Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

日々を大切に生きていく。

2017-06-25 22:15:54 | 散歩
今週 とても残念なことですが 小林真央さんが亡くなりました。
ちび1のプールの支度をしながらバタバタしていたお嫁ちゃんが ニュースのテロップを見て「えっ」と言ったまま動きませんでした。
見せたくなかった。
でもいつかは分かることですから 仕方ないですけれど



お嫁ちゃんが減の告知を受けたのは一年ほど前 ちょうど小林真央さんが癌で闘病中であることを公にした日でした。
年齢もお嫁ちゃんと同じ
他人事ではないというより いつも自分のことにかぶせて考えていたようでした。
それでも 真央さんの一言一言は大きな力になっているらしく あまり取り乱すことも無く いつも前向きにこの一念を過ごしてきたように思います。

昨年まで続けていた分子標的治療薬の副作用が ネフローゼを呼び 使えなくなってしまって半年になる。
数値はひどく悪くなってしまった。
ひと月前に 息子から電話があり 「夜中におなかが痛くなり病院へ行ったのでしばらくこちらに来てほしい。」
そういわれたとき 不安に思いながらもある程度の結果を覚悟した。
はじめ 子宮に水がたまっている とか 卵巣がねじれているとか言われていたけれど 何度となく検査をした結果残念ながら転移ということだった。
ひどく悲観しているわけではないけれど 頑張っている彼女が報われないことが悔しいと思った。


タンパクもあまりでなくなったので 前の強い薬を少し弱めてまた続けることになった。
うまくいけば 転移した癌も少し弱るだろう・・・・と

こんな風に書くと 家のお嫁ちゃんはベッドに倒れこんで弱弱しい息をしている・・・・みたいに思われるかもしれないけれどありがたいことに 元気。 治療後の副作用はきついらしくて いつもため息をついたり 戻しそうなむかむかを我慢しているようだけれど 3-4日すると何とか元に戻る。
だから お出かけもするし いつも話は将来のこと
ずっと将来を見ているから 本当にうれしい。


「お母さん 人って誰でも明日のことわかりませんよね? 私は癌の告知を受けて死を意識したけれど 元気と思っていても今日脳卒中で倒れる人もいれば 事故で亡くなる人もいる。そう考えると 死ぬことを考えるのは意味がないと思うんです。 大事なことは 一日 一日を大事に大事に生きていくことですよね」
彼女の言葉です。
ありがたいし 私にもかだいを突き付けられた気がしました。
私も そう先は長くないかもしれないけれど 一生懸命生きていきます。
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天下分け目の戦いを感じる歴史ウォーク Ⅱ

2017-06-03 21:20:10 | 散歩
田植えを終えた田んぼの中を島津義弘の陣跡へ向かいます。
関ヶ原の合戦があったのは9月15日
稲穂が頭を垂れ取り入れを迎えていた時期だったに違いありません。

島津義弘の陣跡
不動の島津 と言われました。
再三の賛成要請を拒否したからです。これにはわけがあります。
島津家にはたくさんの遺恨がありました。
会津征伐の際伏見城への入場を拒否され孤立してしまったこと
石田三成が島津のわずかな手勢を見て存在を軽視したこと 作戦会議で義弘が主張した夜襲策が採用されなかったこと そして最後には馬から降りないで救済を依頼したこと・・・・
を経て 石田三成のために戦う気が失せてしまったということでした。
どこまで史実かはわかりませんが 島津義弘は敵中突破をしながら敗退の道を選んだのでした。


北国街道や中山道を抑えられていたので伊勢道に逃げ この川をたどればいつか合流できるを合言葉に逃げて行ったことはすごいことです。
300人ほどしかいなかった島津隊は80人ほどしか祖国には戻れなかったという。
それでもお殿様のために身代わりになって死んだ者や過酷な逃避行をみんなで成し遂げたことは感動ものです。
その後鹿児島県日置市では関ヶ原戦跡踏破隊が組織され昭和35年から毎年夏休みを利用してその退路を辿る活動がお行われています。
郷土の先輩たちに負けないような立派な大人になりたいと自戒の念を込めての活動をしていることに驚きを感じました。
リーダーのために頑張りたい  そんな思いの強い島津隊はその時点で三成に勝っていたのかもしれません。



