第2問
歴史上、帝国と呼ばれた国家は、多民族、多人種、多宗教を包摂する大きな領域をその版図におさめている場合が多かった。それらの国家の繁栄と衰退、差異や共通性、内外の諸関係について、次の3つの設問に答えなさい。
問(1) ローマはテヴェレ川のほとりに建設された都市国家にすぎなかったが、紀元前6世紀に、エトルリア人の王を追放して共和政となった。その後、周辺の都市国家を征服してイタリア半島全体を支配し、やがて地中海世界を手中におさめる大帝国となった。
ローマが帝政に移行する紀元前後からおよそ200年にわたる時期はパクス=ローマーナとたたえられ平和が維持された。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。
(a) ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設について、2行以内で説明しなさい。
(b) ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。
問(2) 中国の歴代王朝は、周辺諸国との間で儀礼に基づく冊封や朝貢といった関係をもった。しかし、その制度や実態は、王朝ごとに、また相手に応じて、多様であった。とりわけ対外貿易と朝貢との関係には、顕著な変化が見られる。
明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら、4行以内で説明しなさい。
問(3) 1898年に勃発したアメリカ・スペイン戦争をきっかけとして、アメリカ合衆国は、(a)モンロー宣言によって定式化された従来の対外政策を脱し、より積極的な対外政策を追求しはじめた。
とりわけこの戦争の舞台となったカリブ海や西太平洋、そして中国においては、戦後、(b)アメリカ合衆国の影響力が飛躍的に高まり、帝国主義列強間の力関係にも大きな変化がもたらされた。
下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。
(a) この宣言の内容を、2行以内で説明しなさい。
(b) この戦争後におけるアメリカ合衆国の対中国政策の特徴を、3行以内で説明しなさい。
2011年のコメント
第2問
問(1)
(a) 「ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設」という課題。これは公共施設の数を多く書いても、「平和と繁栄を示す都市生活を支えていた」ことと関係した説明がないといけない。施設がどう「平和と繁栄を示」しているのか。
一番書きやすいのはコロッセウム(円形闘技場)かな。ここでは動物(猛獣)・剣闘士(グラディエーター)の闘い、死刑、歴史的戦闘の再現などが観られ、ここでパンも配られたので、「パンとサーカス(配給穀物と見世物)」を享受するローマ市民の歓楽場でした。
またカラカラ浴場を代表とする公共浴場がローマ市だけで約1000箇所もあり、大浴場は11箇所というくいら、日本人と似て、お風呂大好きでした。これはたんなる風呂屋でなく、ここには図書館・運動場・マッサージ室・レストランもあり、曲芸を演じている者もいて、入場料は安く「大衆の別荘」といわれたものです。プールもあったが泳ぐためではなかった。浸かるだけでローマ市民は水泳というものを知りませんでした。
この浴場に豊富な水を供給する水道橋も欠かせないでしょう。フランスに残っているガール水道橋が有名です。ローマ市には11本の水道が水を供給していました。アウグストゥスが造らせた水道の終端に位置するトレビの泉も名高い。
帝国全土に張り巡らせたローマ道(街道)もあげていいものです。アッピア街道から始まるローマ道は、軍用と民用のどちらでも使えました。アメリカの建築史家ルイス・マンフォードは『歴史の都市 明日の都市』新潮社の中で、ローマ史は土木建設事業史であると言い、絶えまなく建設、建設の事業をすすめたと感嘆しています。ローマ軍は戦闘より土木労働が主たる仕事であったでしょう。その第一の建設はこの道路でした。馬車・戦車の通ったあとに轍(わだち)ができていき、この轍のへこみがきつく、このデコボコ道を今歩いてみると捻挫しそうで歩きにくい。こういう道は現代では散歩・観光用にしかならないですが、ここを古代のひとが通ったのかと感慨にふけるのにはいいものです。
他に公共施設としては、パンテオン(万神殿)、フォルム(公共広場)、バシリカ(公会堂)、神殿、戦車競技用の競技場(映画「ベンハー」に出でくる競馬場)、劇場などもあります。
