CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

しゅう翼団団長品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の死

2016年06月20日 04時41分24秒 | 岩国情報

しゅう翼団団長品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の死

 

上の写真は長州藩の品川清兵衛

上の写真は彦根藩の竹原七郎平

 上の写真は当時使用されていた大砲

上の写真はミニエー銃
命中率が高い

上の写真はゲーベル銃

彦根戦死士之墓



慶応二年(一八六六)六月十四日未明、第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番

(つかいばん)竹原七郎平は、従者二名と共に先陣を切って小瀬川を渡ろうとしましたが

長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。


異境に死んだ三士の遺骨はしゅう翼団隊長 品川清兵衛によって、その勇を称える碑文と

共に当寺=安禅寺に手厚く葬られました。

和木町教育委員会
(案内板より)

安禅寺の基本情報

住所:山口県玖珂郡和木町和木1-6-18

宗派:曹洞宗 山号:大瀧山(大滝山) 創建:元弘年間(1331年~1333年)

寺院名の推移:創建時は天台宗黙養寺と称していた。
       応永5年(1398)に臨済宗法昌寺と改称するが兵火で断絶。
       吉川氏が岩国に国替えになった頃、曹洞宗に改められた。

Goo地図はこちら


詳細は下記ブログ

 

曹洞宗大瀧山安禅寺---和木町

 

 

 

 

 


慶応2年(1866)5月28日、幕府は長州藩へ宣戦布告。
小瀬川を隔てて大竹側は幕府軍対岸に長州軍が相対した。
慶応二年(1866)6月14日の朝その日の小瀬川は霧が深く、
第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊使番竹原七郎平は、
従者二名と共に先陣をきって小瀬川に渡ろうとしましたが、
長州軍(しゅう翼団)の銃火を浴びて河中に倒れました。
異郷に死んだ三士の遺骨は、長州の品川清兵衛によって、
その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られました。
墓所は大瀧山安禅寺(曹洞宗)境内(和木町)にあります。


封境之地

和木町は山口県の最東端に位置しており小瀬川をはさみ、
数々のドラマが繰り返された。
第2次長州征伐(長州側からは四境の役)慶応2年(1866)
    注)四境=芸州口、大島口、石州口、小倉口
6月7日大島口幕府軍の軍艦が周防大島を砲撃し開戦となった
6月14日に芸州口、6月16日に石州口6月17日に小倉口で
戦いが始まりました。
芸州口の戦いで長州軍は彦根藩及び高田藩に対して人数の上では
劣勢であったが、慶応元年(1865)長崎のグラバー氏よりミニエー
銃4,100丁、ゲーベル銃3,000丁を購入し参戦した。
これが四境の役で幕府を退けた最大の要因となった。
芸州口での長州軍は岩国、柳井、玖珂の5代官所で養成された
2,000人の民兵で彦根・高田の幕府軍と約2ヶ月にわたる戦争で
幕府軍に小瀬川を渡らせることなく、将軍家茂の死も重なり幕府は
長州と和睦をせざるを得ない状況となった。
この戦争は明治維新という新しい歴史を開いた回天の戦いであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第百三国立銀行跡

2015年12月15日 06時39分10秒 | 岩国情報

明治11年(1878)横山の旧家老職であった吉川十郎兵衛の
屋敷を半分購入して百三銀行は開業した。
場所は香川家長屋門の隣。
明治27年(1952)岩国本町2丁目斎宮屋へ移転この時は
神戸に百三銀行の本店は移転岩国支店となった。
尚、国立銀行は明治5年(1872)国立銀行条例により
全国に次々と設立されている。

2015年12月15日追記
読者の方からの貴重なコメントで上に掲載した写真は吉川十郎兵衛の屋敷跡で
第百三国立銀行跡地ではありません。

岩国藩の5人の家老職筆頭の屋敷跡は屋根の崩壊などにより、2011年3月に解体
され現在(2015-12-15)は更地になっています。

更地には岩国市教育委員会が吉川十郎兵衛の屋敷跡の説明版を設置されている
ようです。

詳細は下記サイト http://nisikigawa.exblog.jp/16182098

正しい第百三国立銀行跡地は下の写真の現在個人宅のようです。
 Googleストリートビューより(2013年5月撮影)




