山陽電車の広報誌「ESCORT]2019年12月号で山陽網干駅周辺の紹介記事があり
ダイセル異人館と龍門寺の紹介記事が掲載されていました。
これに触発され2019年12月27日(金)に山陽網干駅周辺を散策してきましたので
写真紹介していきます。
山陽網干駅の周辺には2017年11月5日に室津に午前中に訪問後、午後に訪問。
さらに魚吹八幡神社に2018-3-25、2019-3-30に訪問していますが今までブログ記事
にしていなかったのでこれらの訪問記を含めてシリーズとして紹介していきます。
今回はシリーズの第14回で不徹寺を紹介します。
過去の記事:
第1回 ダイセル異人館
第2回 龍門寺
第3回 魚吹八幡神社
第4回 旧網干銀行本店
第5回 大覚寺
第6回 長太郎石
第7回 河野鉄兜生家と石碑
第8回 津の宮お旅所
第9回 稲香村舎 誠塾
第10回 山本家住宅
第11回 丸亀藩網干陣屋門跡
第12回 水井家住宅
第13回 西方寺
このシリーズの全目次
山陽電車網干駅周辺散策記 その24(最終回) 網干湊跡 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
山陽電車網干駅周辺散策記 番外編 田捨女について - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
不徹寺の基本情報
住所:姫路市網干区浜田632 TEL:079-272-0823
宗派:臨済宗妙心寺派 山号:松寿山 御本尊:観世音菩薩
創建:元禄元年(1688) By貞閑禅尼(田捨女)龍門寺の尼僧道場として建立
所在地のGoo地図を添付しておきます。
上の写真は山門からみた不徹寺 正面に座禅堂が見えています。
上の写真は不徹寺の由緒などが書かれた説明板
田捨女(1634-1698)は江戸時代の女流歌人・俳人。貞門派の女流六歌仙(六俳仙)の1人
元禄の四排女の一人で有名な丹波柏原の田ステ女さんは僅か六歳で「雪の朝」の俳句を詠み多くの
人を驚かせた。 文雅の中に成長し五男一女に恵まれたが夫君が世を去り幼いお子たちを立派に
育てられ、後に綱干に移り龍門寺の盤珪和尚さまの教えを受け不徹寺を開基し多くの女性を指導し
郷土偉人の紅一点として讃えられています。
(ステ女さんのお墓は龍門寺に、分骨塔は不徹寺にあります。)
夫の季成死後浄土宗に出家して妙融と名乗っていたが盤珪国師に出会い弟子入りし貞閑尼と改名、
龍門寺近くに不徹庵を開いたとされています。
田捨女は元禄11年8月10日66歳で往生したが創設した不徹庵は捨女の没後3周忌の頃、現在の地に
移転し規模も大きくされ現在にいたっています。
捨女の3男の祖瑞と4男の祖兀は共に盤珪禅師の弟子となり祖瑞は神戸市兵庫区平野の祥福寺を中興
祖兀は丹波の清雲寺を中興して盤珪国司の法統を伝えた。
上の2枚の写真は山門に掲示の仙崖義梵の歌「老人六歌仙」と仙崖義梵の説明書き
Wikipediaより仙崖義梵についての解説を引用紹介します
仙厓 義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750)4月 - 天保8年10月7日(1837年11月4日)
は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。
美濃国武儀郡で生まれ、11歳の頃清泰寺で臨済宗の僧となった。19歳になり行脚の後に
月船禅彗の門下に入る。32歳で印可を受け再び行脚の旅に出る。
39歳より博多の聖福寺の盤谷紹適の法嗣となる。住持を23年務め、一応の引退となる。
88歳で遷化するまでに、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。
本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られている。
仙厓の絵は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかった。
83歳の時、庭に「絶筆の碑」を建て断筆宣言をしたが結局やめられず、没年まで作品は
残っている。 昭和初期に「仙厓ブーム」ともいえるほど仙厓の研究熱が高まった時期があり、
多くの作品が各地から発見され、逸話や論説が乱立した。仙厓の絵のコレクターとして
出光佐三が知られ、そのコレクションは東京の出光美術館に収蔵されている。
上の2枚の写真は座禅堂の外観と内部
座禅堂は説明書きに書かれているように元禄13年(1700)に建てられたもので
全国的にも珍しい尼僧修行道場です。
上の写真は庫裡
上の写真は座禅堂の建物側面と小祠です。
小祠には田ステさんが6歳で詠んだ俳句(下記)が掲示されています。
「雪の朝 二の字二の字の 下駄の跡」