上の2枚の写真は大津市西教寺に眠る明智光秀の妻 煕子の墓と現地説明板

天正4年(1576)11月7日寂 戒名は福月真祐大姉

 撮影:2020-3-3

明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、

仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた

光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に

倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合

夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。

光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。

上の写真は西教寺の山門 撮影:2020-3-3

上の写真は聖衆来迎時の山門 撮影:2020-3-3

山門は坂本城から移築されたと伝わっています。

3月3日に明智光秀所縁の場所を10箇所ほど観てきました。

詳細は下のブログで記載しています。

 大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」

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動画で楽しむ大津市の明智光秀ゆかりの場所及び観光スポット

2020年06月01日 04時26分44秒 | 滋賀県情報

大河ドラマ「麒麟がくる」大津市観光振興協議会は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて
外出を自粛している人に旅行気分を味わってもらうため、動画「大津市×明智光秀 ゆかりのスポット」
をWebサイト「びわ湖大津・光秀大博覧会」で2020年5月12日に公開されました。

本ブログではこの動画をGooで共有させて頂くとともに明智光秀関連及び大津市の観光スポット
をテーマにyoutube動画を集め共有させていただきました。 

 

#お家で旅行気分『大津市×明智光秀 ゆかりのスポットをご紹介』

明智光秀ゆかりの地巡り~坂本城址界隈~

戦国浪漫 古都大津【坂本城・大津城・膳所城】~戦国武将ゆかりの城跡~

大津京物語

三井寺  Onjo-ji Temple (Mii-dera)

比叡山延暦寺  Hieizan Enryaku-ji Temple

日吉大社  Hiyoshi Taisha Shrine

 

私が散策してきた場所を紹介します。

 

大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その16(最終回) 石山寺

 

上記のブログ記事に含まれていません近江神宮の写真を紹介します。

上の2枚の写真が近江神宮を代表する建物 撮影:2020-3-3

上の写真は近江神宮内の古代火時計の展示と説明パネル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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滋賀県彦根市龍潭寺への訪問記 on 2020-1-9

2020年05月09日 05時50分05秒 | 滋賀県情報

2020年5月4日、NHKBSテレビ「火野正平のこころ旅 2014年4月の再放送 滋賀県

を視聴していた時に彦根市の龍潭寺でお見合いをしたお寺の庭園が忘れられません

という手紙があった。そこで龍潭寺の訪問をテーマにブログを書くことにしました。

龍潭寺への訪問日は2020年1月9日です。

尚、1月9日に見て回った場所は下記のブログで纏めています。

 彦根散策記 on 2020-1-9

龍潭寺の基本情報

住所:彦根市古沢町1104  TEL:0749-22-2777 愛称:だるま寺、庭の寺

宗派:臨済宗妙心寺派 山号:弘徳山 御本尊:釈迦如来 

庭園拝観:9:00~16:00 拝観料:大人400円 小中学生150円

創建:慶長5年(1600) 井伊直政と昊天(こうてん)宗建

 

上の写真は上述の番組で紹介されていた彦根市龍潭寺の庭の光景です。

2020-1-9の訪問時は拝観しなかったの貴重な一枚です。

以下Wikipediaで解説された庭の説明書きです。

佐和山を借景にした方丈南庭「ふだらくの庭」は枯山水庭園、書院東庭「蓬莱池泉庭」は池泉鑑賞式庭園であり、共に開山・昊天宗建の作庭によるものである。他にも書院北庭「露地庭(ろじてい)」もある。 
龍潭寺には禅宗の大学寮が併設されており、その中に造園を学ぶ園頭科(えんずか)があった。その生徒が実習として作成した庭も残っている。

