や、その系列の雑種犬がしかし、一番トラブルを起こしやすい、のには、これはもっと根深い理由があるので、じっくり説明しようと思います。
そもそも、昭和という時代に犬を飼う目的は、多分基本的には「番犬」だった。庭を走り回って、道行く人にギャンギャン吠えていた犬は、その職務をきっちり履行していた、ともいえる。犬を「室内飼い」するなんて、考えもしない、のが普通だったんじゃないかと思う。
ところが、平成になるあたりから、だんだんいわゆる「お座敷犬」が増えてきた。トイプードルとかあたりからかな。「トリミング」という職業が出てきたものその頃で、それ以前は仕事にならなかったと思うのだ。「犬種図鑑」みたいな本も出てきて、ブリーダーと呼ばれる繁殖業者が出てきて、あっという間に「室内飼い」が主流になってしまった。それにつれて、躾がやかましく言われるようになり始めた。要するに、犬を飼うのに向いていない日本家屋に犬をいきなり入れちゃって、うわートラブルだらけ、それをどうにかしなくちゃってんで「しつけ」でなんとかならんか、という事を、日本人は期待したんでしょう。
それに伴って、あれこれ海外から「しつけ法」なるものが輸入されてきた。一番最初に入ってきたのが「人がリーダーになりましょう」という「α」がどうのこうの、という方法で、これが未だに幽霊みたく「犬のしつけ」というと出しゃばってくる。当時の日本人は、とにかく欧米に対しての劣等意識が酷くて、なんでもかんでも無批判に導入してしまう悪い癖があって、犬のしつけ法なんかはその最たるものだった。躾の根拠がよく分からないまま、一生懸命それを実行しちゃったのだ。
ところで、西洋の犬と日本犬とは、品種としての成り立ちが全然違う。西洋犬は、原則すべて、なにがしかの「使役」目的があって、それに対応する形で変化したのが品種として固定される、を繰り返している。つまり、どの犬種も「人に対して」こういうお役目という上下関係が前提。キリスト教というバックボーンもある。キリスト教は、基本動物は全く考慮外の宗教で「動物福祉」というのも、原則的には「お気の毒だからどうにかしよう」的上から目線によるもの。だから、家畜が人に反抗なんてもっての外、と思っているフシがあるんです。西洋人は、老衰の犬を介護なんかまずしない。かーんたんに安楽死させちゃう人達なんですよね。で、それについて別段なんとも思っていないらしい。
日本犬はどうかというと、「使役」目的で品種固定がなされたのは、狆(大奥のお座敷犬、というのは立派な使役です)と土佐犬・秋田犬(これらは『闘犬』として品種固定されている点に注意しなければならない)程度。あとはなんとなく人の周りをふらふらしていて、特に何かしている、という事もなかった犬どもを、それなりに同じような体型や毛色に整理して「犬種」として成り立たせた経緯がある。「外見」のみが犬種の固定に関わった。一応猟犬として使われていた犬もいたようだが、西洋の猟犬のようなシステマティックな訓練を受けて、というものではない。この辺りは、まず仏教という宗教上のバックボーンもあるし、江戸時代の「生類憐みの令」も影響しているんじゃないかと思う。江戸時代には、ウソみたいだが、犬や牛が人の代わりに伊勢参りとか善光寺参りとかを実行していた、らしい。この場合は、その辺の旅行者に順番に連れられて、見事往復を成し遂げる、ということができていた。ガブガブむやみに食いつくような犬はいなかった、けど、人との関りもそれほど強いものではなかった、はずなのだ。だから、誰に連れられてもホイホイついていったんでしょう。何となく適当に共存、という感じだろうと思われる。上下関係もくそもない、というわけですね。
ところが、昭和あたりからちょっと事情が変わってきた。適当にはまずい、ちゃんと飼いましょう、ってまずなって、犬は外で飼うなら鎖でつないどけ、狂犬病の注射をしろ、というお上からのお達しがきつくなってきた。で、鎖でつないで飼うなんてかわいそうだなあという事で、室内飼い、なら躾しなくちゃ、というところに西洋式のしつけが入ってきた。リーダーにならなくちゃいけない、で、言うことをきかせないと、というのは、完全に「使役」目的の訓練法です。
この西洋人が西洋の犬にずうっとやってきたしつけ法というのが、日本の犬には全く合わなかったのだ。今までマイペースで適当に人間と共存してきたのに、いきなり「座れ」とか言われて、ポカンとしていると「こいつは分かってない」とやられて、「しつけなきゃ」とポカポカ叩かれたりする。今まではうんちもシッコもその辺に適当に済ませてOKだったのに、なぜか、「ウンコするな、シッコするな」(トイレをしつけようとしてダメ出しすると、犬はその「場所」が抜け落ちた理解をします)と言われて、我慢できずにその辺にすると、頭をその場に擦り付けられて怒鳴られる、ってなことを繰り返されたら、誰だって「理不尽だ」となりますわね。で、ちょっとしたことでも身構えて人に咬みつく犬が出来上がり、となってしまったのだ。
一方、このしつけ法は、他ならぬ「日本人」にも全く向いていなかった。なぜか?日本人は「リーダー」なんぞになれるタマじゃない、人が大多数だから。これがさらにトラブルと混乱を生むようになった。やりつけない事を無理してやると、ろくなことにならない。