(b) 「ローマの市民権の拡大」
市民権は初めローマ市に住む自由人だけですが、それが半島統一戦争の過程で植民市(上級市民権)・自治市(下級市民権)と拡大し、同盟市戦争の結果、半島全域の自由民に拡大、そして帝政期になると212年のアントニヌス勅令(カラカラ帝の勅令)で属州の自由民にすべて与えられました。これ以外の市民権獲得の方法は、属州民が戦争に参加して市民権を得たり、相当の資財を捧げることで市民権が買えました。この例外は書かなくてもいいでしょう。
問(2) 「明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら」(120字)。
「対外貿易と朝貢との関係」という密接な関係についてです。『詳説』では明初のところで「東南沿海では海禁政策をとって民間人の海上交易を許さず、政府の管理する朝貢貿易を推進した」と書いているように貿易と外交がセットになった対外政策です。あくまで中国を中心とした世界観の下で、中国皇帝を世界の君主とあがめ、この至上の君主からの恩恵として中国の商品をくれてやる、その代わり君たちの商品も出せ、という中国中心の外交観と制限貿易です。
洪武帝は海禁をはじめ、元朝時代のユーラシア大陸全域における東西交易の流れを閉めてしまいました。海賊や密貿易対策として、沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)さえも規制します。
永楽帝もこの政策を踏襲し、鄭和を派遣したのもこの朝貢貿易の拡大であり、民間の自由貿易の拡大ではありませんでした。日本側の言い方で、室町幕府の勘合貿易、徳川幕府の朱印船貿易という、渡航する船に勘合符や朱印状という許可証を与え、これをもった船にのみ貿易を許す、という制限貿易です。
これが16世紀の民間(私)貿易(後期倭寇)と西欧商人の来航・要求によって緩和されます(1567)。
緩和であって解除ではありません。
清朝は東北から南下しながら、明朝打倒・中国統一戦争を展開し、明朝側も南下して再起を図ろうとしていて、その中に鄭成功の抗清戦があり、台湾に逃れて再起を期しました。
これを封殺するために清朝は遷界令をしき、海禁を厳しくします。三藩の乱と成功死後の台湾を制圧して遷界令を解除する展海令を出しました(1684)。
これによって民間貿易が認められ、4つの海関が設けられて貿易は再開します。といって完全な海禁の解除でないことは、この海関設置でも分かります。
海禁の完全な解除はアヘン戦争の敗北までありません。
問(3)
(a) 「モンロー宣言の内容」(60字)
これについてどの教科書も書いていることは、「アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉……孤立主義外交」ということです。ただ「内容」という要求は教書の内容そのまま書けばいいとおもわれ、「孤立主義外交」は総括・評価的なものなので、なくてもいいはずです。
また当時のラテンアメリカ独立運動期であることの言及も要らないでしょう。ありのままでは、1)ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな。
2)アメリカ大陸の方からもヨーロッパとその植民地には干渉しない。3)アメリカ大陸はもう植民地化の対象ではない、という3点です。本論としてはないが、初めに「この〔北米〕大陸の北西岸における〔米露〕二国のそれぞれの権利と利益について、平和的な交渉によって取決めを結ぶための……」(岩波書店『世界史史料7』)という文面もあり、「ロシアの南下阻止」も入れてもいいでしょう。
(b) 「この戦争(米西戦争)後におけるアメリカ合衆国の対中国政策の特徴」(90字)
類題として一橋過去問(2008年)・第2問に「問3 米西戦争以後、アジア太平洋の国際関係への関心を強めたアメリカの、太平洋戦争(1941-45年)開戦にいたるまでのアジア政策を述べなさい。(150字以内)」というのがありました。東大は対象が中国だけですから、まだ書きやすい。やっかいなのは「特徴」ということばです。