下記のサイトには庭園の写真が多くあり実際に行った気分が味わえます

 https://garden-guide.jp/spot.php?i=shiga_ryotanji

上の写真は彦根市指定文化財に指定されている庭園(東庭)と方丈襖絵の説明板

上の写真は龍潭寺への入り口です。

上の2枚の写真は石田三成公の銅像と説明板

上の写真は山門

中に入ると苔が生えた境内で歴史を感じる禅寺です。

肝心の仏殿(本堂)や方丈、書院の写真はありません。

NHK大河「女城主 直虎」が放映されていた頃は参拝者も多かったと思われますが

私が訪問した折はひっそりとしていました。

Wikipediaより龍潭寺の概要を引用紹介します。

龍潭寺は、天平5年(733)遠江国引佐郡(現・静岡県浜松市北区引佐町)に

行基によって開かれたと伝えられる。平安時代中期一条天皇のころに井伊共保が

ここで葬られたことから、井伊氏の菩提寺となった。禅宗寺院となったのは

室町時代末期井伊直平の代のようである。 慶長5年(1600年)に井伊直政が

近江国佐和山城に転封となると、龍潭寺の五世昊天宗建禅師を当地に招いて

遠江国から分寺して建立したのがこの寺である。

 

上の写真は境内の観音お告げ七福神。藍渓和尚伝来の七福神の実物も拝観できるようです。

上の写真は大洞観音堂

こちらの右手から墓所を通り抜け山道を登っていくと佐和山城跡に到達します。

当日は佐和山城跡には行かなかった。

上の写真は観音堂裏手の墓地。

墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母(富の方)の墓や、直弼の側室であった

里和の文塚が残っているようですが確認できず。

上の写真は鐘楼

上の写真は庫裡?

上の写真は仏足石

上の2枚の写真は境内のお地蔵様

上の2枚の写真は東海道線の車窓から見える佐和山城跡の看板と龍潭寺周辺図

龍潭寺に隣接している清涼寺は井伊直政以降の歴代藩主の菩提寺であり立派な堂宇

があり見ごたえのあるお寺です。

 

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彦根城からの眺望

2020年05月06日 04時35分36秒 | 滋賀県情報

一昨日(2020-5-4)、NHKBSテレビ「火野正平のこころ旅 2014年4月の再放送

滋賀県」を視聴していた時に彦根城からの眺望が忘れられませんという手紙が

あった。そこで彦根城からの眺望をテーマにブログを書くことにしました。

彦根城への訪問日は2020年1月9日です。

上の2枚の写真は天守閣最上階の展示パネルの写真で

西北から東北方面を撮ったものです。

上の写真は天守閣入り口付近に掲示の展望図

上の写真は私が撮影した西北方面の眺望

上の写真は東側の眺望 JR彦根駅など彦根市の中心街の眺望

上の写真は佐和山を中心にした眺望

上の写真は山の中腹の大洞弁財天(長寿院)を中心に撮った眺望

長寿院には野猿が居ついていたことを思い出しました。

上の3枚の写真は色々な角度から撮った彦根城天守閣(国宝)

 

Wikipediaより彦根城の概要と歴史(江戸・明治時代)を引用紹介します。

概要
江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の

拠点として築かれた平山城(標高50m)である。
山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも

呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。 
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。
天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定

されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、
国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に

稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が

保存されることとなったのだという。 
天守が国宝指定された5城(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)の一つに

数えられる。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の

世界遺産暫定リストに掲載されたものの、
近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。 
滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である。 

歴史・沿革

江戸時代
 
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、

その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、
西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」
と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城で

あったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に

居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、
1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、

直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、

1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。 
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)

が手伝いを命じられる天下普請であった。
1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。
この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中

では最高となる35万石を得るに至った。 
なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、

月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。
徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり

本来の目的とは違った使われ方をしていた。
西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、主な機能は

政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。 
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。 
幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。
その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。 

明治時代
 
明治に入り、各地の城は廃城令で破壊・売却されていった。
彦根城の天守閣は明治元年に700円で落札され解体される寸前で、明治11年10月に

明治天皇が巡幸で彦根を通過した折、城の保存を命じたため破却を逃れたという。

その際、天皇に保存を奏上したのは、巡幸に随行していた大隈重信という説と、
天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)という説とがある。 

 

彦根散策記 on 2020-1-9のブログへのリンク

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/2ebb8abfddb5b4c863ef640cba2214cd

 

 

 