そもそも、昭和という時代に犬を飼う目的は、多分基本的には「番犬」だった。庭を走り回って、道行く人にギャンギャン吠えていた犬は、その職務をきっちり履行していた、ともいえる。犬を「室内飼い」するなんて、考えもしない、のが普通だったんじゃないかと思う。
ところが、平成になるあたりから、だんだんいわゆる「お座敷犬」が増えてきた。トイプードルとかあたりからかな。「トリミング」という職業が出てきたものその頃で、それ以前は仕事にならなかったと思うのだ。「犬種図鑑」みたいな本も出てきて、ブリーダーと呼ばれる繁殖業者が出てきて、あっという間に「室内飼い」が主流になってしまった。それにつれて、躾がやかましく言われるようになり始めた。要するに、犬を飼うのに向いていない日本家屋に犬をいきなり入れちゃって、うわートラブルだらけ、それをどうにかしなくちゃってんで「しつけ」でなんとかならんか、という事を、日本人は期待したんでしょう。
それに伴って、あれこれ海外から「しつけ法」なるものが輸入されてきた。一番最初に入ってきたのが「人がリーダーになりましょう」という「α」がどうのこうの、という方法で、これが未だに幽霊みたく「犬のしつけ」というと出しゃばってくる。当時の日本人は、とにかく欧米に対しての劣等意識が酷くて、なんでもかんでも無批判に導入してしまう悪い癖があって、犬のしつけ法なんかはその最たるものだった。躾の根拠がよく分からないまま、一生懸命それを実行しちゃったのだ。
ところで、西洋の犬と日本犬とは、品種としての成り立ちが全然違う。西洋犬は、原則すべて、なにがしかの「使役」目的があって、それに対応する形で変化したのが品種として固定される、を繰り返している。つまり、どの犬種も「人に対して」こういうお役目という上下関係が前提。キリスト教というバックボーンもある。キリスト教は、基本動物は全く考慮外の宗教で「動物福祉」というのも、原則的には「お気の毒だからどうにかしよう」的上から目線によるもの。だから、家畜が人に反抗なんてもっての外、と思っているフシがあるんです。西洋人は、老衰の犬を介護なんかまずしない。かーんたんに安楽死させちゃう人達なんですよね。で、それについて別段なんとも思っていないらしい。
日本犬はどうかというと、「使役」目的で品種固定がなされたのは、狆(大奥のお座敷犬、というのは立派な使役です)と土佐犬・秋田犬(これらは『闘犬』として品種固定されている点に注意しなければならない)程度。あとはなんとなく人の周りをふらふらしていて、特に何かしている、という事もなかった犬どもを、それなりに同じような体型や毛色に整理して「犬種」として成り立たせた経緯がある。「外見」のみが犬種の固定に関わった。一応猟犬として使われていた犬もいたようだが、西洋の猟犬のようなシステマティックな訓練を受けて、というものではない。この辺りは、まず仏教という宗教上のバックボーンもあるし、江戸時代の「生類憐みの令」も影響しているんじゃないかと思う。江戸時代には、ウソみたいだが、犬や牛が人の代わりに伊勢参りとか善光寺参りとかを実行していた、らしい。この場合は、その辺の旅行者に順番に連れられて、見事往復を成し遂げる、ということができていた。ガブガブむやみに食いつくような犬はいなかった、けど、人との関りもそれほど強いものではなかった、はずなのだ。だから、誰に連れられてもホイホイついていったんでしょう。何となく適当に共存、という感じだろうと思われる。上下関係もくそもない、というわけですね。
ところが、昭和あたりからちょっと事情が変わってきた。適当にはまずい、ちゃんと飼いましょう、ってまずなって、犬は外で飼うなら鎖でつないどけ、狂犬病の注射をしろ、というお上からのお達しがきつくなってきた。で、鎖でつないで飼うなんてかわいそうだなあという事で、室内飼い、なら躾しなくちゃ、というところに西洋式のしつけが入ってきた。リーダーにならなくちゃいけない、で、言うことをきかせないと、というのは、完全に「使役」目的の訓練法です。
この西洋人が西洋の犬にずうっとやってきたしつけ法というのが、日本の犬には全く合わなかったのだ。今までマイペースで適当に人間と共存してきたのに、いきなり「座れ」とか言われて、ポカンとしていると「こいつは分かってない」とやられて、「しつけなきゃ」とポカポカ叩かれたりする。今まではうんちもシッコもその辺に適当に済ませてOKだったのに、なぜか、「ウンコするな、シッコするな」(トイレをしつけようとしてダメ出しすると、犬はその「場所」が抜け落ちた理解をします)と言われて、我慢できずにその辺にすると、頭をその場に擦り付けられて怒鳴られる、ってなことを繰り返されたら、誰だって「理不尽だ」となりますわね。で、ちょっとしたことでも身構えて人に咬みつく犬が出来上がり、となってしまったのだ。
一方、このしつけ法は、他ならぬ「日本人」にも全く向いていなかった。なぜか?日本人は「リーダー」なんぞになれるタマじゃない、人が大多数だから。これがさらにトラブルと混乱を生むようになった。やりつけない事を無理してやると、ろくなことにならない。