2016年10月5日から7日まで2泊3日で奈良市と明日香村を散策し、
これまでに下記のブログを作成してきました。
明日香村の稲渕地区の棚田 on 2016-10-7
飛鳥川の飛び石(石橋) on 2016-10-7
明日香村祝戸地区にあるマラ石 on 2016-10-7
明日香村の飛鳥稲淵宮殿跡 on 2016-10-7
奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華でのディナー on 2016-10-5
伝 飛鳥板蓋宮跡(乙巳の変の舞台)と蘇我入鹿の首塚 on 2016-10-6
明日香村 cafe ことだまでのランチ on 2016-10-6
まだ紹介していない箇所がいくつかありますので追加紹介していきます。
追加版の1回目で西大寺、2回目で秋篠寺、3回目で志津香でのランチ
4回目で春日神社、5回目で宇奈多理座高御魂神社、6回目で東院庭園、
第7回 造酒司の井戸、第8回 宮内省推定地、第9回内裏の井戸
第10回第2次大極殿跡と朝堂院跡、第11回キトラ古墳壁画体験館 四神の館
第12回 岡寺、第13回 飛鳥寺、第14回 飛鳥水落遺跡、
第15回 酒船石遺跡 第16回 岩屋山古墳 第17回 許世都比古命神社
を紹介してきました。
第1回 西大寺 on 2016-10-5
第2回 秋篠寺 on 2016-10-5
第3回 志津香 公園店での釜飯のランチ on 2016-10-5
第4回 春日大社 on 2016-10-5
第5回 宇奈多理坐高御魂神社 on 2016-10-5
第6回 平城宮跡の東院庭園 on 2016-10-5
第7回 平城宮跡の造酒司の井戸
第8回 平城宮跡の宮内省推定地
第9回 平城宮跡 内裏の井戸 on 2016-10-5
第10回 平城宮跡 第2次大極殿跡と朝堂院跡 on 2016-10-5
第11回 キトラ古墳壁画体験館 四神の館 on 2016-10-6
第12回 岡寺 on 2016-10-6
第13回 日本最古の大寺院 飛鳥寺 on 2016-10-6
第14回 飛鳥水落遺跡 on 2016-10-6 天智天皇は水時計で民や役人を管理しようとした?
第15回 酒船石遺跡 on 2016-10-7
第16回 岩屋山古墳 on 2016-10-7
第17回 許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ) on 2016-10-7
今回(第18回)は2016年10月7日に訪問した飛鳥池工房遺跡を写真紹介します。
Wikipediaの解説文(一部加筆)を引用させていただきます。
1991年に飛鳥池の埋立工事に伴う事前調査で遺跡の存在が確認され、1997年から
大規模な発掘調査が開始された。調査の結果、遺跡は谷筋に沿って南北230m以上に
わたり、南側に工房・北側に関連する官衙とみられる施設の遺構跡が発見された。
工房の遺構から、それぞれの工房ごとに金銀銅鉄などの金属加工、ガラス・水晶・
琥珀などの玉類加工、更に漆器や瓦・鼈甲細工など業種別に配置された。
総数300以上の炉を有した当時としては屈指の規模の工房跡であることが判明した。
更に出土した木簡などから天武・持統天皇期(7世紀後期)から8世紀にかけての
遺跡であることも確認された。特にそのうちのある工房からは富本銭の未成品560点
および鋳型・鋳棹など鋳銭関連の出土品が発見されたことから、708年に発行の
和同開珎以前に鋳造貨幣があったことが確認され、その位置づけについても議論が
行われた。見つかった木簡の中でも「天皇聚露弘■■」(■■は文字不明)と書かれた
木簡は現在確認されている中で「天皇」と書かれたもっとも古い史料である
上の3枚の写真は奈良県立万葉文化館の2つの建物の間の復元遺跡の展示。
実物の遺構はこの表面の地下約4mのところに保存されています。
上の写真は飛鳥池工房遺跡現地説明板
飛鳥池工房遺跡の名称は江戸時代に築かれた溜池「飛鳥池」の下にあることによる。
平成9年(1997)に奈良県が「万葉ミュージアム」の建設を計画し、それに先立つ
発掘調査が同11年(1999)まで奈良国立文化財研究所によって行われた。
この調査により重要な知見を得られたため、奈良県では万葉ミュージアムの設計変更等
を行い、遺跡の保全が行われているとのこと。