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坂本城の発掘調査

2020年04月10日 04時32分27秒 | 滋賀県情報

2020年1月24日 9:30付けの朝日新聞DEGITALで坂本城跡の発掘調査が実施され

その結果「三の丸の推定値から城の遺構は見つからず水晶などの玉作り、石造品

の加工をしていたと推定される人達の作業場や住居と思われる建物礎石や井戸跡

などが発掘された」と大津市教育委員会文化財保護課から1月23日に発表された。

上記の記事が報道されました。

上の写真は上述の朝日新聞が作成した発掘調査の場所と坂本城の縄張り

現地説明会は1月25日に実施されました。

現地説明会資料は下記のとおり。

https://www.city.otsu.lg.jp/material/files/group/67/r2sakamoto.pdf 

 

上記の説明会資料より過去の発掘調査の場所と坂本城の縄張り(推定)

について一部加工して添付しておきます。

坂本城は元亀2年(1571)比叡山の焼き討ちのあと、織田信長に命じられて明智光秀

が建てた城です。光秀は比叡山焼き討ちの功労として近江国滋賀郡が与えられた。

坂本城は天正8年(1580)に改築されたが天正10年(1582)の本能寺の変の後、

炎上したが、同年に丹羽長秀が羽柴秀吉の命により坂本城は再建された。

天正11年(1583)杉原家次が城主となり、同年浅野長政(長吉)が城主となった。

天正14年(1586)浅野長政が棄城し、大津城に移転するまで存在した。

上記のように坂本城はわずか15年しか存在しなかった。

 

2020年3月3日に大津市の坂本を訪問して下記のブログ(10回シリーズ)を作成しています。

この中で第1回に坂本城本丸跡について書きました。

このブログも参照していただければ幸いです。

 

大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」

 

 

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その10(最終回) 光秀の菩提寺「西教寺」

2020年04月01日 04時56分40秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第10回で西教寺を紹介します。今回で最終回とします。

西教寺は聖徳太子が創建したと伝わる天台真盛宗の総本山で、明智光秀の供養塔や

妻の煕子の墓がある明智家ゆかりの菩提寺です。

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

第7回 石積みの郷公園

第8回 盛安寺

第9回 宇佐山城跡と宇佐八幡宮

 

西教寺の基本情報

住所:大津市坂本5丁目13-1 TEL:077-578-0013

宗派:天台真盛宗(総本山 末寺400余り) 山号:戒光山 御本尊:阿弥陀如来

創建:聖徳太子がその恩師高麗の僧彗慈・恵聴のために創建(伝承)

中興:元享4年(1324)慈恵大師良源、恵心僧都源信が念仏道場とした

再興:文明18年(1486)真盛上人が西教寺に入寺 堂塔と教法を再興

   元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちで焼失した伽藍は明智光秀、紀州徳川家

   により再興、天正18年(1590)京都の法勝寺を合併

公式サイト:http://saikyoji.org/

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

光秀の供養塔とその一族の墓

上の写真は坂本城主明智日向守光秀の供養塔とその一族の墓

総門(坂本城遺構)

上の写真は西教寺の総門(坂本城遺構)

この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと言われています。

昭和59年(1984)に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのままの姿で復元。

光秀の妻煕子の墓

明智光秀は煕子(ひろこ)が存命中は側室を置くことなく三男四女をもうけ、

仲むつまじく暮らしていたと伝わっています。石山本願寺攻めで、病に倒れた

光秀を、煕子は坂本城で懸命に看病しました。光秀が回復すると今度は煕子が病に

倒れ、坂本城で亡くなりました。葬儀は西教寺で行われ、当時、妻が先に死んだ場合

夫は参列しないのが慣わしでしたが光秀は葬儀に参列したといわれています。

光秀の愛妻家の一面が判るエピソードとして西教寺で語り継がれています。

明智光秀公の辞世の句

戦死者への供養米寄進

明智光秀は元亀4年(1573)5月24日、堅田城に拠った本願寺光佐を討った時(2/19)、

戦死した侍大将から足軽までの18人の家臣に対して平等に米禄を西教寺に寄進しています。

明智光秀が家臣を重んじる優しい性格であったことを示すエピソードとして

TVなどでも紹介されています。今回は下記のyoutube動画での紹介を添付。

その時歴史が動いた 明智光秀の真実~心優しき武将~

境内の見どころ

(1)本堂と客殿

本堂は、江戸時代の1739年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています

客殿は、大谷吉継の母らの寄進により、1598年に建てられたもので、同じく国の重要文化財です

客殿は淀城から移築とも言われています。

(2)御廟(宗祖真盛上人廟)