開戦地跡です。
9月15日朝8時頃 霧が晴れて松平・井伊隊が動きます。
先鋒隊の福島正則を無視して発砲したものですから面子をつぶされた福島正則は激怒 宇喜多隊に向かって一斉射撃です。

関ヶ原の戦いは井伊に始まって井伊に終わったといわれる一つのわけでしょう。

宇喜多秀家の陣跡に向かいます。
その前に 土塁の遺構です。 
ちょっと盛り土してあるだけのように見えますが 一年に10センチほど削れてしまうことを考えると 大戦から400年以上たっていますから 当時はかなり高いものだったと思えます。
これなら銃撃をかわせるかもしれません。




これはわかりにくいかもしれません。右上から手前に そこから左に向かって つまり直角にへこんだところが分かります。 明らかに人工物 側溝が作られていたようですが


宇喜多秀家の陣跡です。
うっそうとした天満神社の境内です。1万7千人が入ったというには狭いように感じますが
小早川の裏切りによって総崩れとなった宇喜多軍は伊吹山山中に逃げ込みそのご島津家を頼って鹿児島まで落ち延びる。
八丈島にて島流しとされたけれど長生きしたとのこと
亡くなるとき自分の人生をどのように振り返ったのでしょうか?

近くに不破の関の遺構もあります。北限土塁跡です。 
壬申の乱の翌年に作られたという関ですが 鈴鹿の関 愛発の関に並んで三関と言われ治安維持のために東国と近畿への人の移動を監視します。


ただの盛り土のように見えますが 当時は何メートルもあって物見台もついていたそうです。
長さも東西460メートルあるそうで当時としては大きな壁だったのかもしれません。

近くに資料館がありますが 今回はパスです。

東首塚に行きます。
関ヶ原には西首塚と東首坂があります。 関ヶ原の合戦で命を落とした人々を弔うために作った場所です。



関ヶ原の合戦のころ 人口は900人ほどだった。
戦に借り出されて一緒に戦ったのかと思ったら 三か所に分かれて山の中に隠れていたとか
戦争が終わって 稲刈り間近の田圃は荒らされひどいことになっていてもすぐには出てこなかったそうですが 出てきてからの衝撃はなかったようです。
累々と横たわる屍を鳥たちが群がってつついている。
その姿を見て農民たちは「鳥たちがその魂を国へ運んでくれるんだ」と考えたそうですが胸が詰まる話です。
関ヶ原の合戦の後始末の一つとして累々と横たわる屍をこの地と西首塚に運び弔いました。
井伊で終わったといわれる戦後の後始末はこうして平安の世を作っていく礎になったようです。
石田三成がなぜ負けたのか? 井伊直政の誘いに乗って三成のもとをたくさんの人が離れていったのはなぜだったのか

島津隊に代表されるように リーダーはあこがれられる人でなくてはならない。 
力ではなく 知性 それも品のある知性が必要だった・・・と言われたガイドさんの言葉が心に残ります。
今の自分は今までの積み重ねの結果なのだ・・・という言葉も胸にしみました。

今回の歴史ウォーク まだ半分もまわっていません。
また続きを回りたいと思いました。





コメント (2)
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天下分け目の戦いを感じる歴史ウォーク Ⅰ

2017-06-02 21:50:12 | まち歩き
所属している会の初めての企画です。 毎回関ヶ原周辺を舞台に自然観察会を行っているわけですが 気になっていました。 
駅を降りると否応なく史跡を案内する標識が目につきます。 特に近年関ヶ原町は歴史ウォークに力を入れているようで ボランティアガイドも頼めるとか
それなら一度しっかり歩いてどんなふうに歴史が動いたのかその場に立って感じてみたい・・・そんな思いからの企画です。

とても良い天気に恵まれました。(暑くてたまらんということですけれどね)
天下分け目の戦いは9月15日ですから ちょっと季節が違います。
感じ方に影響はあるでしょうか?