万葉文化館は建設反対運動もあったが平成11年(1999)10月5日に着工
平成13年(2001)9月15日に開館した。
次に平成11年(1999)1月に発掘が公表された富本銭の話題に移ります。
まずは毎日新聞の記事より
飛鳥池遺跡で国内最古の貨幣出土 (1999年1月20日毎日新聞 )
「奈良県明日香村の工房遺跡・飛鳥池遺跡(7世紀後半~8世紀初め)で、「富夲(本)(ふほん)」の文字がある銅銭
「富本七曜銭(富本銭)」とその破片33点が見つかった。19日発表した
奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、7世紀後半の地層から
出土しており、和銅元(708)年鋳造で日本初の本格的な貨幣とされる和同開珎
(わどうかいちん)より古い、最古の鋳造貨幣としている。
古代史の定説を覆し、日本史の教科書を書き換える第一級の発見で、貨幣史、
古代経済史などの研究に大きな影響を与えそうだ。昨年8月、同遺跡中央部で
見つかった7世紀後半の瓦窯付近から出土。6点がほぽ完形をとどめている。
平均の直径は2.44cm、厚さ約1.5mm、重さ4.25~4.59g。
中央に約76mm四方の穴があり、上下に「富夲」の文字、左右に陰陽と
木火土金水を表した七つの点が描かれている。瓦窯より古い地層から見つかり、
同じ場所から「丁亥(ていがい)年」(687年)と書かれた木簡が出土して
いることから、7世紀後半に作られたのは確実という。表面に気泡があったり、
ひびが入った不良品。鋳造の際、数枚をつないでいた「鋳樟(いざお)」1点
も見つかっており、当時の「造幣局」で鋳造されたものの、使われないまま
捨てられたらしい。富本銭はこれまで、同県の奈良市、大和郡山市、橿原市
などの平城京跡、藤原京跡(西二坊坊間路・桜井市大福遺跡出土)と、
難波宮付近で計5点が出土。和同開珎と同時期の貨幣という見方もあったが、
和同開珎以降の官銭「皇朝十二銭」に含まれないため、まじない用の記念貨幣、
厭勝銭(ようしょうせん)(「えんしょうせん」ともいう)とされていた。
松村恵司・考古第2調査室長は、日本書紀の天武12(683)年の記述に
「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、富本銭はこの銅銭と考えられる。
皇朝十二銭に含まれないという理由だけで、厭勝銭とするのは不自然。当時の中国
の貨幣「開元通宝」に形状や重量が近い。成分が、藤原京など過去に出土した
ものに近く、流通した形跡がある、などから、日本最古の鋳造貨幣としている。
富本銭は、奈良県橿原市木之本町の同調査部展示室で1999年1月25日~
2月10日の午前9時~午後4時半(土、日休館)まで展示。入場料無料。
近鉄大阪線耳成駅から南に徒歩約20分。」
日本書記には天武天皇12年(683)「今より以後必ず銅銭を用いよ。銀銭を
用いることなかれ」という詔が出されたことが記載されておりこの時期に
日本に銅製の貨幣が流通していたことが伺える。
上記の富本銭が発掘されたことで708年に発行の和同開珎より古い貨幣が
存在したことが証明された。
天武天皇の後継者で妻の持統天皇はさらに694年に初めて鋳銭司を任じて
おり貨幣制度を導入した天武天皇の政策を引き継いでいます。
平成11年(1999)の発表では33枚の富本銭が見つかり富本の文字が確認
できたのは6枚であった。
富本の名前は後漢(25-220)の光武帝(劉秀)が前漢時代の貨幣制度を再構築
した際に「富国(民)の本は食貨(食事と貨幣の意味)に在り」という文言
が用いられたという故事による。
上記の毎日新聞記事で富本銭が日本最古の流通貨幣という新説が有力なったが
今なお、まじない用の厭勝銭(えんしょうせん)とする説も残っており最終結論
には至っていない。
上記の新聞記事で皇朝十二銭という言葉がでているので詳説 日本史図録第2版
山川出版社(2008)のPage51より畜銭叙位令とともに添付します。
畜銭叙位令は711年に出されたもので一定量の銭貨を蓄えると、それと引き換えに
朝廷から位階が与えられる制度である。これにより、人々に銭貨の価値を認識
させることができたが近畿を除く地域では依然として物々交換経済が一般的で、
皇朝十二銭の流通範囲は最後まで限定的なものであった。