(3)客殿庭園

こちらの庭園を観るためには500円の拝観料を払って大本坊(庫裡)から客殿に入場する必要があります。

(4)宗祖大師殿

 

ここからの琵琶湖方面の眺めは抜群でお勧めスポットです。

(5)勅使門と寺標石柱

(6)萬日法会の石碑

字数の関係で、写真を略します。18回までの石碑が並んでいます。

19回目の法会は令和3年(2021)の11月2日~8日に挙行される予定です

 

もう少し書き足りない部分もありますが、字数30,000字以内の制限からこの辺で筆を止めます

最後に境内図を添付しておきます。

このシリーズもやっと最終回まで書き終えてほっとしています。

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その9 宇佐山城跡と宇佐八幡宮

2020年03月31日 04時42分34秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第9回で宇佐山城跡と宇佐八幡宮を紹介します。

宇佐山城は琵琶湖の南西、近江国と山城国を隔てる比叡山塊の南に位置する標高336mの

宇佐山山頂に築かれた山城です。宇佐山城は織田信長が森可成に命じて築かせた城で、

森可成の死後の元亀2年(1571)に明智光秀が入城し、「比叡山焼き討ち」の拠点とした城です。

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

第7回 石積みの郷公園

第8回 盛安寺

 

宇佐山城跡

宇佐山城の文献上の初見は、奈良・興福寺の僧である多聞院英俊が記した『多聞院日記』で、
永禄13年(1570)3月20日の稿に、「信長が配下の森可成に命じて宇佐山に築城させ、
江南と京都を結ぶ道路を封鎖した」と記されています。4月23日に元亀に改元。

元亀元年(1570)9月16日から同年12月17日までの志賀の陣で戦場の一つとなった場所である。

上の写真は宇佐八幡宮下の宇佐山城址への入り口

上の写真は地元の志賀小学校が山上の主郭(本丸)に至る道に道しるべを作成しています。

赤いリボンなどもつけられていました。

しかしながら、当日は単独行動で何か異変があってはいけないので自重し登坂を途中で中止しました。

山城探索の好きな人達が詳しく山頂までの紹介をされていますのでリンクさせて頂きます。

 https://signboard.exblog.jp/28885263/

 https://www.jiji.com/jc/v4?id=usayama010001

 https://ameblo.jp/danhaya/entry-12373755522.html

上の写真は京阪南滋賀駅付近から臨む宇佐山 頂上(本丸跡)にはNHK、民放のアンテナが

建っているそうです。

 

宇佐八幡宮

住所:大津市神宮町13 御祭神:八幡大神(応神天皇)

創建:治暦元年(1065) By 源頼義

Goo地図を添付しておきます。

 

 

外観遠景

上の写真は正面からみた宇佐八幡宮

上の写真は側面からみた宇佐八幡宮

御足形

上の写真は御足形の神域。説明書によれば錦織郷に居を構えていた源頼義

(源頼朝の5代前)が八幡宮を創建せんと検分の時この岩の上に神鳩が現れ頼義公を

建立の地に導いた。依って治暦元年(1065)宇佐八幡宮が建立された。

金殿井

上の写真は天智天皇(626-672)が病気を癒したとの伝承がある霊泉で

1,351年前、中臣之金によって発見されたことから金殿井と呼ばれています。

境内の紹介をもう少し詳しくしたいのですが30,000字の制限からこの辺で終えます

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その8 盛安寺

2020年03月27日 05時07分28秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第8回で盛安寺を紹介します。
盛安寺は明智光秀が祈願所として使用した寺で別名は明智寺とも呼ばれていた。

供養塔や陣太鼓が残る西教寺の末寺です。

 

シリーズ過去の記事:

第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園
 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

第7回 石積みの郷公園

 

盛安寺の基本情報

住所:大津市坂本1-17-1 TEL:077-578-2002

宗派:天台真盛宗 山号:瑞應山 院号:法王院 御本尊:阿弥陀如来坐像

霊場:湖国十一面観音菩薩霊場 第二番、びわ湖百八霊場湖西 第七番

創建:宗祖真盛上人(1443-1495)により創建

再建:文明18年(1486)越前朝倉氏の家臣である杉若盛安(すぎわかせいあん)が再建

   盛安寺は杉若盛安の名前に由来

再興:比叡山の焼き討ちで焼失明智光秀により再興

  

