2019年1月20日から1泊2日で赤穂に来ていました。その時に寄った
JR西日本日生駅の前にある駅前公園で与謝野晶子の歌碑を見つけましたので
写真紹介します。
上の写真は歌碑の全景です。
上の写真は歌碑の歌の部分で国立公園ひなせ諸島のあとに
「妻恋ひの 鹿海こゆる話聞き それかと見れば 沖の鶴島」と書かれています。
上の写真は歌碑の説明書きです。
「与謝野晶子先生之歌碑
昭和8年6月、与謝野鉄幹・晶子御夫妻は、正宗敦夫氏らと共に、日生諸島での
舟遊びに興じ、その美しい景観に心をうたれ、心情を数首の歌に託された。
書は与謝野晶子先生の御令孫、与謝野馨(衆議院科学技術委員長)によるものである。
平成二年五月吉日 日生町」
与謝野晶子についてWikipediaより引用紹介します。
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 -
1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の
「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・
甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女
として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から
疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)
に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、
「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、
露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、
1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の
関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)
を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人
出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で
始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに
行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の
序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を
開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた
(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が
組まれた[5]。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスの
マルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、
ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著
『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、
女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともに
お茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を
成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の
職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらって
いたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、
残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動と
エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。
同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。
戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。
与謝野晶子の生家跡が堺市にあり訪問記を書いていますのでリンクしておきます。
堺散策 その8 与謝野晶子生家跡
JR西日本日生駅の前にある駅前公園で与謝野晶子の歌碑を見つけましたので
写真紹介します。
上の写真は歌碑の全景です。
上の写真は歌碑の歌の部分で国立公園ひなせ諸島のあとに
「妻恋ひの 鹿海こゆる話聞き それかと見れば 沖の鶴島」と書かれています。
上の写真は歌碑の説明書きです。
「与謝野晶子先生之歌碑
昭和8年6月、与謝野鉄幹・晶子御夫妻は、正宗敦夫氏らと共に、日生諸島での
舟遊びに興じ、その美しい景観に心をうたれ、心情を数首の歌に託された。
書は与謝野晶子先生の御令孫、与謝野馨(衆議院科学技術委員長)によるものである。
平成二年五月吉日 日生町」
与謝野晶子についてWikipediaより引用紹介します。
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 -
1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の
「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・
甲斐町西1丁[1])で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女
として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から
疎まれて育つ[2]。 実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。
9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)
に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、
「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[3]『文学界』や紅葉、
露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』1906年5月)であった。
20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、
1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の
関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。
翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』(鳳晶子)
を刊行し、浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚、子供を12人
出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。
1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で
始まる詩を寄稿した。1912年(明治45年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに
行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[4]、また『新訳源氏物語』の
序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を
開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた
(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が
組まれた[5]。 5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスの
マルセイユ港から貨客船「平野丸」で帰国の途につくまでの4か月間、イギリス、ベルギー、
ドイツ、オーストリア、オランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著
『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、
女性教育の必要性などを説いた。
1921年(大正10年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭そして夫の鉄幹らとともに
お茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を
成立させる。 子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の
職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。
来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらって
いたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、
残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動と
エネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。
1940年5月に脳出血で右半身不随になり、1942年(昭和17年)1月4日意識不明になる。
同年5月29日、狭心症に尿毒症を併発し、荻窪の自宅で死去[6][7]。
戒名は白桜院鳳翔晶燿大姉[7]。墓は多磨霊園にある[8]。
与謝野晶子の生家跡が堺市にあり訪問記を書いていますのでリンクしておきます。
堺散策 その8 与謝野晶子生家跡