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近世儒学の父 藤原惺窩の生誕地及び下冷泉家菩提寺大雄寺訪問記 in 三木市細川町 on 2014-10-30

2014年11月03日 16時39分28秒 | 神戸市以外の兵庫県
2014年10月30日、近世儒学(朱子学)の開祖として著名な藤原惺窩の生誕地
を訪問しましたので写真紹介します。

藤原惺窩の生誕地の所在地:兵庫県三木市細川町桃津
細川村桃津は室町時代に冷泉政為がこの地に屋敷を構えたことにより村が形成された。
桃津の由来は口吉川町桃坂から桃を運んだのが川の渡しを使ったことから名付けられた


Goo地図はこちら
  




うえの写真は県道20号線(加古川・三田線)から藤原惺窩生誕地及び大雄寺への入り口
に建つ大雄寺の石碑と美蓑川に架かる冷泉橋。


うえの写真は藤原惺窩まつりの幟(のぼり)藤原惺窩生誕地までの沿道にいっぱい
建てられています。
今年も藤原惺窩の遺徳を偲び藤原惺窩まつりが11月9日(日)9:30~開催される予定です。
問い合わせ先は細川町公民館 0794-86-2059

藤原惺窩奉賛会の活動の1つで今年で39回目になるそうです。
細川町公民館でも藤原惺窩の年表や功績を記した展示が行われるようです。
藤原惺窩まつり三十周年記念誌 著者: 藤原惺窩先生奉讃会
さらに藤原惺窩祭20年周年の記念誌も藤原惺窩先生奉賛会から出版されています。


うえの写真は下冷泉家菩提寺大雄寺(下冷泉家菩提寺)の本堂。

大雄寺の基本情報

住所:三木市細川町桃津531-1  TEL:07948-6-2661
宗派:曹洞宗   山号:桃嶽山



うえの写真は佐々木清茂氏が大雄寺境内に平成15年に奉納した十三重塔


上の写真は大雄寺境内の古い墓石のある墓所です。
多分冷泉家の由緒ある墓があると思っているが詳細が調査できず不明。


上の写真は墓所にある15年戦争(太平洋戦争)で戦死された方々が眠る墓
細川町からも多くの犠牲者が出たと思われます。
墓所の中に桃楠家という珍しい家名もありました。


上の写真は大雄寺から観た細川町桃津付近の遠景です。


上の写真は本日の主題の藤原惺窩先生の銅像です。
この銅像の建つ地は細川館(細川城とも)と呼ばれていた場所です。

平安時代からの荘園の一つ細川荘は歌道の名門:藤原家ゆかりの荘園で千載集の
撰者として有名な歌人・藤原俊成が 歌所の所領として朝廷より賜わりそれを
子孫を伝えたという。
13世紀の始め俊成の子で百人一首の撰者で歌道の祖と云われる 藤原定家の支配下
にあり、 他にも三木市志染や揖保郡新宮町にも荘園をもって支配していました。
定家の後:荘園領地争いが続きますが、南北朝期の冷泉家は冷泉為尹の長男の
冷泉為之の上冷泉家と二男 の持為の下冷泉家に判れ、応仁の乱以後には持為の子
・政為が細川荘に移り住んだとされます。


上記の説明は現地の説明書きの中にあった下冷泉家の家系図を見ると理解
できます。(下に添付)




上の写真は藤原惺窩像の側面の説明書きです。

ここで藤原惺窩の簡単な紹介をしておきたいと思います。
(Wikipediaの情報に追記して作成)