明智光秀の供養塔

灯篭の左側の小さな五輪塔が明智光秀の供養塔

本堂には位牌「秀岳宗光大居士 霊位」天正10年6月14日があります。

盛安寺の説明書き

盛安寺は穴太の里「高穴穂宮跡」(成務天皇の宮)のあるところで天智天皇も勅願で

創建された崇福寺の遺物でもあります。

太鼓楼

この太鼓楼の中に明智公陣太鼓があります。元亀・天正年間前期(1570-1575)の

ある夜「暁の鼓」を打って坂本城に敵の急襲を知らせたものとされ、その恩賞として

明智光秀より「庄田八石」(太鼓田)を与えられた。

上の写真は山門付近から撮った太鼓楼の遠景

 

本堂

本堂はと棟札より慶安5年(1652)に建立された。

平成5年(1993)に大津市の指定文化財に指定されています。

客殿(国重文)

 

客殿の写真を撮れなかったので案内リーフレットの境内図を添付

客殿は伏見城の遺材で建てられたと伝えられています。

建築年代は不詳ですが西教寺の客殿や聖衆来迎寺の客殿との比較から17世紀前半と

推定されています。平成5年(1993)8月に国の重要文化財(建造物)に指定。

殿内には障壁襖絵(長谷川宗圓の屏風とともに)には桃山期の狩野派の壮麗な

絵巻が観られます。前庭も見どころだそうです。

 

穴太衆積み石垣

鐘楼

観音堂

 

 

庫裡

 

収蔵庫

十一面観音立像(国重文)

十一面観音像の拝観は5、6、10月の毎土曜日とGW、正月3ヶ日のみ

井上靖の小説「星と祭り」や白洲正子の「十一面観音巡礼」で取り上げられています

この十一面観音は延暦寺開山の伝教大師(最澄)の師範行表の作

明智光秀ゆかりの地巡り~盛安寺~

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その7 石積みの郷公園 

2020年03月23日 05時37分08秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第7回で石積みの郷公園を紹介します。

元亀2年(1571)の比叡山の焼き討ちの時に打ち鳴らされた鐘や穴太衆の

石垣を紹介する公園でJR湖西線の比叡山坂本駅のすぐそばにあります。


シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園

 明智光秀の略年譜を掲載

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

第6回 聖衆来迎寺

石積みの郷公園の住所は大津市坂本7丁目32−22

Goo地図を添付しておきます。

 

 

生源寺の破れ鐘

右奥に見えている鐘楼の中の鐘は最澄の生まれた生願寺から移設されたもので通称「破れ鐘」

と呼ばれています。織田信長による比叡山焼き討ちの際に、危を告げるために釣鐘を打ち鳴らし

続けたところ、ひび割れたと言われるのが「破(わ)れ鐘」です。

生源寺は、京阪坂本駅の近くに所在する寺院で、境内には最澄の産湯の水を汲んだ井戸が

残されていることから、最澄の生誕地と伝わっています。

 

穴太衆の石垣

 

関連ブログ

 比叡山延暦寺と坂本 訪問記 on 2017-10-10~1017-10-12 その5 穴太衆積み石垣

延暦寺の門前町の坂本では古くから穴太衆が住み石垣を築く技術を伝承し

高い技術があった。明智光秀はこの技術を城の石垣づくりに活用した。

 

若き日の最澄像

 

公園の遠景

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大津市坂本 明智光秀の所縁の場所訪問記 on 2020-3-3 その6 聖衆来迎寺

2020年03月22日 05時00分25秒 | 滋賀県情報

2020年3月3日、大津市坂本で明智光秀の所縁の場所を訪ね歩きました。
本日はその第6回で聖衆来迎寺を紹介します。

坂本城から移築された山門や森蘭丸の父親の森可成の墓があります。

森可成(よしなり)は宇佐山城主で織田信長に敵対する浅井・朝倉軍に対峙防戦

しましたが比叡山の僧兵が浅井・朝倉方についたこともあり戦死しました。


シリーズ過去の記事:
第1回 坂本城本丸跡

第2回 明智光秀像と坂本城跡公園

第3回 東南寺

第4回 坂本城址の石碑

第5回 明智塚

 