ガイドに地元の吉沢 広幸氏を頼みます。
まず関ヶ原町の歴史博物館に向かいます。
壁画に描かれている 関ヶ原合戦屏風図を見て概要をつかみます。

時間の経過を無視してそれぞれの合戦の場面を描いてあります。ドラマが満載の屏風図です。知らないで見ていると確かに大戦です。
またこの屏風図は井伊家がお金を出して描かせているので赤揃えが目立っています。
場面場面を歩きながら辿っていくことにします。

関ヶ原は古来から交通の要衝です。交差点になっている場所は中山道 伊勢道 北国街道が交差しています。かなり昔から歴史を見つめてきた場所なのです。
今回天下分け目の戦いを見て歩くのですが 壬申の乱 日本武尊などの史跡と言われる場所にも遭遇します。
天下分け目の戦いの時間を追って歩くわけにいきませんでしたので 何度も確認しながら歩きます。


資料館の横は陣馬野公園 徳川家康最後の陣跡です。 初めに関ヶ原の入り口桃配山に陣を取っていた家康はここに来て松尾山の小早川秀秋に向けて発砲をしました。

石田三成の笹尾山や松尾山からとても良く見える場所です。

ちなみに桃配山の名前の由来は壬申の乱に由来します。 この山に陣取った大海人皇子に村人が桃を配ったことにから名前がついたそうです。 
この場合の桃はヤマモモですが悪を退散させるといういわれもあり縁起のいい名前です。
三成がこの山のことを知っていたら 戦況は変わっていたのでしょうか?


床几場
ここで首実検をしたのだとか。
関ヶ原戦勝ののち竹中家に命じてここを整備させて 一つの聖地にしたそうで参勤交代の折は中山道からここまで入って一礼してからさきを急いだそうです。
そのころには徳川家康は大権現様ですからね。


電柱にはこんな風にたくさんの武将の名前が紹介されています。 見ているだけでも楽しいです。


左手前の小高い山が笹尾山です。石田三成の陣があったところです。
名前の通り笹野生い茂る山だったそうです。
今では整備されて 幟も立っています。


田圃を挟んで向こうに見える山が松尾山です。小早川秀秋がここでじっとしていました。
私たちは陣を張るということは山の中にひっそりと息を殺してその時を待つのだと思い違いをしていましたが 実際は山頂の木をすべて切り倒し 平地にしてしまうのだそうです。
そうしないと火をつけられたら大変なことになる。
盆地にも山にも兵士がいっぱいという様子を想像すると怖いですね。


笹尾山ふもとにある決戦地
実際にはもう少し畑の中だったそうですが 区画整理で邪魔になったのでここへ移したそうです。
総兵力では優勢にあった西軍でしたが 南宮山に陣取る毛利秀元は東軍にひそかにつながっている吉川広家に進路をふさがれ 安国寺恵瓊らも動くことができない。
そんな中での小早川秀秋の裏切りは西軍が総崩れになるきっかけを作り 何日もかかると言われた天下分け目の戦いも半日ほどで決着を見たのです。


馬防柵です。
鉄砲隊がここから迫りくる敵を狙うわけですが 当時の鉄砲は120メートルほどしか飛ばなくて 飛んでもどこへ行くのかよくわからない。 
20メートルほど近づかないと効果がなかったそうです。それも3割ほど・・・ 効率の悪さのびっくりしました。
それでも当たれば破壊力はすごい。
怖い武器だったのでしょう。


関ヶ原のボランティアさんでしょうか?
大砲を打ってくれます。
ずどんと盆地に響く音はなかなかのもので私も持っているカメラを落としそうに震え上がりました。
こんな音があちこちでしていたら やっぱ震え上がります。
田圃に群がる鳥を追い払う効果もあるようでした。


きっと石田三成も見たであろう景色は 右手前に天満山 奥には松尾山 左奥には南宮山が見えます。 
その麓にあたるところに桃配山が見えます。天下分け目の戦いの舞台です。

ここには石田三成に忠義を誓う島左近の陣跡もあります。

しばしここで起きたドラマを想像しながらお昼休憩です。

この後下に降りて松尾山の方向に向かいます。






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