上の2枚の写真は万葉文化館に展示の新聞記事
これまでに下記のブログを作成してきました。
明日香村の稲渕地区の棚田 on 2016-10-7
飛鳥川の飛び石(石橋) on 2016-10-7
明日香村祝戸地区にあるマラ石 on 2016-10-7
明日香村の飛鳥稲淵宮殿跡 on 2016-10-7
奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華でのディナー on 2016-10-5
伝 飛鳥板蓋宮跡(乙巳の変の舞台)と蘇我入鹿の首塚 on 2016-10-6
明日香村 cafe ことだまでのランチ on 2016-10-6
まだ紹介していない箇所がいくつかありますので追加紹介していきます。
追加版の1回目で西大寺、2回目で秋篠寺、3回目で志津香でのランチ
4回目で春日神社、5回目で宇奈多理座高御魂神社、6回目で東院庭園、
第7回 造酒司の井戸、第8回 宮内省推定地、第9回内裏の井戸
第10回第2次大極殿跡と朝堂院跡、第11回キトラ古墳壁画体験館 四神の館
第12回 岡寺、第13回 飛鳥寺、第14回 飛鳥水落遺跡、
第15回 酒船石遺跡 第16回 岩屋山古墳 第17回 許世都比古命神社
を紹介してきました。
第1回 西大寺 on 2016-10-5
第2回 秋篠寺 on 2016-10-5
第3回 志津香 公園店での釜飯のランチ on 2016-10-5
第4回 春日大社 on 2016-10-5
第5回 宇奈多理坐高御魂神社 on 2016-10-5
第6回 平城宮跡の東院庭園 on 2016-10-5
第7回 平城宮跡の造酒司の井戸
第8回 平城宮跡の宮内省推定地
第9回 平城宮跡 内裏の井戸 on 2016-10-5
第10回 平城宮跡 第2次大極殿跡と朝堂院跡 on 2016-10-5
第11回 キトラ古墳壁画体験館 四神の館 on 2016-10-6
第12回 岡寺 on 2016-10-6
第13回 日本最古の大寺院 飛鳥寺 on 2016-10-6
第14回 飛鳥水落遺跡 on 2016-10-6 天智天皇は水時計で民や役人を管理しようとした?
第15回 酒船石遺跡 on 2016-10-7
第16回 岩屋山古墳 on 2016-10-7
第17回 許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ) on 2016-10-7
今回(第18回)は2016年10月7日に訪問した飛鳥池工房遺跡を写真紹介します。
Wikipediaの解説文(一部加筆)を引用させていただきます。
1991年に飛鳥池の埋立工事に伴う事前調査で遺跡の存在が確認され、1997年から
大規模な発掘調査が開始された。調査の結果、遺跡は谷筋に沿って南北230m以上に
わたり、南側に工房・北側に関連する官衙とみられる施設の遺構跡が発見された。
工房の遺構から、それぞれの工房ごとに金銀銅鉄などの金属加工、ガラス・水晶・
琥珀などの玉類加工、更に漆器や瓦・鼈甲細工など業種別に配置された。
総数300以上の炉を有した当時としては屈指の規模の工房跡であることが判明した。
更に出土した木簡などから天武・持統天皇期(7世紀後期)から8世紀にかけての
遺跡であることも確認された。特にそのうちのある工房からは富本銭の未成品560点
および鋳型・鋳棹など鋳銭関連の出土品が発見されたことから、708年に発行の
和同開珎以前に鋳造貨幣があったことが確認され、その位置づけについても議論が
行われた。見つかった木簡の中でも「天皇聚露弘■■」(■■は文字不明)と書かれた
木簡は現在確認されている中で「天皇」と書かれたもっとも古い史料である
上の3枚の写真は奈良県立万葉文化館の2つの建物の間の復元遺跡の展示。
実物の遺構はこの表面の地下約4mのところに保存されています。
上の写真は飛鳥池工房遺跡現地説明板
飛鳥池工房遺跡の名称は江戸時代に築かれた溜池「飛鳥池」の下にあることによる。
平成9年(1997)に奈良県が「万葉ミュージアム」の建設を計画し、それに先立つ
発掘調査が同11年(1999)まで奈良国立文化財研究所によって行われた。
この調査により重要な知見を得られたため、奈良県では万葉ミュージアムの設計変更等
を行い、遺跡の保全が行われているとのこと。
