●平安時代(二条天皇 後白河上皇)
Heiji disturbance; Fujiwara Nobuyori and Minamoto no Yoshitomo opposed Taira no Kuiyomori and Fujiwara Michinori.
人々(ひとびと)困窮 平治の世。
1159年 平治の乱 藤原信頼 源義朝
保元の乱で父為義の斬首を余儀なくされた源義朝は恩賞に対する不満を高じさせていた。1159年、後白河院の近親藤原信頼と結んだ義朝は藤原通憲(信西)を殺し、平治の乱を起こしたが平清盛に敗れ、平氏政権への道が開かれた。
In this climate, Goshirakawa selected FUJIWARA no Nobuyori, governor of Musashi Province, to promote and groom as a retainer.
そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。
Nobuyori, after being made Ukon no gon no chujo (Provisional Middle Captain of the Right Division of Inner Palace Guards) in March, 1157, he embarked on a meteoric rise, being promoted to Kurodo no to (Head Chamberlain) in October, and then in 1158 was named Sangi (councillor) and Kogo no miya gon no suke (Provisional Assistant Master of the Empress's Household) in February, then Chunagon (vice-councilor of state) in August, and finally Kebiishi no betto (Superintendent of the Imperial Police) in November.
信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。
2015関西学院大・文法商人間
下線部g保元・平治・治承の時代に起きた出来事として、誤っているものを下記より選びなさい。
ア.藤原通憲・平清盛に反感を抱く藤原頼長が、源為義と結んで兵を挙げた。
イ.皇位をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立を原因の一つとして乱が起こった。
ウ.源義朝は天皇方につき、父の為義と敵対した。
エ、藤原成親や僧の俊寛らが平氏打倒の陰謀をめぐらせたが、失敗した。
(答:ア※保元の乱の対立(兄藤原忠通×弟藤原頼長)と平治の乱の対立(院近臣藤原通憲×同藤原信頼)が混同されている)
〈2014明大・政経(政治・経済・地域行政):「
下線部(イ)保元および平治の乱について、保元の乱では平清盛と同じ陣営についたが、平治の乱では対立した人物はだれか。A~Eから一つべ。
A源為義 B源義朝
C平忠正 D平重盛
E藤原通憲
(答:B)