●室町時代
1438年 〈永享の乱〉★
Disturbance of Eikyō; Ashikaga Yoshinori destoroys Ashikaga Mochiuji, Kamakura kubō.
一夜(ひとよ)の騒ぎ 影響も。
1438年 足利義教 永享の乱 足利持氏
6代将軍足利義教の時代は、それまで比較的安定を保ってきた将軍と有力大名の勢力の均衡が破れ、幕府体制に破綻があらわれ始めた時代であった。
1438年、幕府と鎌倉府の関係が決裂し、幕府に背いた鎌倉公方の足利持氏が滅ぼされた(永享の乱)。「万人恐怖」と評された義教の専制はやがて自らの死を招くこととなる。
〈足利学校〉 鎌倉公方足利持氏を補佐していた関東管領の上杉憲実は主君と不和になり、永享の乱では将軍義教に協力。乱の翌1439年、快元を初代庠主(しょうしゅ、校長のこと)に招き、足利学校を再興した。足利学校は戦国時代に来日したフランシスコ=ザビエルから「坂東の大学」と称され、西洋にも紹介された。
〈2014立大・経済コミュ福祉観光:「
上杉氏は13)鎌倉公方を補佐する関東管領を世襲したが、15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていった。
問13.鎌倉公方は足利尊氏が上洛する際に、その子義詮を鎌倉とどめたことに始まるとされる。その後、尊氏は義詮を上京させ、代わりに義詮の弟を鎌倉に下し、以後この人物の子孫がこれを世襲した。この人物の名をしるせ。
(答:足利基氏)〉
〈2012早大・文:「
問6 下線部e鎌倉公方は足利尊氏の子息が就任した後、彼の子孫が就任する。その尊氏の子息とは誰か。姓名を記述せよ。
(答:足利基氏)
〈2012中大・文
1454年に、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したため、成氏は幕府による追討の対象となった。そのため関東は、成氏を中心とするグループと上杉氏・幕府を中心とするグループに分かれて対立することとなり、(1)戦乱が続いた。この間、成氏は幕府軍の追討から逃れるため下総国の古河に移り、幕府は将軍足利義政の兄弟である政知を派遣して対抗した。しかし、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆国に御所を構えたため[ A ]公方と呼ばれた。その後、関東では約30年にわたって内乱が続いた。
問1 下線部(1)について、この戦乱の名称を記しなさい。
問2 空欄Aに入る地名を記しなさい。」
(答:1享徳の乱、A堀越)〉
〈2014立大・経済コミュ福祉観光
上杉氏は鎌倉公方を補佐する関東管領を世襲したが、14)15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていった。
問14.15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていったに関する出来事a~eを年代順に答えよ。
a.足利政知が室町幕府から堀越に送り込まれた。
b.足利成氏が上杉氏から追放され古河に移った。
c.足利持氏が滅ぼされた。
d.上杉禅秀の乱が起こった。
e.結城氏朝が挙兵したが敗れた。
(答:dceba ※a。政知は6代将軍義教の子。1457年、足利成氏討伐のため鎌倉公方として下向した、b鎌倉公方足利持氏の子。上杉一族や幕府と対立し、1455年、下総の古河に移った、c足利持氏は1438年、6代将軍義教に永享の乱で倒された、d関東管領上杉禅秀(氏憲(うじのり))は、1416年、鎌倉公方と戦い敗れた、e結城氏朝は、1440年、足利持氏の遺児を擁立し幕府に対し挙兵したが敗死した(結城合戦)
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