父が亡くなってもう十日以上たつ。
仕事の片付けをしていたときに突然息子から電話が入った。 仕事中に携帯に電話をしてくることは滅多に無いので ちょっと むかっ
「おじいちゃんが 倒れて救急車で運ばれたって。」冗談だと思った。ついこの間来月にまた訪れることを約束してきたばかりだし 何よりも元気だったから。。。「いつお迎えが来るか分からん」は 父の口癖だった。
「息はあるから 心配すること無いって。」
あわてて着替えて 駐車場に向かった。 明日お見舞いにいくか・・・ 何だか違和感を感じながらのんびりそんな事を考えていた。
また携帯が なった。「おじいちゃん駄目だったって。」
「何言っているの? 大丈夫って言ったじゃん。」
家に戻って 家に帰る支度を・・・息子が付いていってくれるという。 喪服は? 洋服と 着物と えっと えっと 割合冷静だったけれど(きっと 実感が無かったから)準備しているわけではないので ひどく混乱して 亭主が用意してくれた歯ブラシやら タオルやらをどんどんバッグに詰め込む。考えがまとまらない。
深夜高速を走り家に着く。 いつもと違い 車があふれ 家中に赤々と電気が付いている。父は病院から運ばれて 奥の部屋に寝かされていた。 その顔は どうしても寝ているようにしか見えなかった。 触ってみる。 冷たい。 いつもマッサージしたり肩を叩いてやっている。その様子はなんにも変らないけれど いかにも冷たかった。
朝 母と「後十年は生きたいね。」と話し「そうだね あんたは後十年生きなさい。私は12年生きてあんたの後片付けをしてから行くからね」とたわいもない約束をしていたらしい。
でも父はその約束を守れなかった。
午前中自転車で日課のドライブならぬ 付近の散策を済ませ 短冊に二枚の墨絵を描き「うまく描けなかったから明日やり直すよ」と語り 今度は歩いて散歩。
好き嫌いがある父が珍しくたくさんのすき焼きを食べ(これが最後の晩餐)アルバムの修理を試み(何度も見過ぎてぼろぼろになっていた)うまく行かないのでこれも明日の宿題に
「あさっては病院の日だから 明日お金おろしてくるよ」
「寝るか」これが最後になった。突然背中が痛い と母の前に倒れ込み 母が背中をさするもどんどんチアノーゼが現れてきたので 弟に電話。その間血圧を測ろうにも計測不能
弟がやってきて救急車を呼びながら ずっと心臓マッサージを試みる。 聴診器を当てても手首はもちろん頸動脈さえ拍動は聞けなかったと
病院で息をしているから大丈夫 と言ったけれど 今思えばあれは弟の心臓マッサージで 生かされていただけで 血液は末端まで通っていなくて もう駄目だったんだね。 病院では心不全と言うことだったけれど 動動脈瘤破裂だった可能性も高いと・・・
父はもう10年ほど前に癌を告知されていた。 幸い薬が身体に合っていて 病院がよいと 薬を飲むことを止めなければ 自宅で療養できるありがたい状況だった。
それでも発病から一年ほどは 父は毎日気が触れそうに苦しんだ。 死への恐怖 痛みへの恐怖 いろんな事を受け入れるのにずいぶん時間がかかった。
今時々おそってくる 不安と闘いながらも いつもとかわらない生活が送れるようになった。今回の事で 一番安心したのは 父の穏やかな顔だった。 あまりに穏やかできっとなんの苦しさも感じないで行く事が出来たんだろうな と思う。来る人来る人 みんなが不思議がって揺り起こすぐらいだったから
そのたびにお布団が動き 位置がずれて・・・ 本当に「なんや? うるさいで 寝れんぞ」っておきてくる気がした。
葬儀も収骨も積極的に参加した。 そうしないとどうしても受け入れることが出来なかった。 みんなもそうだったのだろうか? 収骨までたくさんの人が寄り添ってくれて 部屋には入りきれなかった。
良い葬式っていうのがあるかどうか分からないけれど 84歳 社会からも引退して 静かに暮らす老人にこんなにたくさんの人が来てくれ 大学の同級生は 毎日のように会いに来てくれる。 父の障害は本当に幸せだったと思う。
さて私だけれど ずいぶん泣くには泣いたけれど いつかは通る道 と淡々としている。 母もそんなふうに見える。 しかし これからいろんな事を思い出して耐えていけるのかどうか・・・?
何も出来ない 何もする気にはなれない。 実家にいて母といても ここへ戻ってきて独りでいても なんにも出来なくて ただごろごろしている。 春が来る頃には少しは日常に戻れるだろうか?
こんなことをブログの題材にするのは 少々憚られたけれど このままいても吹っ切れないと思って書き出した。これが 心の中のけじめになったら良いな