また、第百三国立銀行の設立は明治11年(1878)10月23日 に
岩国第百三国立銀行設立免許(12月2日開業)との情報も得ました。
 出典:渋沢栄一社史データベース 山口銀行史((1968年9月)


同じくGoogleストリートビューより(2013年5月撮影)香川家長屋門側からの写真
を添付しておきます。


参照サイト:http://www.tanso-an.jp/sub4.html
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お初地蔵と舛屋---由宇町

2010年08月02日 07時18分06秒 | 岩国情報
お初地蔵
由宇川にかかる
 千歳橋の南詰めに祀られている「お初地蔵」(写真)について紹介します。
 舛屋(山中家)にお初という近隣に聞こえた美女がおりお初が橋の守りの
 地蔵様に似ているところからお初地蔵になったという説がありますが
 縁起ははっきりしていません。
 8月23日には縁者や僧侶を招いて供養や盆踊りも行われていた。
 地蔵の台座には明和8年(1771)6月吉日と刻まれている。

由宇小学校のイベントで由宇の街を歩き勉強する会をされているようです。
 平成17年度

平成20年度
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三士誠忠の碑----岩国市横山

2010年05月17日 10時31分59秒 | 岩国情報
標題の碑は吉香神社の西側に位置(日本庭園の入口)にあります。
明治維新の際に必死組(総督:東崇一 参謀:栗栖天山)を組織し
活躍した東沢寫、栗栖天山、南部五竹の三士の誠忠の
履歴が書かれている。

Wikipediaによれば
「東沢瀉、栗栖天山、南部五竹を岩国では三士と称する。
彼らの活躍を後世に伝えるべく、明治25年(1892年)藩公および
旧藩有志により、吉香神社境内に三士誠忠之碑が建立された。」
とあります。
さらに東沢瀉について同じくWikipediaより引用しますと
「東 沢瀉(ひがし たくしゃ、天保3年10月9日(1832年11月1日)
- 明治24年(1891年)3月28日)は、日本の武士・儒学者(陽明学)
・岩国藩士。名を正純、通称崇一郎、号は白沙、沢瀉。沢瀉の号は、
明治になってから用いている。
天保3年(1832年)10月9日、周防国岩国錦見に生まれる。
藩校養老館では、大草馨堂、南部五竹と並んで学内の三博士と称せられた。
その後、江戸に出て佐藤一斎らに陽明学を学ぶ。
文久3年(1863年)3月、養老館の助教に任用されるが、朱子学中心の
学風と合わず、1年で辞任した。岩国藩の佐幕的姿勢に満足せず、
尊王攘夷を唱えて必死組を組織し、栗栖天山や南部五竹らと共に
兵制改革を進める。結果、岩国藩に精義隊(必死組より改名)・
日新隊・建尚隊・敬威隊の四隊が編成されることとなった。
しかし、精義隊隊士の粗暴な行動が問題になり、沢瀉と天山が
責任をとって自首、慶応2年(1866年)11月17日、両名は柱島へ
流罪となる。天山はまもなく柱島を脱出、後自決する。
沢瀉はそのまま柱島に留まり、明治2年(1869年)秋、戊辰戦争での
精義隊の活躍もあり赦された。

明治3年(1870年)10月、号を白沙から沢瀉に改め保津村に沢瀉塾
を開き、明治17年(1884年)までの14年間、後進の教育に尽くした。
現在も保津に記念館がある。

保津の記念館に関する小生作成のWebサイト1

岩国の偉人東沢瀉の像と偉業について小生作成のBlog
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄海丸---由宇嶋谷汽船

2008年11月02日 07時39分03秒 | 岩国情報

写真は由宇の嶋谷汽船が昭和14年(1939)に三井造船に
建造させた玄海丸です。
朝鮮-北海道-大連の定期航路で活躍した船です。
この船も戦争で多くの方が亡くなったことを知り、とても戦争の恐ろしさ
を感じました。
2度と戦争の悲劇を起こさないようにしたいものである。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第6潜水艇浮上せず