万葉文化館は建設反対運動もあったが平成11年(1999)10月5日に着工
平成13年(2001)9月15日に開館した。
次に平成11年(1999)1月に発掘が公表された富本銭の話題に移ります。
まずは毎日新聞の記事より
飛鳥池遺跡で国内最古の貨幣出土 (1999年1月20日毎日新聞 )
「奈良県明日香村の工房遺跡・飛鳥池遺跡(7世紀後半~8世紀初め)で、「富夲(本)(ふほん)」の文字がある銅銭
「富本七曜銭(富本銭)」とその破片33点が見つかった。19日発表した
奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、7世紀後半の地層から
出土しており、和銅元(708)年鋳造で日本初の本格的な貨幣とされる和同開珎
(わどうかいちん)より古い、最古の鋳造貨幣としている。
古代史の定説を覆し、日本史の教科書を書き換える第一級の発見で、貨幣史、
古代経済史などの研究に大きな影響を与えそうだ。昨年8月、同遺跡中央部で
見つかった7世紀後半の瓦窯付近から出土。6点がほぽ完形をとどめている。
平均の直径は2.44cm、厚さ約1.5mm、重さ4.25~4.59g。
中央に約76mm四方の穴があり、上下に「富夲」の文字、左右に陰陽と
木火土金水を表した七つの点が描かれている。瓦窯より古い地層から見つかり、
同じ場所から「丁亥(ていがい)年」(687年)と書かれた木簡が出土して
いることから、7世紀後半に作られたのは確実という。表面に気泡があったり、
ひびが入った不良品。鋳造の際、数枚をつないでいた「鋳樟(いざお)」1点
も見つかっており、当時の「造幣局」で鋳造されたものの、使われないまま
捨てられたらしい。富本銭はこれまで、同県の奈良市、大和郡山市、橿原市
などの平城京跡、藤原京跡(西二坊坊間路・桜井市大福遺跡出土)と、
難波宮付近で計5点が出土。和同開珎と同時期の貨幣という見方もあったが、
和同開珎以降の官銭「皇朝十二銭」に含まれないため、まじない用の記念貨幣、
厭勝銭(ようしょうせん)(「えんしょうせん」ともいう)とされていた。
松村恵司・考古第2調査室長は、日本書紀の天武12(683)年の記述に
「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、富本銭はこの銅銭と考えられる。
皇朝十二銭に含まれないという理由だけで、厭勝銭とするのは不自然。当時の中国
の貨幣「開元通宝」に形状や重量が近い。成分が、藤原京など過去に出土した
ものに近く、流通した形跡がある、などから、日本最古の鋳造貨幣としている。
富本銭は、奈良県橿原市木之本町の同調査部展示室で1999年1月25日~
2月10日の午前9時~午後4時半(土、日休館)まで展示。入場料無料。
近鉄大阪線耳成駅から南に徒歩約20分。」
日本書記には天武天皇12年(683)「今より以後必ず銅銭を用いよ。銀銭を
用いることなかれ」という詔が出されたことが記載されておりこの時期に
日本に銅製の貨幣が流通していたことが伺える。
上記の富本銭が発掘されたことで708年に発行の和同開珎より古い貨幣が
存在したことが証明された。
天武天皇の後継者で妻の持統天皇はさらに694年に初めて鋳銭司を任じて
おり貨幣制度を導入した天武天皇の政策を引き継いでいます。
平成11年(1999)の発表では33枚の富本銭が見つかり富本の文字が確認
できたのは6枚であった。
富本の名前は後漢(25-220)の光武帝(劉秀)が前漢時代の貨幣制度を再構築
した際に「富国(民)の本は食貨(食事と貨幣の意味)に在り」という文言
が用いられたという故事による。
上記の毎日新聞記事で富本銭が日本最古の流通貨幣という新説が有力なったが
今なお、まじない用の厭勝銭(えんしょうせん)とする説も残っており最終結論
には至っていない。
上記の新聞記事で皇朝十二銭という言葉がでているので詳説 日本史図録第2版
山川出版社(2008)のPage51より畜銭叙位令とともに添付します。
畜銭叙位令は711年に出されたもので一定量の銭貨を蓄えると、それと引き換えに
朝廷から位階が与えられる制度である。これにより、人々に銭貨の価値を認識
させることができたが近畿を除く地域では依然として物々交換経済が一般的で、
皇朝十二銭の流通範囲は最後まで限定的なものであった。
上の2枚の写真は万葉文化館に展示の新聞記事