聖衆来迎寺の基本情報

住所:大津市比叡辻2-4-17 TEL:077-578-0222

宗派:天台宗 山号:紫雲山 御本尊:阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の三仏

創建:延暦9年(790)最澄により開山 創建当時は地蔵教院

改称:長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

中興:大永7年(1527)真玄(近江守護六角高頼の五男の高信)により中興

Goo地図を添付しておきます。

  

表門(国重文)

上の2枚の写真は山門の中景と遠景

表門は、明智光秀が築城した坂本城の城門を移築したとの寺伝がありましたが、

平成21年(2009)~23年(2011)に行われた解体修理により、櫓門の二階部分を

取り除き一階部分の上に本瓦葺の屋根を載せたと考えられるとのこと。

使われた工具の加工痕が坂本城築城の年代と一致すること、聖衆来迎寺と明智光秀

との深い繋がりがあったことから、坂本城の城門を移築したことがほぼ明らかに・・・

 

説明板

書かれている内容を要約すると

聖衆来迎寺は延暦9年(790)伝教大師(最澄)が開創、 創建当時は地蔵教院

長保3年(1001)源信(恵心僧都)がこの寺に入り改称、念仏道場として再興

国の重要文化財である本殿、客殿、開山堂、明智光秀が築城した旧坂本城門の

表門、森可成の墓など、歴史とのかかわりのの深い寺である。

寺標

森可成の墓

上の2枚の写真は森可成の墓の正面と側面

この墓があったおかげで信長の比叡山焼き討ちの難を逃れた。

したがってこの寺には多くの文化財が残され近江の正倉院と呼ばれることも・・・

元亀元年(1570)の志賀の陣で浅井・朝倉連合軍に対して奮戦したが森可成は

討ち死にした。Wikipediaより森可成の最期についての記述を引用紹介します。

可成の最期については記録に次の様に書き残されている。
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、
九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、
織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。 
討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に
釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。
宇佐山城も家臣の各務元正、肥田直勝などが奮戦、落城を免れた。
後日、2人は信長から賞賛を賜った。

森可成の首は密かに聖衆来迎寺の住職により運ばれ荼毘に伏された。

この事象により信長は比叡山焼き討ちの対象にしなかったと推察されています。

森可成(もりよしなり)は大永3年(1523)、森可行の子として
尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれます。
美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の
天文23年(1554)には尾張国で織田信長に仕えました。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力した生涯でした。
織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、美濃衆として活動。
槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手でした。
武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇ったとも。
数多くの武勇伝が伝わっていますが、
信長の上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てて
非常に多くの文書を発給しており、
織田家の重臣として政務にも大きく関わっていたと推測できます。

子宝に恵まれ、生まれた六男三女とも正室えいとの間の子供であり、
愛妻家であったそうです。
<子供>
男子:
可隆(手筒山城攻めで討死・享年19初陣)
長可(小牧・長久手合戦で即死享年27)
蘭丸(成利)(本能寺の変で討死享年18)
坊丸(長隆)(本能寺の変で討死享年17)
力丸(長氏)(本能寺の変で討死享年15)
忠政(美作津山藩初代藩主)
女子:
娘(青木秀重室)
娘・うめ(木下勝俊室)
娘・碧松院(関成政室)

 

織田秀信の母・寿々(鈴姫)の墓

織田秀信は信長の孫(幼名は三法師)

寿々姫=鈴姫(徳寿院)は織田信忠の側室で塩川長満の娘の他に森可成の娘、

武田信玄の娘(松姫)という説もあり

寿々姫の法名は「徳寿院殿繁林恵昌大姉」

本堂(国重文)

上の写真は本殿の遠景

開山堂(国重文)

客殿(国重文)

 

 

境内社

鐘楼

石仏

本坊

放生池

境内の石造品(宝篋印塔、宝塔など)

見応えのある寺の境内であった。

国宝に指定されている絹本著色六道絵 15幅(鎌倉時代)をはじめ数多くの重要文化財

を所蔵。文化財は、毎年8月16日に虫干しされ公開される。絵画、工芸品等の大部分は、

平素は京都国立博物館やびわ湖文化館などに寄託されている。

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