2007年04月02日 04時43分48秒 | 岩国情報
第6潜水艇は第7潜水艇とともに明治39年(1906)、川崎造船所で我が国で初めて建造された。
明治43年(1910)4月15日、山口県岩国市新港沖で訓練中、事故のため沈没した。

佐久間艦長以下14名は沈没前日の4月14日宮島から新港まで2時間30分にわたる潜航をして
第6潜水艇は新港に停泊し岩国の錦帯橋周辺の散策を楽しんだらしい。

潜水艦は水上では内燃機関(当時はガソリン)、水中では蓄電池で行動する。
水中では蓄電池の電力で小さい為3ノット程度で3時間で電池が無くなり
航行不能となる。

6号艇はガソリン潜航の訓練をしていた。半潜航しながら通風筒から空気をとり
機関を動かすことで高速(水上と同じ8ノット)を得ようとするもの。
しかし、深度が難しく、潜りすぎると水が浸入し危険である。

6号艇の場合も通風筒から海水が入った。佐久間艇長はいろいろアクションを
とったが、大量の水が艇内に入り艇は沈下した。


佐久間艇長はメインタンク排水を命じたが、侵入した水の方がタンク内の
水より多く、浮上しなかった。
乗員は代わるがわる手動ポンプで復旧に努めたが浮上することはなかった

このような状況下で佐久間勉艦長は下記の遺書を書いた。


艇長の遺書 
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申シ訳ナシ、
サレド艇員一同、死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲショセリ
 
我レ等ハ国家ノ為メニ斃(倒)レシト雖(いえど)モ唯唯(ただただ)

遺憾トスル所ハ 天下ノ士ハ之(これ)ヲ誤リ以(もっ)テ将来潜水艇

ノ発展ニ 打撃ヲ与フルニを至ラザルヤヲ憂フルニアリ希(願)クハ
諸君益々勉励以テ比(こ)ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ

盡(尽)クサレン事ヲ サスレバ我等一モ 遺憾トスルトコロナシ

上記の他に 沈没の原因とその対策。今後艇の改善を要する諸点などが
記されている。12時40分との記載で終わっている。
下の図は第6艇の沈没場所である。


慰霊碑(下の写真)


原文はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菖蒲まつり in 岩国吉香公園

2006年06月11日 14時53分52秒 | 岩国情報
梅雨の合間のつかの間の晴れ間日曜日久し振りに
吉香公園に出掛け、菖蒲を観賞した。
アップの写真を載せておきます。
詳細情報はこちら
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天狗岩と東正堂先生筆の碑文

2006年05月23日 05時30分35秒 | 岩国情報

通津地区の本呂尾(初代藩主吉川広家公が隠居していたところ)
より畑に向かって行くと通津川の沿道の左手に標題の天狗岩と
東正堂先生筆の碑文がある。
天狗岩には鬼の手と言われる穴がありこれは「陶晴賢と大内氏
の戦いの時大内氏が米を隠したものである」との言い伝えが
ある。
碑文の内容は渓流の自然と人との関わりを詠んだものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉香公園での野外ライブ

2006年05月22日 05時47分33秒 | 岩国情報
先週の日曜日(5/14)吉香公園にある城山喫茶店で
カレーライスの昼食を食べていた時、標題のライブの音
が聞こえてきたので、食後見に行った。
場所は吉香公園の噴水の近くの特設ステージで曲目は
「花の首飾り」「すみれ色の恋?」など懐かしいグループ
サウンドの曲であった。
当日は五月晴れで暑かったので木陰にて楽しませて戴いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日米フレンドシップデー続報

2006年05月19日 06時06分09秒 | 岩国情報

毎年5月5日に行われる日米フレンドシップデーに今年も
行くことが出来ました。
これで3年連続観る事が出来ました。

詳しい見学記はこちら(1)

詳細(2)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする