大坂-神戸間の鉄道が開通し仮の営業を開始したのは明治7年(1874)5月のことだが
当初、神戸停車場があるので三宮停車場の設置は必要なしというのが当局の考えであったが
局長の井上勝氏に対して居留地周辺の将来性を考え神戸市街地のもう1か所停車場を建設
すべきと関戸由義が進言したことにより三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)は
開業当初より開設された。
時を経て踏切の閉鎖による交通の停滞を解消するために高架線が検討された。
大正10年(1921)12月13日鉄道省から都市計画神戸地方委員会に届いた諮問では、
貨物線新設、高架式工事と共に三宮停車場を加納町踏切付近に移転すると明記されていた。
このため旧三宮停車場(現在の元町駅)が閉鎖これに伴い停車場周辺地は衰退した。
旧三ノ宮駅復活に立ち上がったのは駅の南側に医院を開き神戸財産区の区長を務めていた
出水仁吾である。彼は昭和6年(1931)11月17日に駅の再開を求め神戸中央振興同盟会
を結成し鉄道本省に陳情活動をした結果、昭和8年(1933)6月5日大坂鉄道局から通知
がきて、新駅設置資金5万2千4百円のうち3万4千2百円の寄付があれば設置を承認
するという内容であった。
出水仁吾らは寄付活動に奔走し3か月後の9月5日には寄付金を納入できたのである。
新駅の工事が進められ元町駅は昭和9年(1934)7月20日に開業に漕ぎ着けた。
上の2枚の写真は開業当時の元町駅
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page74&79
上の写真は元町駅開設謝意広告 昭和9年7月21日付又新日報
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page78
当初、神戸停車場があるので三宮停車場の設置は必要なしというのが当局の考えであったが
局長の井上勝氏に対して居留地周辺の将来性を考え神戸市街地のもう1か所停車場を建設
すべきと関戸由義が進言したことにより三宮停車場(現在の元町駅の場所にあった)は
開業当初より開設された。
時を経て踏切の閉鎖による交通の停滞を解消するために高架線が検討された。
大正10年(1921)12月13日鉄道省から都市計画神戸地方委員会に届いた諮問では、
貨物線新設、高架式工事と共に三宮停車場を加納町踏切付近に移転すると明記されていた。
このため旧三宮停車場(現在の元町駅)が閉鎖これに伴い停車場周辺地は衰退した。
旧三ノ宮駅復活に立ち上がったのは駅の南側に医院を開き神戸財産区の区長を務めていた
出水仁吾である。彼は昭和6年(1931)11月17日に駅の再開を求め神戸中央振興同盟会
を結成し鉄道本省に陳情活動をした結果、昭和8年(1933)6月5日大坂鉄道局から通知
がきて、新駅設置資金5万2千4百円のうち3万4千2百円の寄付があれば設置を承認
するという内容であった。
出水仁吾らは寄付活動に奔走し3か月後の9月5日には寄付金を納入できたのである。
新駅の工事が進められ元町駅は昭和9年(1934)7月20日に開業に漕ぎ着けた。
上の2枚の写真は開業当時の元町駅
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page74&79
上の写真は元町駅開設謝意広告 昭和9年7月21日付又新日報
出典:神戸元町商店街連合会「神戸の良さが元町に」(2014)Page78