特徴は他とのちがい、それは英国とのちがいであったり、米西戦争以前の米国の外交政策とのちがいであったり、いろいろ視点のおきどころによって「特徴」を表さなくてはならないのですが、出題者はどれだけこの特徴に意味を込めているのか? 比較する対象もとくにあげないで特徴ということばを使う場合は単に知っていることを書け、ということをあからさまに言うのを躊躇して、少しひねって「特徴」といっているにすぎないことです。この問題の場合も「戦後の対中国政策を書け」で済むはずのことをこのように表現していると。いろいろな事情・事件・政策に共通する要素を引っ張ってくる一般化はしなくていい、ということです。たった90字という字数でそこまでは求めていないだろうと。
それでいえば、政策の羅列でいい。ジョン=ヘイの門戸開放宣言(通牒)と機会均等(1899)を、義和団事件がおきたため出兵し、さらに領土保全も訴えた(1900)、という順です。さらに近いところでは、タフト大統領のときに四国借款団をつくり(1910)、清朝の鉄道国有化に介入しました。ここに見られる外交の特徴は領土をとって植民地を増やすことはせず、経済的な進出にとどめていることです。この特徴は書かなくていい、ということです。
[解答]
第2問
(a)コロッセウム(円形闘技場)では動物(猛獣)・剣闘士(グラディエーター)の闘い、死刑、歴史的戦闘の再現などが観られ、ここでパンも配られたので、「パンとサーカス(配給穀物と見世物)」を享受するローマ市民の歓楽場でした。
またカラカラ浴場を代表とする公共浴場がローマ市だけで約1000箇所もあり、大浴場は11箇所というくらい、お風呂大好きでした。ここには図書館・運動場・マッサージ室・レストランもあり、曲芸を演じている者もいて、入場料は安く「大衆の別荘」といわれたものです。
この浴場に豊富な水を供給する水道橋も欠かせない。フランスに残っているガール水道橋が有名です。ローマ市には11本の水道が水を供給していました。アウグストゥスが造らせた水道の終端に位置するトレビの泉も名高い。
帝国全土に張り巡らせたローマ道(街道)もあげていいものです。アッピア街道から始まるローマ道は、軍用と民用のどちらでも使えました。ローマ軍は戦闘より土木労働が主たる仕事であった。
(b) ローマの市民権は初めローマ市に住む自由人らだけに与えられたが、それが半島たが統一戦争の過程で植民市(上 級市民権)・自治市(下級市民権)と拡大し、同盟市戦争の結果、半島全域の自由民に拡大、そして帝政期になると212年のアントニヌス勅令で属州の自由民にすべて与えられた。
問(2) 東南沿海では海禁政策をとって民間人の海上交易を許さず、中国中心の外交観と制限貿易として政府の管理する朝貢貿易を推進した。
洪武帝は海禁をはじめ、元朝時代のユーラシア大陸全域における東西交易の流れを閉めた。
海賊や密貿易対策として、沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)さえも規制します。永楽帝もこの政策を踏襲し、鄭和を派遣したのもこの朝貢貿易の拡大であり、民間の自由貿易の拡大ではなかった。
16世紀後半、明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め始めた。
清朝は東北から南下しながら、明朝打倒・中国統一戦争を展開し、明朝側も南下して再起を図ろうとしていて、その中に鄭成功の抗清戦があり、台湾に逃れて再起を期した。
これを封殺するために清朝は遷界令をしき、海禁を厳しくします。三藩の乱と成功死後の台湾を制圧して遷界令を解除する展界令を出しました(1684)。これによって民間貿易が認められ、4つの海関が設けられて貿易は再開します。といって完全な海禁の解除でないことは、この海関設置でも分かります。予備校の解答に「17世紀末に海禁解除」としたものもあるのはいかがなものか。海禁の完全な解除はアヘン戦争の敗北までありません。
問(3)
(a) 「モンロー宣言の内容」(60字)
アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を確認し、アメリカ大陸はもう植民地化の対象ではない、という立場に立ち、孤立主義の外交を行った。
(b) ジョン=ヘイの門戸開放宣言(通牒)と機会均等(1899)を、義和団事件がおきたため出兵し、さらに領土保全も訴えた(1900)。
さらに、タフト大統領のときに四国借款団をつくり(1910)、清朝の鉄道国有化に介入した。
ここに見られる外交の特徴は領土をとって植民地を増やすことはせず、経済的な進出にとどめている。
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