藤原惺窩(せいか)(1561~1619)
永禄4年(1561)1月24日(新暦換算では1561年2月8日)生まれ 
元和5年(1619)9月12日(新暦換算では1619年10月19日)没
安土桃山~江戸前期の儒学者(朱子学者)
名を粛(すすむ)、あざ名を斂夫(れんぶ)といい、惺窩は号である。
他に柴立子、北肉山人、昨木山人の号があり、時には東海狂波子、
惺々子、妙寿などと称している
永禄四年(1561)播磨国三木郡細川村(兵庫県三木市細川町桃津)で藤原為純の
三男として生まれる。長男は為勝、他の兄弟は六条俊久、為将
また惺窩は藤原定家の十一世孫にもあたる。七歳にして仏門に入り播州龍野、
景雲寺で学ぶ。仏門での名前は宗舜。
藤原惺窩が18歳の時、父為純及び長男の為勝が三木城主別所長治
に急襲され戦死したため、叔父にあたる相国寺塔頭普広院第八世住職の清叔寿泉
(天正四年 1576没)を頼って母親・弟・妹とともに上洛、
当時の玉龍庵(現玉龍院)第五世住職文鳳宗韶(元亀三年1572没)の弟子となり、
口蕣(不詳)と名のる。また字を文華という。
首座となって妙寿院(不詳)に起居す。当時の相国寺住職は九十一世仁如集尭
(在位1544~1574)、九十二世西笑承兌(在位1585~1607)であった。
公家の家内伝統的な学問に比べ、中国の文化・思想を取り入れた禅学は惺窩に
とって新鮮に感じられたのであろう。
恐らくは西笑承兌からも禅学を学んだと推測される。特に西笑承兌は豊臣秀吉や
徳川家康のブレーンの一人として知られ、幕府の諸法度や外交文書の起草、
学問奨励策や寺社行政の立案、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
天正18年(1590、朝鮮から3人の使者がやってきたが、この時に宗舜に
命じて大徳寺で使者との筆話をやらせた。惺窩が仏道を捨て儒学に道を
求めたのは、この時からである。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、捕虜として連れられてきた朝鮮の儒学者姜
(きょうこう、カン・ハン、Gang Hang、1567年5月17日 - 1618年5月6日)から
伏見で朱子学の基本を学んだ藤原惺窩の朱子学の体系化に大きな感化を受けた。
惺窩は文禄2年(1593)12月、江戸に赴き、豊臣政権の重鎮だった徳川家康に
帝王学の書「貞観政要じょうがんせいよう」を講義している。
家康には2,000石で仕官することを要請されたが辞退し、門弟の林羅山を推挙。
門弟には林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の惺門四天王他多数。
紀州城主の浅野幸長、保津川の土木工事で知られる角倉了意もその一人。
林羅山は徳川幕府の庇護を受け明治維新まで儒学の中心学派として存続。
後年帰洛後,市原(京都市左京区静市市原町(北市原第二児童公園内)の山荘に
隠棲した惺窩はそれまで五山の禅僧の間での教養の一部であった儒学を体系化し
て京学派として独立させた。日本における朱子学の祖と呼ばれる。

実家の下冷泉家は、播磨において戦国大名の別所氏に攻められ没落したため、
弟の為将を新たな当主に擁立し、下冷泉家の再興に尽力した。
自身は下冷泉家の当主の座には就かなかったが、息子の為景は当主となった


京都で藤原惺窩に所縁の場所を紹介したサイト(京都Navi)にリンクさせていただきます。

http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=3&ManageCode=1000085

カンハンについての詳細
姜は朝鮮朱子学を大成した李退渓(りたいけい)の学統を受け継ぐ朱子学者

 http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/11-1.htm


上の写真は細川城跡の遠景





上の写真は現地の説明板。(藤原惺窩先生奉賛会が作製)







現地には藤原惺窩先生の銅像の他に石碑や下冷泉家を供養する墓又は供養塔がいくつか見られる。

三木市の遊学サロン二水会の例会で藤原惺窩に関する講演会があるようなので
開催要項を記載しておきます。

日時:平成26年11月21日(金)10:00~12:00
場所:三木市立教育センター(市役所前駐車場南西)
主題:藤原惺窩ー三木が生んだ日本思想史上の巨人ー
講師:鈴木幸治氏(思想史家)
後援:三木市 三木市教育委員会























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