なんとなくクラシテル

獣医という仕事をしている人間の生活の例の一。
ほとんどが(多分)しょーもない話。

体罰

2005年08月25日 | 
の話、というと、やっぱり中学時代でしょうな。ちょー有名な暴力中学、この界隈で、というと所沢市立向陽中!!いや、今は知らんけど。「市立」というとこが怖いですねー恐ろしいですねー。当時、生徒のあっしらは「向暗中」と自嘲してた。
 この中学、当時陸上部&体育教官どもが全てを牛耳ってたんだけど。陸上部が全国1位とか獲ってたからさ。その顧問が遠藤。こいつが部員を殴る蹴るして(当人は昔やられたことの仕返しだ、とか嘯いてましたね、ほーら、暴力癖ってこうして下の世代に連綿と受け継がれる。仕返し言うなら、自分をやりこめた奴に仕返しするのが筋だろー)全国1位にしてたわけ。殴る蹴るのレベルがどんなもんだったか?例の1。女子部員の頭をを竹の棒で思い切り殴る。何回も殴ってると、しまいに竹の棒が割れて吹っ飛ぶの。それを校庭に投げ捨てる。その間彼女は黙って頭を差し出してなくちゃならない。スゴイでしょうが。
 思い付く限り、そんな目に遭わされる理由が生徒側にあったとは全く思えない。結局そいつの「気に食わなかった」というのが理由ね。つまり、殴る原因は殴る側にあったわけよ。

 でも、我々はどこにも訴える先がなかった。なぜ?まずは「全国1位は我が校の埃、じゃない誇り」だとかいう保護者も含めた学校側の姿勢。その為なら何をしても良かったらしい。何か抗議しようもんなら、今度は「内申書」で脅される。これが公立の学校で平然と行われてたんだからなー。「ああすれば、内申書が悪くなるんだよー」という話、生徒同士でしょっちゅう交わされてた。ホントかどうか、知りませんけどね。でも、教師にそうやって牛耳られてたわけよね。チックショオ。

 一番むかつくのは、そういうのを他ならぬ保護者連中が支持してたってこと。従って、か弱い中学生には味方がいなかった。当時は「不良」だの「つっぱり」(もう死語ですかねえ)になられちゃたまらん、という親側の事情があったのね。すなわち、すでに親どもがてめえの養育責任を放棄して、学校に押し付ける、で、そんなのに学校側がバカみたく応じてた、というのがありますわねえ。で、こちらは「そういう連中になる予備軍」としか見られていなかった。結局、暴力でもって押さえつけとかなくちゃ、アホになる、と決め付けられてた、ということか。全く信頼されてなかったんだよなー。チックショオ。
 こうなると、生徒間でも暴力がはびこる。だって、それが「正しい」んだから。というわけで、イジメが蔓延してたなー。

 あーイヤダイヤダ、あっしも大分いじめられましたけどね、そのうち無気力がはびこりだした。「どーせ後1年くらい我慢すりゃいいんだからさ」って。我々が3年生の時はそうだったな。そーねえ、まだ憶えてること。受験が済んだ3年生を集めて、教師どもが「なにか問題を起こしたら、今度は高校に入学できなくなるぞ」とか脅すのよ。それ聞いた時は「いつになればセイセイできるのか?」とげんなりしたもんだ。
 でもって、卒業式、お礼参りとやらを仕掛けてた連中がいたらしい。ので、遠藤は逃げちゃって、学校に来ませんでしたって。なんだろうね。

 こういうのから逃れたい一心で、あっしは当時の自分の実力からかけ離れた川越の高校を希望した。そこにはさすがに上の学年の連中は殆ど通ってなかったから。火事場のクソ力でなんとか合格したんだけど、その年はなぜか、同級生も10人以上受かったんだなあ。そしたら、「文武両道」だとさ、こんなことまで教師どもの手柄にされてしまったんだよ!!許せない!!だって、その当時殆どの生徒が学校を見限って塾に通ってたもの。塾&生徒の手柄だったんですけど。みーんな、塾で友人を見つけていた。学校で友人なんぞできるはずもない。で、あっしは塾にたまたま通ってなかったからなー。

 というわけで、私は組織が大嫌いになったんですよ。で、地元に友人が一人もいない、という結果になったわけよ。
コメント (32)
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