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別所長治公首塚と由緒碑 in 三木市雲龍寺 on 2020-2-2

2020年02月29日 04時55分44秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月2日、蓮花寺の鬼踊りを観るために三木市に出かけていました。

鬼踊りについては下記ブログを作成済

 三木市 蓮花寺の鬼踊り on 2020-2-2

 

午前中、表題の「別所長治公首塚と由緒碑」の写真を撮りましたので紹介します。

 

三木城は5代目城主別所小三郎長治のとき羽柴秀吉に攻められました。
いわゆる三木合戦と呼ばれるものです。「三木の干殺し」といわれ、全国的に
有名です。天正6年(1578)4月から1年10ヶ月にも及ぶ兵糧攻めに対して、
天正8年(1580)1月17日に別所長治一族の自害により開城し、篭城した
人々の命が助けられました。
三木城は元和3年(1617)徳川幕府の一国一城令により廃城となりました。

 

上の2枚の写真は別所長治公首塚の近遠景

右側が長治公の塚で左側は照子夫人塚

首塚は秀吉の陣地より安土城で信長による首実検後、当時の雲龍寺住職(第七世

安室春泰和尚)が安土より持ち帰り埋葬祭祀したものと伝わっています。

昭和17年(1942)帝国在郷軍人会三木分会によって首塚の補修が行われています。

昭和48年(1973)3月、別所公奉賛会の努力で首塚の修復と玉垣の設置さらに

照子夫人の霊を合祀されました。

上の写真は帝国在郷軍人会三木町分会によって書かれた首塚に関する説明書き

上の写真は昭和34年(1959)1月に設置された首塚由緒碑

上述した内容が書かれています。

昭和17年(1942)在郷軍人会三木分会による補修は郷土史家の小阪恒三郎氏

の考証に基づき補修が行われた。

この碑は表門新設と参道改修等の竣工に際して昭和34年1月17日に建立された。

題字は三木市長 衣巻顕明 撰文は別所公奉賛会会長の原寅一

裏面には19名の特別寄付者、12名の建設委員の名前が刻まれています。

上の写真は別所公首塚の左手の辞世碑(旧碑)

「いまハただうらみもあらじ諸人の命にハはる我身とおもへば」

実際の碑の文では濁点が省略されています。

元は上の丸公園伝天守台に設置されていたが昭和17年に新たに辞世の碑

が設置された為、移設されたとのこと。

上の写真は三木城跡の本丸にある別所長治公の辞世の歌碑です。
「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」と書かれています。

実際の碑の文では濁点が省略されています。

陸軍大将男爵 本庄繁 の書 昭和17年(1942)帝国在郷軍人会三木分会が建立

当時の分会長は山田理之助

コメント
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